子ろばに乗ったイエス
2015年11月22日
マルコによる福音書11章1節〜11節
教会の暦では、今日の主日が1年の終わりとなります。
次の主日から「降臨節」(アドヴェント) というキリスト誕生を迎える準備のシーズンに入り、教会暦の始まり、新年を迎えます。
今日の特祷を見ますと、「あなたのみ旨は王の王、主の主であるみ子によって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように」と祈ります。
神と人との断絶、人と人との断絶、あらゆるものの関係の回復のために、また、私たち一人一人を罪の鎖から解放するために、この世に来られた主イエス・キリストを強く記念する日として、この日が定められています。
さて、今読みました今日の福音書ですが、いよいよイエスさまがエルサレムに入られる「エルサレム入城」の場面が描かれています。
主にガリラヤ地方で活動しておられたイエスさまは、ある時、突然ご自分に身に起こる苦難と死とよみがえりを、弟子たちに予告されてから、顔を真っ直ぐエルサレムに向け、弟子たちを連れて歩んで行かれました。
マルコ福音書によりますと、エリコという町を通り、さらにベタニヤ、ベトファゲに来られました。
それはエルサレムの少し手前の小さな村です。イエスさまは、ここで不思議なことを弟子たちにお命じになりました。
イエスさまは、2人の弟子に、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。
もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、言われました。
2人の弟子たちは、言われたように出かけて行くと、道端の家の戸口の所に、子ろばがつないであるのを見つけたました。
そこで、そのろばをつないでいる綱をほどいていますと、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言いました。
2人の弟子たちは、イエスさまが言われたように、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話すと、許してくれました。
2人の弟子たちは、子ろばを連れてイエスさまのところに戻って来ました。
弟子たちは、そのろばの背中に自分たちの服をかけると、イエスさまは、それにお乗りになりました。
子ろばに乗ったイエスさまと、後に続く弟子たちが、エルサレムに近づくと、エルサレムの市民とその他の町や村からやって来た人たちが大勢集まり、それぞれ、自分が着ていた服をぬいで道に敷き、また、ほかの人々は、野原から葉の付いた枝(ヨハネ12:13では「なつめやし」の枝(Palm tree)しゅろに似ている。)を切って来て道に敷きました。
そして、前を行く者も後に従う者も声を揃えて叫びました。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
(「ホサナ」とは、アラム語で「おお!救いたまえ」の意味です。
これは、詩編118編24、25節にある賛美と祝福の歌声です。
「今日こそ主のみ業の日。
今日を喜び祝い、喜び踊ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。」
イエスさまは、このように、大勢のエルサレム市民から、「万歳、万歳」 と歓迎されて、エルサレムに入られました。
さて、この光景は、第一に、何を意味するのでしょうか。
また、第二に、イエスさまは、なぜ、このように「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。
まず、第一に、エルサレムの市民は、なぜこのようにしてイエスさまを迎えたのかということです。
この場面から、その当時の人たちが、頭に描き、待ち望んでいた「救い主」とは、どのようなものであったのかということがわかります。
かつて、イスラエルは、小さな弱い民族に過ぎませんでした。エジプト、シリア、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマと、イエスさまがお生まれになる前、1200年間を振り返ると、これらの大国に攻められ、侵略され、苦しめられてきました。唯一、紀元前1000年から800年頃だけは、主権国として繁栄した時期でした。
それは、ダビデが紀元前千年に王位につき、はじめてユダヤの国を統一して王様となったからでした。
軍事力をもって敵を蹴散らす強い王であり、社会改革者、革命を起こす者、力強い王でした。
しかし、少しの期間安泰だったイスラエルも、しばらくすると、また隣接する国々に圧迫される状態になりました。
イスラエルの人々は、唯々、救世主が現れて、自分たちを救ってくれるのを待つばかりでした。
その求めている救世主、メシヤのイメージは、ダビデ王が再び現れることでした。
自分たちを苦しめている異国の支配者を蹴散らし、自分たちを救ってくれる、解放してくれる、そのような救い主をイメージし、強いダビデ王の再来を待っていました。
(サムエル記上16章〜列王記上2章11節、歴代誌上11章〜29章)
さて、イエスさまの時代ですが、その当時のイスラエルは、地中海沿岸の諸国を征服し支配していたローマ帝国の属国でした。形ばかりのユダヤの王はいましたが、この王は、ローマ皇帝にへつらい、贅沢と保身のみを考え、税金の取立てにきびしく、人々を苦しめている王でした。
「救い主」が現れるのを待ち望んでいたエルサレムの人びとが、どのような「救い主」をイメージし、思い描いていたのか、それは、エルサレム市民が、イエスさまのために歌った歌に現れています。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
それは、ダビデ王が、再び現れることを待ちわびていたことがわかります。
そして、一方、多くの病人を癒やし、奇跡を行い、今まで聞いたことのないような権威をもって神さまのことを語られるイエスさまこそ「救い主」であると、望みを抱き、イエスさまを慕い、イエスさまについてきました。
救い主に対して、自分たちで勝手なイメージを描き、イエスさまに期待をかけていたのです。
それは、ダビデ王のような強い王であり、軍馬にまたがって颯爽と現れ、敵を蹴散らす救世主の姿でした。
しかし、イエスさまが、そこで示されるキリスト、救い主の姿は、人々が求めるようなものとは全く違ったものでした。
それは、イエスさまは、なぜろばに乗ってエルサレムに入られたのかという第二の問いに表されています。
イエスさまは、わざわざ2人の弟子たちを使いに出して、子ろばを借りて来させ、子ろばに乗って、エルサレムに入られました。なぜ、小さな子ロバに乗って、エルサレムに入られたのでしょうか。
ゼカリア書(旧約聖書の後から2番目の書)にこのような言葉があります。(9:9-10)
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」
この預言が実現(成就)した。預言者ゼカリアが預言した救世主、メシヤの姿として、イエスさまは、ご自分がどのような者であるかを示そうとしておられたことが分かります。
小さなろば、子ろばにまたがって大勢の人々に囲まれて進む主イエスの姿を想像して頂きたいと思います。
ろばという動物は、出エジプト記(13:12、13)を見ると、 「初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない」と記されています。
ろばは、神殿で、神にささげられない動物、神の前に良しとされない動物とされていました。
馬に比べて、小型で背が低く、身体全体に比べて、顔や頭が大きく、性格はのろまで、頑固な動物です。決して颯爽とは歩けない動物です。背中に大きな荷物や人を背負って歩くことはできますが、早く走ったり、敏捷に動くことはできません。
これに対して、馬は、大きさも足の長さも違います。早く走ることができますし、筋肉はたくましく、力強く美しい姿をしています。
当時、馬は、戦争に使われ、立派な馬、たくさんの馬は大きな軍事力を表すものでした。
強い王、敵と戦って勝利を得た凱旋将軍は、いちばん立派な馬にまたがって、意気揚々と国に帰ります。
民衆の歓声、賞賛を浴び、人も馬も堂々とした態度で民衆の歓迎を受けます。
しかし、それは、すべてを神にゆだねよ、神のみ力にのみ信頼せよという預言者たちの口を通して語られる神のみ心、メシヤの姿には反しています。「神よ、神よ」と言いながら、兵隊の数や馬の力、すなわち軍事力に頼り、目に見える人間の権力にしか頼ることができない人々の姿がここに示されています。
エルサレムの市民は、群衆は、イエスさまを歓迎しました。多くの人が自分の服を脱いで道に敷き、また、ほかの人々は、ナツメヤシ葉を敷いて、前を行く者も後に従う者も叫びました。
「ホサナ。主よ救ってください。
主の名によって来られる方に、祝福がありますように。
われわれの大いなる父ダビデが来てくださるべきこの国に、祝福がありますように。
いと高きところにホサナ」 と。
凱旋将軍を迎えるような騒ぎで、イエスさまを迎えました。
ところが、小さなロバに乗って、エルサレムに入られるイエスさまの姿は、決して凱旋将軍のような姿ではありません。堂々としていません、笑顔で応え、自信に満ちて、胸を張ってふんぞり返っている凱旋将軍のような姿でもありませんでした。
小さなろばに乗って、もっとも値打ちのない動物とされるろばに乗って、とぼとぼと人々の前を通って、エルサレムに入られました。
ただ、「見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」 (9:9-10)
という預言者ゼカリアの預言が成就している瞬間であり、そこには神さまのみ心が明らかに示されている光景でした。
そして、ほんとうのイエスさまの心の内を悟らず、もその光景の意味もわからないエルサレムの市民が、
「ホサナ、ホサナ」と言った、その同じエルサレムの市民が、舌の根が乾かないうちに、一週間後には
「十字架につけよ」「十字架につけよ」と叫んだのです。
イエスさまは、最後まで、武器を取って立ち上がることはありませんでした。
人を組織し、人を扇動し、暴動を起こし、社会革命を行う気配もありませんでした。
当時の権力者、支配者たちとは関わりを持つことさえありませんでした。
反対に、飼う人のない羊のような、人からかえりみられず、相手にもされないような人々、病人や目の見えない人や、罪人と言われる人たちの側に身を置き、失われた魂のために、途方に暮れる人々と共にいて、彼らと共に飲食し、呼吸して来られました。
どんな権力者も支配者も、宗教的指導者も、一人の人間として見たときには、悲しみも、寂しさも、苦しみも持っていることには違いはありません。
しかし、彼らは、自分たちが持っている権力や財産や名声のゆえに、これに依り頼み、本当の魂をいやして下さる方を受け入れることができません。
イエスさまが示された本当の救い主の姿は、立派な颯爽とした馬ではなく、足が地面に着きそうな小さな子ろば、うなだれた子ろばに乗って歩む男の姿であり、屠り場に黙々と引かれていく羊の姿であり、醜く十字架にぶら下がる人間の姿でした。
神さまは、このようなイエスさまを、王様の中の王様、主の中の主であるとされました。このみ子イエスによって、あらゆるものを回復されました。このイエスさまが、すべての人をいやし、がんじがらめに鎖で縛り付けられている魂を解き放ち、ご自分を受け容れる人々に、本当の平和、ほんとうの救いを体験させられたのです。
教会の暦の一年を振り返り、私たちは、ほんとうのイエスさまに、どれほど触れたのか、他のものに頼らず、イエスにのみ信頼して、どのように生きたのかを、振り返ってみたいと思います。
次の主日から、キリストのご降誕を迎える準備のシーズンを迎えます。
私たちは、イエスさまが示される、ほんとうのキリストの姿をしっかり受け取り、「主よ、来たりませ」「主よ、お出でください」と言って、新たな気持ちで、主をお迎えしたいと思います。
〔2015年11月22日 降臨節前主日(B-29) 四日市聖アンデレ教会〕