あなたに欠けているものが一つある。

2015年10月10日
マルコ10:17〜27  今、読みました今日の福音書、マルコによる福音書10章17節から27節まで、からご一緒に学びたいと思います。  ある時、イエスさまが、旅に出ようとされた時、ある人がイエスさまの所に走り寄ってきました。  この人は、どんな人かと言いますと、「たくさんの財産(土地)を持っていたからである」(10:22)と記されていますから、大金持ちだったことがわかります。マタイによる福音書では、「この青年は」とありますから若者であったこともわかります(19:20)。また、ルカによる福音書では、「ある議員が」と書いてあり(18:18)、「大変な金持ちだった」(18:23)とも記されています。  この3つの福音書の説明を全部寄せ集めますと、イエスさまの所にやってきたこの人は、たくさんの土地や財産を持っている大金持ちで、ユダヤの議会(サンヘドリン)の議員であった青年だったということになります。大変な財産と、地位と、若さ、を持っている人だったことがわかります。  この人が、イエスさまのところに走り寄ってきて、ひざまずいて尋ねました。 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と。  すると、イエスさまは、まず、問いそのものにはすぐに答えず、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われました。  この青年は、走ってきて、イエスさまの前にひざまずいて尋ねました。真面目な青年が、真剣にイエスさまに質問しているのですが、イエスさまの第一声は、「善い先生」と言った「善い」にこだわって、「出鼻をくじくような」「小さな言葉にこだわる」ような言葉で返されました。その訳は、最後まで読み進みますと、その意味がわかるような気がします。  そして、イエスさまは、「何をすればよいでしょうか」という問いに対して、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(19節)と、お答えになりました。  ひと口に言えば、律法、掟を守りなさいということです。それも、当時のユダヤ人なら誰でも知っている、子どもの頃から教えられている「モーセの十戒」という最も基本的な律法です。十戒の第一から第四までは、唯一の神を信ぜよ、偶像崇拝の禁止、神の名をみだり唱えるな、そして、安息日を守れという、神さまに対する戒めです。そして、第五から第十までは、社会生活の中で、人と人の関係の中で守るべき掟が記されています。イエスさまは、誰でも知っているこの第五から第十までの掟を示し、これを守りなさいと言われました。 すると彼は、この青年は、すぐに「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。(20節)  聖書に書かれていませんが、この青年の思いを代弁しますと、「そんなことは、分かっています。教えられた律法は、全部、完全に守っています。しかし、何かが足りないのです。心が救われていないのです。どうしたら救われるのでしょうか」と言って、イエスさまの所へやってきたのです。  「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねてきたのです。永遠の命とは、死なない命という意味ではありません。神の国、天国と同じ意味で、これを得るということは、「ほんとうの救い」を得るということです。  私の心が、ほんとうに救われた、救われているという実感を持つためには、何をすればよいのでしょうかと、この金持ちの青年議員は、イエスさまの前にひざまずいて尋ねたのです。すると、イエスさまは、彼を、じーっと見つめて、慈しんで言われました。 「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)  イエスさまは、この青年をバカにして、からかって言ったのでもない、皮肉を言ったのでもない、偉そうなことを言ったのでもありませんでした。「慈しんで」とありますから「愛をもって」「心の底まで十分に理解して」、じーっとその目を見ながら、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。そして「家に帰って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言われました。  先ほど言いましたように、この人は、大金持ちで多くの財産を持っていました。若くしてユダヤ議会の議員であるという社会的な地位も持っていました。それに、これから将来に夢を持つことが出来る「若さ」を持っています。誰からも文句が言われないような信仰生活もちゃんと守っています。地位、財産、名誉、名声、信仰心、若さにあふれた肉体、将来への希望、誰もが羨むような生活を送っています。もうすでに十分手に入れています。  いわば、誰もが羨むような生活、99パーセント満たされた生活をしているのです。しかし何かが足りない。最後の1パーセントの何かが足りない。そのために何か満たされない、ほんとうに充実した生活が得られない、救われていない、そのような思いでイエスさまの所にやってきたのでした。 「永遠の命を得るためには、何をしたらいいのでしょうか」と言って、尋ねてきたのです。  言いかえれば、「目に見えるところは、すべて満たされています。しかし、心は救われていないのです。ほんとうに救われるためにはどうしたらいいのでしょうか」と真剣に尋ねています。  イエスさまは、この青年の思いをしっかりと受けとめて言われました。「そうだ、あなたは、あらゆる面で満たされている。しかし欠けているものが一つある。100の内、1つが欠けていると、後の99が全部そろっていても、すべてが満たされたことにはならない。その1つが99を空しくしてしまう。」  その99に匹敵する1つを手に入れるためにはどうすればよいのか。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」  その答えは、残酷で、不可能に近い内容でした。99対1の1を手に入れるために99を手放しなさいと言われるのです。財産も名誉も地位も、今まで、これこそがいちばん大切なのだ、これさえあればと思ってきたものをすべて手放しなさいと勧めたのです。そして、後の人生をわたしに従って生きなさいと、イエスさまは言われました。  たくさんの財産を持つ大金持ちで、議員である青年は、イエスさまのこの言葉を聞いて、ガックリしました。この人にはそんなことは到底出来ないことでしたから、気を落とし、悲しみながらイエスさまのもとから立ち去っていきました。 その理由は、この人は、「たくさんの財産を持っていたからである」とあらためて記されています。  ある教会で、聖書の勉強会をしていて、この聖書の個所を取り上げ話し合っていた時、ある婦人が、「それでは、私たちは、自分の財産をぜんぶ処分して、どこかに寄付しなければ、救われないのでしょうか」と質問されたことがあります。  まだローンが残っていますけど、土地も家も、老後のためにと思って少しは貯めてある定期預金も、みんな処分して、解約して、どこかに寄付しないと、救われないということでしょうかと、真剣に問われました。  イエスさまが、ここでおっしゃりたいことは、すべて財産を持っている人、社会的に地位や身分を持っている人、そのような人は救われないと言っておられるのではありません。 定期預金いくらまでだったらいいのですか、普通預金ぐらいだったらいいのですかというようなことを問題にしておられるのではありません。  だいじなことは、お金、お金、お金さえあれば何でも出来る、人の心さえ支配できる、何でもお金で解決できる、要するにお金だと、お金の力を絶対のものとして信じている人がいれば、その人は永遠の命、ほんとうの救いからほど遠いですよと言われるのです。  今日、私たちは、貨幣経済の中にとっぷりと浸かって生きています。言いかえれば、物質主義、物質文明の中にいます。そして、世の中は便利になり、生活も豊かになりました。  しかし、その反対に、心の問題はどうでしょうか、そのために格差社会だとか、自然環境の破壊とか、自殺者の増加だとか、すべての人間関係が壊れてしまう、今、改めて新聞やテレビの受け売りをしなくても、皆さんご自分で感じておられるところだと思います。  イエスさまが、この青年につきつけたきびしい答えは、お金の力に従いますか、奴隷のように仕えますか、それとも、神さまの御心に従おうとしますか、どちらにしますかという挑戦の言葉でした。  お金や地位や権力の力に頼り、これさえあれば幸せになると信じていながら、一方では、神さま、神さまと言って、神に頼っています。一方の足を地位や財産という岸につけ、他の一方の足を神さまという舟につけていて、舟が岸から離れと、両方の足が開いて、耐えられなくなって水に落ちてしまいます。そのような状態で「助けてほしい」と言っているのようなものです。  最初に、この青年が、イエスさまの所に来た時、「善い先生」と言って呼びかけた時、イエスさまは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言われました。それは、イエスさまを外観で捕らえ、人々の評判や噂を聞いて、ただ「善い先生」と呼びかけたことに対して、イエスさまは、「善い」とは何か。あなたは、真剣に神さまのことを考えないで、人と人との関係のことしか考えていないではないかという、問題の核心を、最初から指摘して述べておられたことに気がつきます。  マタイ6:24 に、イエスさまは言っておられます。  「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。  この青年は、まさに神と富とに両股をかけて、幸せを得ようとした人でした。心から神を信頼し、神の方へ身を置くことができずに去って行った人でした。  財産をたくさん持っていればいるほど、地位や権力を持っていればいるほど、その力に執着し、これを手放すことはできません。イエスさまは、弟子たちに「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(24,25節)と言われました。  私たちは、毎日の生活の中で、何かが足りないと、なにか心が満たされないと感じる時、今日のイエスさまの言葉を思い出したいと思います。お金や地位や名誉や権力や若さや健康を誇り、「これさえあれば、幸せになれるのに」と、ひたすら求め、これを神さまのように敬い、手に入れることに心血をそそいでいる時、その考え、価値観を捨てなさいと言われます。そして、イエスさまに従う、イエスさまの御心に従う、イエスさまならどうなさるだろうかと、イエスさまを中心にして考えられるような生き方をしなさい。イエスさまに、すべてを委ねる生き方に、変えなさいと言われています。 〔2015年10月11日  聖霊降臨後第20主日(B-23) 加悦聖三一教会において〕