偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。
2015年10月16日
マルコ福音書10章35節〜45節
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書によりますと、イエスさまが、多くの人たちに話をし、さまざまな奇跡を行ない、宣教活動をしておられたのは、イスラエルの北の方のガリラヤ地方でした。
これに対して、「エルサレム」は、南の方のユダ地方にある大きな街で、そこには、昔からユダヤ王の宮殿があり、立派な神殿があり、ユダヤ教の中心地でした。ところが、イエスさまは、このエルサレムには、一度も行っておられません。
ところが、ある時、イエスさまは、突然、顔をまっすぐにエルサレムに向け、弟子たちを連れて歩きはじめました。
今日の福音書、マルコ福音書10章35節の前、32節には次のように記されています。
「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と言い、さらに「人の子(ご自分のこと)は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(ローマ兵)に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は3日の後に復活する。』」(32〜34節) とこのように言われました。
これは、イエスさまが苦難を受け、殺されるであろうということを、弟子達に予告された3回目の予告です。
これを聞いて、12人の弟子たちの中のゼベダイの子ヤコブとヨハネと呼ばれる兄弟が、そおっと、イエスさまのところに来て、「先生、お願いがあるのですが。私たちの願いをぜひかなえていただきたいのですが」と言いました。
イエスさまは、「何をしてほしいのか」と言われると、ふたりは言いました。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」と。
3度目の予告された直後のことです。
イエスさまが、1回目の予告をした時には、ペトロはイエスさまをわきに呼んでいさめました。するとイエスさまは、ペトロに、「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」といって、きびしく叱られました。(8:32)
2回目の予告を聞いた時には、その直後に、弟子たちは「誰がいちばん偉いのか」と議論し合っていました。それを聞いて、イエスさまは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われました。(9:35)
弟子たちには、イエスさまの思いが、まだ理解できていないとしか言いようがありません。
そして、その後、3回目(10:33)の予告がありました。その直後に、ヤコブとヨハネが、イエスさまにお願いに行きました。ヤコブとヨハネは、主イエスに、「死なないでください」とか、「そんなことは言わないでください」と言いに行ったのではありません。
主イエスのなさった3度目の予告を、受け入れました。
それが神さまのみ心であることもよく分かっていますと、いかにも理解を示すような前提に立っています。
そこで「先生が栄光をお受けになるときは」と言ったのです。あなたは、神の子です。その神の子が、人間の肉体をとってこの世に来られました。そのことはよくわかっています。そして、死んでよみがえって、再び神の座に戻られようとしています。そのこともよく分かっています。
ついては、その時には、神の栄光の座に着かれる時には、わたしたちを、イエスさまの栄光の座に最も近い、重要な地位につかせて下さいと、イエスさまにお願いしたのです。
「右の座」は最も栄誉を受けるべき者が座る座、そして「左の座」は、次に栄誉を受ける者が座る座です。
自分たちが誰よりもいちばん上の特別席に座れるように、予約しておこうとしたのでした。その時には、イエスさまと同じ栄光を受けられることを願い、それができると考え、その中で最も高い地位を望んだのです。
これに対して、イエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっているのか。何を言っているのか全然分かっていない。」と言われました。
分かったようなことを言って、全然わかっていないではないかと、嘆いておられるイエスさまの気持ちが伝わってきます。そこで、イエスさまは言われました。
「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。
「苦い杯」とは、神の憤りの象徴、苦難の象徴として用いられる言葉です。(エゼキエル23:32,33、マルコ14:36)
先ほど読まれました「旧約聖書」、イザヤ書53章5節以下には、このように預言されています。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、
わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、
毛を切る者の前に物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。(5〜8節)
イエスさまが言われる「わたしが飲む杯」とは、預言者イザヤが預言するこのような苦難を受けることだと言われるのです。人々の罪をすべて自分自身に負い、屠り場に引かれるいく小羊のように、人々の咎のため捕らえられ、裁きを受けて、わたしが命を取られるということなのだ。
イエスさまが、呷(あお)ろうとする苦い杯とは、イエスさまが負った苦しみ、捕らえられ、侮られ、嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、死なねばならないというこれから始まろうとする苦難の道程のことを言っておられるのです。
これと同じ苦しみを、わたしが受けるのと同じ苦しみを、おまえたちは受けられるのかとお尋ねになりました。
イエスさまが栄光をお受けになるということは、このような苦難と死の道を通らなければならない。そのことがわかっているのかと問われました。
すると、ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。
さらに、イエスは言われました。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになるだろう。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、それはわたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と。
たしかに、あなたがたも、わたしと同じ苦しみを受けることになる。キリストの弟子だということで迫害を受け、苦しみを受け、最後にはキリストのために死ぬことになるだろうと、彼らの殉教にいたる生涯を予告されました。
しかし、そうだからと言って、栄光の座に着いておられるイエスさまの右や左に、誰が座るかというようなことは、誰にもわからない。それは、父である神さまがお決めになることだと言われました。
さらに、ほかの弟子たちの次元の低い無理解が示されています。ヤコブとヨハネが、他の弟子たちを出し抜いて、イエスさまに、特別の待遇をお願いしに行ったと聞いた他の10人の弟子たちが、ヤコブとヨハネに腹を立て始めたというのです。
ほかの弟子たちを出し抜いて、自分たち兄弟だけの、死後の地位をお願いしたヤコブとヨハネの、自分さえよければよいという身勝手さ、エゴだけではなく、これを聞いた他の10人の弟子たちも、怒ったというのですから、同じ穴の狢、同類ということになります。
イエスさまの思いが、理解できない弟子たちであったことがわかります。
このように、マルコの福音書には、これでもかこれでもかというほど、弟子たちの無理解が強調されています。
しかし、私たちは、ただ、弟子たちの無理解を、主イエスの心をわかろうとしない弟子たちを、笑ってみているわけにはいきません。
私たちは、どれほど、イエスさまの心の内を理解できているでしょうか。イエスさまのみ心がわかっていると言えるでしょうか。
私たちは、長年、信仰生活を送っているのですから、イエスさまのみ心がわかっているはずです。
イエスさまのことが、イエスさまは、何を喜ばれ、何を嫌がられるのか、どんなことを悲しまれるのか、どんなことをお怒りになるのか、わかっているはずです。しかし、実際は、主イエスに最も近いところにいて、よくよくイエスさまのことを知っているはずの弟子たちでさえ、そうであったように、私たちも、主イエスに対して、慣れっこになり、鈍感になってしまって、次元の低い、ピントはずれの求め方やお願いごとをしてしまっているようなことはないでしょうか。
そこで、イエスさまは、一同を呼び寄せて言われました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、すなわち、神を知らない人たち、ほんとうの神を信じていない人たちは、支配者と見なされている人々が、民を支配し、偉いと言われる人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、神さまを知り、ほんとうの神さまを信じている人は、そうであってはならない。」
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
神を信じ、イエスさまを信じて生きる生き方は、この世の神を知らない、神を信じない人々の生き方とは違うはずだと言われます。
何がだいじで、何がだいじでないかという価値観も、違うはずです。世間の人々が偉いと思うような支配者や権力者が偉いのではなく、ほんとうに偉い人は、仕えられる人ではなく仕える人なのだと言われます。
「あなたがたの中で偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられます。
それは、単なる道徳訓や修業のためではありません。それは、イエスさまが、そのように生き、そのようにして死なれたからです。
「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
わたしが生きたように生き、わたしが死んだように死になさいと言われるのです。
私たちが「仕える人」になるのは、主イエスに従おうとする者だからです。
D・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)というドイツの神学者の「共に生きる生活」という書物のなかに、「仕えること」という題で書かれた所があります。
くわしくは紹介できませんが、項目だけをあげますと、「仕えること」それは、
「言葉をつつしむこと」、
「自分自身を取るに足らない者と思うこと」、
「他の人の言葉に耳を傾けること」、
「他者(隣人)に対して積極的に助力すること」、
「他者の重荷を負うこと」、
「み言葉を証しすること」
「権威の奉仕」と、あります。
仕える人になりなさいということは、教会の中だけではなく、生活のあらゆる場面で仕える者となることが求められています。
「弟子たちの無理解」は、イエスさまの十字架の瞬間まで続きました。しかし、後年、実際に、弟子たちは、キリストの十字架を見、3日目に空っぽになった墓を見てキリストの復活を体験し、さらに聖霊を受けることによって、彼らは、生まれ変わりました。弟子たちは、イエスさまのみ心が、ほんとうに分かる者に、変えられていったのです。仕える者として、イエスさまのみ跡を踏む者とされました。
イエスさまは、ゼベダイの子たちの殉教を予言しましたが、ヤコブは、西暦44年ごろ、ヘロデ・アグリッパ1世によって殺されました(使徒12:2)。ヨハネは、後に使徒会議に登場するエルサレム教会の柱と目される教会の指導者の中に名を連ねています(ガラ2:9)。このヨハネも殉教したと伝えられています。
イエスさまは、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問われました。
そして、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われました。
イエスさまが言われた「わたしが受ける洗礼」、「わたしが飲む杯」は、今日、私たちの教会が大切にしている洗礼式と聖餐式を思い起こさせます。洗礼を受け、聖餐にあずかるクリスチャンは、それぞれの十字架を背負って、イエスさまに従わねばならないことが、示めされているのではないでしょうか。
イエスさまは、言うだけでなく、教えるだけでなく、ご自身の生き方を、生き様を通して、そして、十字架につけられて殺された、死に様を通して、「仕える者」のあり方を示されました。
〔2015年10月18日 聖霊降臨後第21主日(B-24) 於・東舞鶴聖パウロ教会〕