神さまとの契約

2015年10月03日
マルコ福音書10:2〜9  今、読みました今日の福音書から学びたいと思います。  日本聖公会祈祷書の聖婚式の式文では、このマルコによる福音書10章6節からの言葉、  「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  というこの言葉が式の中心になっています。  教会で結婚式を挙げたいという人に、結婚式の前の準備という勉強の時間を持ちます。  その時には、私は、今日のこの聖書の言葉から、キリスト教の結婚についていろいろ話をし、 「離婚してはならない」と教えます。  これから、結婚しようとする二人は、深くうなずいて神妙に話を聞いてくれます。  さて、今日の福音書ですが、ファリサイ派の人たちが、イエスさまを試そうという下心をもって、イエスさまに近づいて来ました。 「夫が、妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。 創世記には、神さまが、最初の人、アダムとエバをお造りなった時、アダムは「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言い、  「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(2:23〜24)と記されています。   ファリサイ派の人たちは、そのことを知った上で、イエスさまに、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねてきたのです。  これに対して、イエスさまは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。  すると、ファリサイ派の人びとは、自ら律法中心主義、律法厳守主義者であることを自負している人たちです。彼らは、わが意を得たりとばかりに言いました。 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。  モーセが解き明かした律法の書、申命記24章1節以下には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と規定しています。  創世記に定めたれている教えと、モーセの律法で、離縁状を書いて、これを持たせ、家を去らせることができるいうこととは違うではないかと、律法と律法の矛盾を取り上げて議論を吹きかけてきたのです。  このように、モーセの律法では、離縁を認めているではないか、さあ、どうなのかと、迫ってきたのです。  どちらが間違っているといっても、議論になるような質問でした。  イエスさまを試そうとする敵意に満ちた質問でした。  これに対して、イエスさまは言われました。   「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と。  神さまの本来のご意思は、創世記2章24節にあるように「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」ということではないか。ところが、お前たちは、神さまのみ心を理解しようとしないし、従おうともしない、心が頑固なので、モーセが次善の策として、この掟を書いたのだと言われました。  その当時のユダヤ人の間では、律法を守るということに命をかけている一方で、きびしい律法の網の目をくぐり抜けようとする律法の解釈や方法が絶えず議論されていました。  絶対に離縁してはならないと教えられる一方で、どのような時に離縁できるかという抜け道を考えたり議論したりしていたのです。  当時のユダヤ社会は、男性支配、男尊女卑、女性の立場が極端に低く見られ、差別されていた時代でしたから、夫の側からだけしか離縁は認められず、夫の側の理由で、一方的に離縁されていました。  その中でも、「夫は、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせよ」というような、夫からの理由はどんなことでもよいのか、また妻が姦淫の罪を犯した時だけ離縁できるのか、というような議論も絶えず起こっていました。  また、この離縁状には「見よ、なんじは何人と結婚するも自由なり」という言葉が、かならず記されていたと言われます。  これに対して、イエスさまは、「夫と妻は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と、夫婦の原点を強調され、モーセによる律法は、「お前たちの心が頑固だから、そのためにモーセが書いたのだと一蹴されました。  さて、キリスト教は、結婚観として、一夫一婦制を守っていることは誰でも知っています。広く人類の歴史をふり返ってみましても、母系社会から父系社会へと移っていき、結婚制度も一夫多妻制から、一夫一婦制へと移り変わってきたと言われます。  このように男女の関係、夫婦の関係というものも時代の移り変わりによって、変わってきていることを、現在の私たちの時代でも感じます。  しかしどんなに、時代が変わってもキリスト教が持っている一夫一婦制という結婚観は変わらないものだと思います。  その理由は、ただ、制度や習慣というだけではなく、私たちが持っている神さまへの信仰の内容と、深くつながっているからだと思います。  私たちは、唯一である神さまを信じています。唯一神教と言います。十戒の第一「我はなんじの神・主なり。我のほかなにものをも神とするなかれ」と命じられ、第二には、偶像をつくり、これにひれ伏し仕うるなかれ」と偶像崇拝が禁じられています。  それでは、この唯一の神さまと私たち一人一人の関係は、どのような関係でしょうか。  私たちの方からは、神さまを信じる、信仰する、信頼するという関係ですが、信仰の関係とは、どのような関係でしょうか。  たとえば、親子、兄弟姉妹というのは、血のつながりという関係です。親子や兄弟姉妹の間では、ケンカをしても、たとえ絶縁を宣言しても、どこまで行っても親は親であり、子は子です。兄弟は兄弟です。血縁関係というのは切っても切れない関係です。その関係は消えません。しかし、逆に「血肉の争い」となり、普通の人間関係以上に恐ろしい事件が起こることがあります。  これに対して、結婚、夫と妻の関係とは、他人同士が、ある時に出会って、夫婦になろうとお互いに約束し合ってなる関係です。その関係をつなぐのは、約束であり、契約の関係です。  どの結婚式でも、「私はあなたを夫とします」、「私はあなたを妻とします」と誓約して、結婚が成り立ちます。  お互いの意思と信頼を前提としてする「約束」ですから、どちらかの意思が崩れたり、信頼がなくなると、約束というものは、破綻してしまいます。  夫婦の関係は、私たちと、神さまの関係に似ています。  私たちは、神さまとの出会いがあり、「私は、あなたを信じます」と約束して、神さまを信仰する関係になります。洗礼式は、その契約を目に見えるかたちで表す儀式です。  私たちの方から信仰告白をし、誓約をし、神さまの方からは「救い」が約束されます。私たちが受ける堅信式は、その契約を確認して固める儀式です。  夫と妻の契約関係と、神さまと私たちの契約関係の違いは、夫婦の関係は、人と人との横の関係、対等の関係ですが、神さまと私たちの信仰関係は上と下、対等ではない上下の関係、恵みと服従の関係です。  このように考えますと、夫婦の関係は、私たちと神さまの関係が投影された、目に見えるモデルのように考えることができます。  従って、唯一の神を信じ、神にすべてを委ね、神に従う生き方と、目に見える夫を、妻を信頼し、愛し合う生き方が重なるのだと思います。  イエスさまの結婚についての教え、マルコ福音書10章6節以下を、神さまとの関係に置き換えて読んでみますと、「神さまは、私たちをお造りになりました。それゆえ、人は、神さまと結ばれ、私たちは、神と一体となります。だから私たちと神さまはもはや別々ではなく、一体です。従って、神さまが結び合わせてくださった関係であるから、どんなことがあっても、人の事情や都合によって、その関係を離してはなりません。」  今日の福音書のイエスさまの言葉を、このように置き換えてみることによって、キリスト教の結婚観の深い意味がわかります。人と人との関係では、どんなに固い約束をしても、守れないことがあります。契約を破棄したり、損害賠償を請求したりすることが起こります。  神さまとの関係でも、私たちは、かつて、神さまとの間で交わした約束、契約を忘れ、背いたり、無視したり、神さま以外のものに従おうとしたりすることがあります。  しかし、神さまの方からは、決して約束を破られることはありません。  さらに、神さまは、預言者を通して、新しい契約を結ぶことを約束されました。(エレミヤ31:31〜33、32:40)  それは、イエスさまによって実現しました。  イエスさまは、弟子たちとともに最後の晩餐をなさった時、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになりました。 彼らは皆その杯から飲みました。そして、イエスは言われました。「これは、多くの人のために流すわたしの血、契約の血である」と。(マルコ14:23、24)  聖餐に与るたびに、イエスさまの「契約の血」を頂き、そのちぎりを、改めて確認します。  神さまと私たちとの契約の関係を、人と人との関係や、夫婦の関係を見ることによって、ふり返ってみたいと思います。 〔2015年10月4日 聖霊降臨後第19主日(B-22) 下鴨キリスト教会〕