何をしてほしいのか。

2015年10月23日
マルコ福音書10章46節〜52節  ご存じのように、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの 福音書は、イエスさまの誕生から、宣教活動、十字架上の死、ご復活に 至るまでの生涯が記されています。  そして、その間、弟子たちや集まった人々に、神さまについて教え、数 々の奇跡を行われた様子が記されています。  これは、イエスさまの伝記ですが、単に年代順に、その年月を追って書 かれたものではなく、イエスさまが亡くなった後、30年、50年、70年も経 ってから、イエスさまとは誰か、何者だったのかということを「伝える」 ために書かれたものです。  マタイによる福音書とルカによる福音書を編集した記者は、明らかにマ ルコによる福音書を見て書いていますし、ヨハネ福音書の記者は、ギリシ ャ文化の影響を受けた教会の中で、独自の資料を手に入れ、編集されて 書かれたものとだと言われています。  マルコによる福音書は、イエスさまが亡くなられた後、30年ぐらい経 って、教会で語り継がれている事柄や書きつけたれた言行録の断片や資料が 集められて、独特の編集がこらされ、西暦60年〜65年頃に書かれたもの と言われます。  4つの福音書には、それぞれの特徴があることが指摘されていますが、 マルコによる福音書には、その特徴の一つとして、「弟子たちの無理解さ」 が強調されていること分かりります。  イエスさまが、まだ分からないのかと言って教えておられるのに、それで もなおイエスさまのみ心がどこにあるのか理解できない弟子たちのことが 描かれています。  さて、今日の福音書、マルコによる福音書10章46節〜52節ですが、バ ルティマイという盲人を癒やし、見えるようにされたという奇跡物語が記さ れています。  エリコという町は、エルサレムから直線で約20キロほどの距離にありま す。イエスさまと弟子たちが、このエリコの町に着き、そこからエルサレム に向かって出発しようとされた時のことでした。  イエスさまには、大勢の群衆がついて歩いていました。  その道端に、バルティマイという盲人が、物乞いをしていました。「ティ マイの子でバルティマイ」と、はっきりと名前が記されていますから、この 町の人なら誰でも知っている、いつもそこに座っている乞食だったと思わ れます。  生れつきの盲人だったのか、大人になって盲人になったのかはわかり ません。上着を広げてそこにお金を投げ入れてくれるのを待っていました。  そこに、「ナザレのイエスが来たぞ−」という声が聞こえ、通りかかる人々 が、叫びながら走って行きました。  バルティマイはそれを聞いて、叫びました。  「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。 当時のユダヤ 人は、昔から救い主が来られるとしたら、それはダビデの子孫だ、ダビ デ王の再来として、救い主が現れると教えられていました。従って、「ダ ビデの子」というのは、「救い主」、「キリスト」を意味する呼び名でした。 「ダビデの子」という、この盲人の叫びは、信仰告白の言葉でもあったの です。バルティマイは、たぶん、「ナザレのイエス」という方について、多く の病人を癒やしておられるという噂を聞いて知っていたのでしょう。人の ざわめき、ささやきを聞いて、バルティマイは、イエスさまが近づいて来ら れるのを知って、思わず叫びました。  わたしの目をいやしてもらえるのは、この方しかいない、わたしを救って くれる方は、この方しかいない。今、この機会を失うと2度とお会いできな い。そういう切羽詰まった思いがあったに違いありません。  ところが、まわりにいた多くの人々が叱りつけて黙らせようとしました。 それでもバルティマイは、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでく ださい」と叫び続けました。人が止めようと、叱ろうと、押さえつけよう と、必死になって叫び続け、命がけで、狂ったようにイエスさまを求める 姿を想像することができます。  イエスさまは、バルティマイの悲壮な声を聞いて立ち止まり、「あの男を 呼んで来なさい」と言われました。  そこで人々は、この盲人を呼んで言われました。  「安心しなさい。立ちなさい。あの方がお呼びだ」と。  すると、バルティマイは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのと ころに来ました。  イエスさまは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。  すると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いまし た。そこで、イエスさまは言われました。  「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  盲人は、すぐ見えるようになり、なお、エルサレムに向かって進まれるイ エスさまに従って行きました。  これが今日の福音書は、バルティマイという盲人がいやされ、見えるよ うになったという、他の福音書にも紹介されている奇跡物語ですが、ただ それだけではなく、ここにマルコ福音書記者がさらに言いたいことが示さ れています。  それは、先週読まれた福音書の個所との関係です。マルコ福音書10章 35節〜45節(聖餐式聖書日課225頁)をもう一度見てください。  イエスさまは、弟子たちに、「わたしはエルサレムへ上って行く。わたしは 祭司長や律法学者たちに捕らえられ、死刑を宣告されて、異邦人に引き 渡される。異邦人は、わたしを侮辱し、ムチ打った上、殺すであろう。そし て3日目によみがえるであろう」と、3回も予告されました。  その3回目の予告の直後のことです。  12人の弟子たちの中の2人、ゼベダイの子ヤコブと、ヨハネという兄弟 が、イエスさまの所にやって来て、イエスに言いました。「先生、お願いす ることをかなえていただきたいのですが。」それを聞いてイエスさまが、 「何をしてほしいのか」と言われました。  この「何をしてほしいのか」「何をわたしに求めているのか」と言われたの です。  そして、すぐ後の出来事として記されている今日の福音書の個所になる のですが、エリコで、盲人バルティマイが、「ダビデの子よ、わたしを憐れ んで下さい」と叫び、イエスさまはその声を聞いて、さきほどのヤコブとヨ ハネに対するのと、同じ問いを投げかけておられます。「何をしてほしい のか」と。  イエスさまが問われた「何をしてほしいのか」という言葉を中心にして2 つの出来事が記されています。  何をして欲しいのか、わたしに何を求めているのかと問われたことに対し て、ヤコブとヨハネ、バルティマイは何と答えたでしょうか。  12弟子の中の二人、ヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わた しどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願い しました。  すると、イエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっ ていない」と言われ、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける、 洗礼を受けることができるか」と問われ、さらに「わたしの右や左にだれが 座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許さ れるのだ」と答えられました。  一方、イエスさまは、バルティマイにも「何をしてほしいのか」と訊かれ ました。  すると、盲人バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたいのです」 と言いました。これに対してイエスさまは「行きなさい。あなたの信仰があ なたを救った」と言われ、そして、この盲人の目がすぐに開かれ、見える ようになりました。  このように、イエスさまが発せられる「何をしてほしいのか」という問いに 対して、弟子であるヤコブとヨハネの願いと、バルティマイの願いを対比 させることによって、弟子たちがいかに分かっていなかったかということ がうかび上がってきます。  イエスさまの近くには弟子たちをはじめ、大勢の群衆が取り囲んでいま す。 彼らは、道端で物乞いをしている盲人を無視し、必死になって救いを求 めるこの男を遮って、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、ひ たすら救われることを求め叫んでいる声を無視しようとしました。  イエスさまの周りを取り囲んでいる人たちは、イエスさまに失礼だと思 った のでしょうか、お前なんかにそんなことを言う資格も価値もない、お前な んかの出てくる場所ではないと考えたのでしょうか、要するに、道ばたで 物乞いするしか生きていけない立場の弱い者の叫びを拒否しようとした のです。 それがイエスさまを取り巻く人々であり、弟子たちだったのです。ここで エリコの市民や弟子たちには、ほんとうにイエスさまの心がわかってい なかったのだということを示しています。  敬虔に見え、謙虚そうな態度、信仰深いように見える態度をとりなが ら、反対に人を抑圧してしまうことがあります。いかにも神さまを敬って いるように見える敬虔さや謙虚さが、単に自分流の主義主張に陥って しまい、人を裁いてしまっているようなことがよくあります。  イエスさまは、私たちに対して、まず「何をしてほしいのか」と、求める ところを聞いてこられます。神さまに対して、イエスさまに対して、あなた は何を求めるのか。何を願っているのかと尋ねてこられます。私たちの 祈り、願いは、先ず、神さまの方から、イエスさまの方から、聞いてこら れる声に耳を傾けることから始まります。  そして、第2に、求めるものの中身、質が問題にされます。  バルティマイは、ひたすら「見えるようになること」を求めました。もっと も小さい者、弱い者、差別され、屈辱の中にある者が、見えない者が見 えるようになることをひたすら願いました。  一方、弟子たちは、自分だけが良い地位につくことを求め、支配する 立場に立つことを求め、誰がいちばん偉いのかと議論しました。それに 対して、イエスさまはいつも、「仕える者になりなさい」「すべての人の僕 となりなさい」と言われました。イエスさまは、弱者の側に立ち、小さい者 に顔を向け、自分の上に降りかかる苦悩にうめくうめきと、叫びに耳を 傾けておられます。  最後に、バルティマイの「信仰」について考えみたいと思います。イエ スさまが、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われる と、盲人はすぐ見えるようになったとあります。奇跡が起こりました。 どのようにして見えるようになったのかはわかりません。しかし、その瞬 間、バルティマイは救われたのです。その時、「あなたの信仰があなた を救った」と言 われました。バルティマイの「信仰」とは、いったいどんな信仰だったの でしょうか。イエスさまに何か良いことをしたわけでもありませんし、とう とうと自分の信仰について語ったわけでもありません。  彼がしたことは、この瞬間、命がけでイエスさまを信頼し、イエスさまに 頼ったということです。わたしを救ってくださる方は、あなたしかいないと、 イエスさまに願い求めました。  この方しかいないというこの思いは命がけでした。恥も外聞もなく叫び 続け、訴えつづけたのです。そして、目の見えないこのバルティマイには、 イエスさまが見えたのです。そして、一方、目が見えている弟子たちや 群衆には、イエスさまが見えていなかったということになります。  バルティマイは、肉体の目が見えるようになると共に、ほんとうの意味 で、イエスさまが「見えるようになり」それは、同時に、イエスさまに従うこ とでありました。イエスによって、「見る」ことが出来るようにされた者こ そ、まことの弟子となることができるのです。「なお道を進まれるイエス に従った。」これから始まるイエスの十字架への道行きに従ったことが 暗示されています。 〔2015年10月25日 聖霊降臨後第22主日(B-25) 於 ・ 四日市聖アンデレ教会〕