誰よりもたくさん入れた。

2015年11月08日
マルコによる福音書12章38節〜44  今、読みましたマルコによる福音書12章38節〜44節には、イエスさま が、「律法学者をきびしく非難された」という出来事と「やもめの献金」 という2つの出来事が記されています。  イエスさまは、エルサレムの神殿で教えておられる時、このように言われ ました。 「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ること や、広場では人々から挨拶されることを好んでいる。また、会堂では上席 に座り、宴会では上座(かみざ)に座ることを望んでいる。また、貧しく、弱 い立場のやもめ(未亡人)の家を訪ねては、優しそうな格好をしているが、 実は彼女たちを食い物にしている。また、見せかけの長い祈りをしている。 このような律法学者たちは、神さまから人一倍厳しい裁きを受けることに なる」と、きびしく非難されました。(38〜40節)  そして、同じ神殿で、イエスさまは、賽銭箱に向かって座り、人々が来 て、お金を入れているのを見ておられました。  大勢の金持ちは、たくさんのお金を賽銭箱に入れていました。その中 で、一人の貧しいやもめ(未亡人)が恐る恐る賽銭箱に近づいて、レプトン 銅貨2枚を入れるのをご覧になりました。  「やもめ」とは、未亡人のことですが、今の時代の私たちがいう未亡人と は違います。その当時の社会では、やもめと、みなしごは、もっとも弱い 者、貧しい者、軽んじられ、虐げられている者とされ、特別の配慮や援助が 必要とされる人たちでした。(詩編68編6節〜7節、使徒言行録6章1節以下)  レプトンというお金は、当時、通用しているローマの銅貨で、一番小さい 単位のお金です。1デナリオンの128分の1で、レプトン銅貨2枚が1クァ ドランスでした。非常に少ない金額でした。  その2レプトンを賽銭箱に入れているやもめの様子を見て、イエスさま は、そこにいた弟子たちを呼び寄せて言われました。 「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、ここで賽銭箱に入れている人 の中で、だれよりもたくさんの献金を入れたのだ。皆は、財布の中にある有 り余るほど持っているお金の中から一部を献さげものとして入れたが、この 人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたか らだ。」と言われました。  マルコによる福音書を編集したマルコは、ここに「律法学者の偽善的な行 為」と、「貧しいやもめが自分が持っている物すべてを賽銭箱に入れた出来 事」を並べて、記すことによって、イエスさまが教えようとしておられる大切な ことを伝えようとしています。  私たちの教会が、また私たち一人ひとりが、神さまにどのように向き合っ ているかが、問われているように思います。  結論から先に言いますと、私たちの信仰、すなわち私たちと神さまとの関 係が、律法学者たちのように、うわべだけ、偽善的、形式的なものになって いませんかと問われているのです。  これに対して、やもめがした献金の姿は、イエスさまが、私たちに求めて おられる信仰の根本的なあり方を示しておられるように思います。  もう少し具体的に考えてみますと、百万円を持っている人が、十万円を神 さまへのささげ物としてささげるのと、百円しか持っていない人が、そのあ りったけの百円を全部ささげたのでは、百円をささげた人の方が、たくさん 神さまにささげたのだと言われるのです。それはなぜかと言うと、百円しか 持っていない人は、貧しくてこれが生活費の「全部」だったからなのです。 神さまは、九万九千円九百円多い方を喜んでおられるのではないというこ とです。  神さまと私たちとの関係は、私たちが持っている経済的な感覚や、損得勘 定とは全く違います。イエスさまがなさる価値判断は、私たちが持っている 金銭感覚、お金のバランスとは違うのだということです。  他の多くの金持ちは、お金をたくさん持っていて、「有り余る中から」そ の一部を賽銭箱にいれました。それが多額な金額であっても、意味が違う、 質が違うと言われるのです。  このやもめは、レプトン銅貨2枚しか持っていせんでした。1クァドランス 銅貨1枚ではありませんでした。貧しいのですからレプトン銅貨を1枚だけ 賽銭箱に入れて、一枚は生活費のために取っておくことも出来たのです。 しかし、このやもめは、「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活 費を全部入れたのです。」  これを知ったイエスさまは、このやもめに何かを言ったのではなく、弟子 たちに向かって、「はっきり言っておく。このやもめは、賽銭箱に入れてい る人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われました。  神さまに喜ばれる人というのは、生まれが良いとか、特別に教育を受け た人とか、権力や地位を誇る人や、金持ちであるという人々ではありませ ん。  パウロは、コリントの教会の人々に宛てた手紙に、このように書いてい ます。(第一コリント1:26〜31) 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさ い。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者 や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵あ る者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせ るため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な 者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者 を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにす るためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリ ストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたので す。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです(エレミヤ書 9:22〜23)」と。  神さまが、私たちをクリスチャンとして選ばれたのは、人間的に見て、 特別に知恵や能力や家柄で選ばれたのではない。反対に、神さまは、 知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に 恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のあ る者を無力な者とするため、世の中で無いに等しいような人、身分の卑 しい人や、見下げられている者を選ばれたと言います。それは、誰一人、 神さまの前で誇ることがないようにするためですと言っています。  毎年、クリスマスに読まれ、または唱えられる「マリアの賛歌」を思い出 して下さい。  エリサベトの訪問を受けたマリアは、生まれてくる赤ちゃんの将来を予 言するかのように歌いました。  「わたしの魂は主をあがめ、  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。  身分の低い、この主のはしためにも、    目を留めてくださったからです。  今から後、いつの世の人も、    わたしを幸いな者と言うでしょう。  力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。  その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、    主を畏れる者に及びます。  主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、  権力ある者をその座から引き降ろし、  身分の低い者を高く上げ、  飢えた人を良い物で満たし、  富める者を空腹のまま追い返されます。」  神さまは、そのひとり子をこの世に遣わされるのに、高貴な地位があ り、財産のある婦人を選ばれたのでしょうか。  そうではなく、特別の身分を持たない、ナザレの小さな村の貧しい平 凡な女性マリアを選ばれたのです。  そして、イエスさまの存在そのものが、イエスさまの教えの中心が、 「大いなるもの、権力ある者を否定する論理」であり、そして「いと小さ きものへの愛の論理」と言われるものでした。  イエスさまは、わざわざ弟子たちを呼び寄せて、「この貧しいやもめ は、ここで賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさんの献金を 入れたのだ。皆は、財布の中にある有り余るほど持っているお金の中 から一部を献さげものとして入れたが、この人は、乏しい中から自分の 持っている物をすべて、入れたからだ。」と言われました。  イエスさまは、このやもめの女性に一言も語っておられませんし、 また「わたしに従いなさい」とも、「あなたの信仰があなたを救った」と も言っておられません。  ここでは、弟子たちに、信仰というものは、量ではなく質が大切なの だと教えておられるのではないでしょうか。  何ごとにでも、量か質かということが問題になります。  目に見える献金は、数字で表すことができます。神さまとの関係をる 量る信仰は、目で見ることが出来ません。そこで、目に見えない信仰 の状態を、見える形で、献金というもので表そうとしたのが、神殿に詣 でる当時のユダヤ人であり、金持ちでした。  そこで問題にされたのが、先の律法学者たちの態度であり、賽銭箱 にたくさんのお金を入れている金持ちたちの姿でした。 イエスさまは、 本当の信仰から出る献金は、金額の多い少ないの問題ではなく、自分 の持っている物をすべて、生活費の全部をも入れようとする心であり、 最終的には神さまにすべてを委ねられる信仰を指しておられます。  信仰は、目に見える量ではなく、目に見えない心の内側にある神さ まへの信頼と忠誠心、心の中の質が問われています。 それでは、貧 しければ、小さければ、弱ければ、何の力もなければ、それですべて でしょうか。それらは、神さまの前に立つ入口の条件と言えますが、ま だほんとうの信仰には至っているとは言えません。  神さまが私たちに求められる関係は、「すべてを捨てて、キリストに 従う」というこの一言に尽きるのです。  この一言に福音のすべてが要約されています。  「持っているものをすべて」を捨てて、イエスさまに従うということが 求められます。  信仰生活が、量ではなく、質が問われるのと同じように、信仰生活 や礼拝生活は、形式ではなく、真実さが問われています。ほんとうの 「自分発見」のためには、自己放棄が条件であり、繰り返しそれが求 められます。  貧しいやもめは、自分と神さまとの関係、信頼、信仰の行為として、 乏しい中から自分の持っている物をすべて賽銭箱にささげて、神さま に祈りました。貧しいからこそ、乏しいからこそ、すべてをささげること が出来ました。イエスさまはこれを見て、「この貧しいやもめは、賽銭 箱に入れている中で、誰よりもいちばんたくさん入れたのだ」と弟子た ちに言い、「アーメン」と言ってこのやもめをほめました。 〔2015年11月8日 聖霊降臨後第24主日(B-27) 下鴨キリスト教会〕