心の貧しい人々は、幸いである。
2015年10月31日
マタイによる福音書5章1節〜12節
教会の暦では、今日、11月1日は、「諸聖徒日」という祝日です。復活
日や降誕日と同じように「主要祝日」の一つです。
キリスト教会の2千年の歴史の中で、イエスさまを神の子救い主として信
じ、生涯をかけて、信仰の証し人として、福音を宣べ伝えるために、世界中
に遣わされ、殉教した人たちがいます。
そのお陰で、現代に生きる私たちにも、キリスト教が伝えられ、神さまの
恵みを知り、信仰に生きる喜びと感謝に満ちた生活を送ることができます。
キリストの福音を命がけで伝えた人たちは、後の時代になって、聖人と
して崇められる有名な人もいれば、無名の宣教師、伝道者もいます。その
ような有名、無名にかかわらずすべての聖人を記念する日がこの日です。
さて、毎年、この「諸聖徒日」の聖餐式では、福音書は、マタイの福音書
5章1節から12節が読まれます。
このマタイによる福音書5章から7章までは、「山上の垂訓」とか「山上
の説教」と呼ばれ、イエスさまが、山の上でなさった長い説教の冒頭の部
分です。
その最初の所ですが、イエスさまは、このように語り始められました。
「心の貧しい人々は、幸いである。(3節)
悲しむ人々は、幸いである。(4節)
柔和な人々は、幸いである。(5節)
義に飢え渇く人々は、幸いである。(6節)
憐れみ深い人々は、幸いである。(7節)
心の清い人々は、幸いである。(8節)
平和を実現する人々は、幸いである。(9節)
義のために迫害される人々は、幸いである。(10節)」
このように8つの祝福が語られています。
私は、ずいぶん前からこの聖書の言葉を読み、いろいろな注解書も読ん
でみるのですが、なかなかその意味が、すっきりしませんでした。
心は、貧しいより豊かなほうが幸せですし、悲しんでいる人よりも、喜ん
でいる人のほうが幸せです。義に飢え渇いている人よりも、義に満ちてい
る人のほうが幸せです。‥‥‥これからの平和を実現しようとする人より
も、すでに平和を得ている人、平和だと思っている人のほうが幸せです。
義のためといえども迫害される人よりも、迫害されない人のほうが幸せで
す。
どんなに理屈をこねてみても、普通の人が、常識的に考える「幸せ」とい
うものは、そういうものだと思うのです。
ところが、イエスさまは、ここで、一般の人々の常識とは違う、まったく
逆のことを教えておられるような気がします。
そのような思いで、悶々としている、ある時、私は、ドイツの有名な神学
者、デイトリッヒ・ボンへファー(1906年〜1945年、39歳でナチスにより刑
死)という牧師の説教集を読みました。
その中の「マタイ福音書第5章−キリスト教的生活の「特異なもの」につ
いて」と題する説教に触れ、共感を覚え、なるほどと思うことができまし
た。
その先生は、このように言われます。
マタイによる福音書の流れを見ると、イエスさまは人々の前に姿を現し、
ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒れ野において、
40日40夜断食して悪魔の試練を受けられました。
そして、ガリラヤ湖のほとりで、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネに
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って、彼らを招
き、彼らは、網も舟も父親も、そこに残して、すぐにイエスさまに従いまし
た。(3:13−4:22)
その後、イエスさまは、ガリラヤ中を巡り、会堂で教え、福音を宣べ伝
え、民衆のありとあらゆる病気を癒やされました。そのためにイエスさま
の評判は広まり、大勢の群衆が来て、イエスさまに従いました。
(4:23−25)
そして、その直後に、イエスさまは、群衆を見て、山に登られ、腰を下ろ
して、人々に教えました。
そこに、わざわざ「弟子たちが近くに寄って来た」と記されています。イ
エスさまは、大勢の群衆を見て、そして、近くに寄って来た弟子たちを見
て、口を開いて語り始めました。
そこにいる弟子たちとは、その直前までは、目の前にいる群衆の一人
ひとりと少しも変わらない普通の人だったのです。病気を癒やしてもらお
うとしたり、神さまのお話を聞きたいと思ってついてきた「普通」の人たち
だったのです。
ところが、まったく普通の人だったペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ
は、突然、イエスさまに「わたしに従いなさい」と言って招かれました。
そして、彼らは、すべてのものを捨てて、イエスさまに従ったのです。
それ以来、彼らは、完全にイエスさまのもの、イエスさまの側の者となっ
たのです。
イエスさまは、彼らを何処に連れて行こうとしておられるのか、彼らは
知りません。自分たちはどこに導かれようとしているのかも、彼らはわか
りません。
しかし、彼らはイエスさまに従い、イエスさまと共に行こうとしているの
です。他の群衆の中の誰にも起こらなかったことが起こったのです。彼ら
には何かが起こったのです。
ヨハネ福音書の言葉を借りて言えば、「イスラエルの家の失われた羊
たちの群れから選ばれ、彼らは善い羊飼いの声に従った」のです。彼ら
は、「その羊飼いの声を知っていたからです。」(10:7-15) 弟子たちの
姿かたちは、群衆の中の人々と変わりはありません。しかし、これから
は、彼らは、群衆の中に遣わされ、群衆の中に入っていって、群衆に
イエスさまの招きと服従の光栄を宣べる、伝える側に立たされることに
なったのです。
山上の説教の冒頭の言葉は、このようなご自分の弟子になった人た
ちを祝福しておられる言葉だと、ボンヘッファー先生はいいます。その
内容は、価値観も常識も今までの知識をひっくり返してしまうような内
容だったのです。これをボンへファー先生は、「キリスト教生活の特異
性」と呼んでいます。
弟子たちと共にそこにいた群衆は、イエスさまの言葉を聞き、驚きな
がら、そこで起こったことの証人となり、さらにある人たちは、招かれた
者となっていったのです。
まず、最初の3節では、「心の貧しい人々は、幸いである。(ギリシャ
語の聖書では、「なぜなら」がついている。) (なぜなら)天の国はその
人たちのものである。」と言って祝福されました。
イエスさまの弟子となった者は貧しさの中に身を置きます。生活の安
定のために何の保証もない。自分のものだと言えるような財産もなく、
自分が属するような交わりもありません。自分の精神的な力も経験も
知識もありません。彼らはイエスさまのためにあらゆるものを捨てて
従って来たのです。
これに対して、イエスさまは「幸いである。天国はその人たちのもの
である」と祝福されます。貧しい人には、誰にでも天国が約束されてい
るというのではありません。イエスさまに従う弟子たちだけです。イエ
スさまのために、すべてのものを捨て、困窮の中で生きている弟子た
ちの上にだけ、天国は開かれれいます。彼らだけが天国を継ぐと言わ
れるのです。
次に、4節の「悲しむ人々は、幸いである、(なぜなら)その人たちは
慰められる。」についてです。悲しんでいる人たちとは、この世の人た
ちが、幸福とか平安とか安定とか呼んでいる生活を断念して生きる用
意のある者という意味です。
この世の人々は、お祭り騒ぎをして、平和だ、幸福だと浮かれてい
ます。しかし、イエスさまに従おうとする者は、それらに距離を置いて
立つ、世の中が「生活を楽しめ」と叫ぶのを聞いて、弟子たちは悲しむ
人たちです。この世は、進歩と力と未来を夢見ていますが、弟子たち
は、この世の終わり、終末と裁きを、さらにこの世がそれに対して何
の備えもしていないことを、知っているから悲しむことになるのです。
その人たちは神さまから慰められることが約束されます。
5節の「柔和な人々は、幸いである、(なぜなら)その人たちは地を受
け継ぐ。」と言われます。イエスさまに従う者、イエスさまの弟子となっ
た者は、どのような権利も持ちません。また、それを要求しません。
柔和な人々とは、自分の権利を主張し要求することを断念して生き
ていく人たちです。ののしられれば沈黙し、暴力を加えられれば、
それに耐え、押しのけられれば退く、彼らは自分の権利のために訴
えることをしません。イエスさまに従う者は、あらゆる権利を神さまに
のみ委ねようとします。迫害に苦しめられる初代教会の信徒たちの
合言葉は「復讐を求めない」だったと言います。
そして、天国、すなわち、神の支配がこの地上に到来する時、地上
の姿は新しくなります。神さまは、み子をこの世に送られました。神
は、地上に教会を建てられました。イエスさまに従う者は、地上にあ
る教会を受け継ぐのです。
6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである。(なぜなら)その人たちは
満たされる。」と言われました。
イエスさまに従う者は、自分が持つ正義感をもこれを捨てて生きる
ことが求められます。自分が行う業、どんなに大きな犠牲をささげて
も、それを自分で誇るようなことはしません。イエスさまに従う者は、
神さまから与えられる義(正しさ、救い)を飢え渇いて求めるよりほか
には、他の何ものも求めません。イエスさまは十字架の上で「わが
神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、苦しみの
中で絶望的な願いを発せられました。「弟子はその師にまさること
はありません。」弟子たちもイエスさまの後に従います。その時に
こそ、彼らは「満たされる」という約束を彼らは受けているのです。
だから「幸いである」と言われます。まことの命のパンを、主イエス
さまとともに与るさいわいを約束されているのです。
第7節、「憐れみ深い人々は、幸いである。(なぜなら)その人たち
は憐れみを受ける。」
弟子たちは、貧しく、無力で、自分の尊厳も地位も名誉も持つこと
を拒否して、イエスさまに従います。この世で、最も小さい者の一人
になることを求められています。しかし、その弟子たちは自分自身
の身に困窮や欠乏を持つだけでなく、その上に、さらに他人の困窮、
貧しさ、罪の重荷を背負い、人々の苦しみをも背負うことが求めら
れています。この世の最も小さい人、人々から抑圧され、苦しめら
れ、疎外され、罪に思い悩む人々に、制限のない「愛」をもって接
し、深い憐れみの心を抱き、彼らの重荷を負って歩ゆむこと
が求められています。しかし、そのような弟子たちには、イエスさま
によるそれ以上の憐れみが、約束されています。イエスさまは、す
べての人間の弱さと醜さと罪を十字架の死に至るまで負われまし
た。イエスさまに従う者たちのすべての重荷を負うて、神さまのあ
われみをあらわし、その幸いを約束されたのです。
8節、「心の清い人々は、幸いである。(なぜなら)その人たちは神
を見る。」
「心の清い人々」とは、誰のことでしょうか。自分の心をイエスさま
に、全部ささげ、イエスさまのみ心だけが自分の心を占領する、支
配されているような人を言います。そのような人は神を見ると言わ
れます。神を見る人とは、この世の生活の中で神の子イエス・キリ
ストのみを仰ぎ見た人ということができます。
9節「平和を実現する人々は、幸いである。(なぜなら)その人たち
は神の子と呼ばれる。
イエスさまに従う者にとって、「平和」とは何でしょうか。それは主
に在る平和です。イエスさまに従う者は、「主にある平和へ」招か
れています。イエスさまこそ彼らの平和です。イエスさまに従う者
は、平和を自分のものとするだけでなく、平和を実現していかなけ
ればなりません。平和を造り出していかねばなりません。そのた
めには、暴力や戦争を手段とすることを止めなければなりません。
キリストの教会は、「主にある平和」を唱え合って互いにあいさつ
を交わします。イエスさまの弟子たちは、ほかの人を苦しめるより
は、むしろ自分自身で苦しむことによって、平和を保ちます。この
ような方法で、憎悪と戦いの世界の中にあっても神の平和を実現
しようとするのです。
平和を造り出す人とは、イエスさまと共に十字架を担う人を意味
します。なぜなら、十字架においてこそ、ほんとうの平和が実現し
たからです。このようにして、イエスさまに従う者たちは神の子の
業に招かれ、キリストの平和の業に引き入れられているからこ
そ、彼ら自身、神の子と呼ばれることになるのです。
最後に、10節、「義のために迫害される人々は、幸いである。
(なぜなら)天の国はその人たちのものである」と、イエスさまは語
られました。
イエスさまに従うために、人は、自ら正しいと思う判断をし、何ら
かの行為をしなければならないことがあります。自分の財産や権
利や名誉をすべて捨てても、生活の中で、判断と行為において、
この世と区別しなければならないことがあ
ります。ある時には、イエスさまに従おうとして、この世の人たち
に不快な気持ちを持たせ、自分の判断を通すために、世の人々
から迫害を受けることがあります。その時には、貧しい人たちに
与えられたのと同じ約束(5:10)が、彼らに与えられます。迫害さ
れる者として「貧しい人たち」と同じ祝福を受けることになります。
「天の国はその人たちのものである」と。
山上の説教の3節〜10節のイエスさまの言葉は、私たち普通
の信徒に与えられたものではない、イエスさまによって特別に招
かれた弟子たちに示されたものだと、安心しいるわけんはいきま
せん。
今日の「諸聖徒日」の特祷をもう一度、読んでみましょう。
「主に選ばれた人々を結び合わせ、み子イエス・キリストの体
である公会に連ね、(わたしたちを)その交わりにあずからせて
くださいました。どうかわたしたちに恵みを与え、祝福された聖
徒たちにならって、常に清く正しく生き、終わりの日に主を愛す
る者のために備えられた大きな喜びにあずからせてくださ
い」と祈りました。
イエスさまの弟子たちを始め、イエスさまの弟子であろうとす
る人々が、命をかけて、イエスさまが山の上で語られた最初の
言葉を受け入れ、神さまの祝福と約束を求めて、今日に至っ
ていることを心にとめたいと思います。私たちも聖徒たちにな
らって生き、大きな喜びにあずからせてくださいと祈りつつ、
心から主のみ名を賛美し感謝をささげたいと思います。
〔2015年11月1日 諸聖徒日 於・下鴨キリスト教会〕