いつも目を覚まして祈りなさい。
2015年11月29日
ルカによる福音書21章25節〜31節、34節〜36節
教会の暦では、今日の「降臨節第1主日」から、新しい1年が始まります。さらに4週間後には、主イエスの御降誕を記念する日を迎えます。
神の子イエスがこの世に来られる日を迎えるに際して、今日の特祷では、次のように祈りました。
「み子イエス・キリストは、わたしたちを顧み、謙遜なみ姿でこの世に来られました。どうかいま、闇の業を捨てて、光のよろいをを着る恵みを与え、終わりの日に生きている人と死んだ人を審くために栄光をもって再び来られるとき、永遠の命によみがえらせてください」と。
聖書には、「終わりの日」、「再び来られるとき(再臨の時)」という言葉がよく出てきます。
世の終わりというのは、いつ来るのか、どのようにして来るのかわかりません。人類の歴史の中では、かつては、巨大な隕石が落下して、地球上の生物が死に絶えたという時代があったり、氷河期という時代があったと聞いています。
私たちが身近に知っているところでは、10万5千人の死亡者が出た関東大震災、太平洋戦争の大空襲、阪神淡路大震災、そして、1万8千460人の死者行方不明者を出した東日本大震災のことは、まだ私たちの記憶に新しいところです。
これらの被災地にあって、地震や津波、戦災の真っ只中にいた人々は、まさに「世の終わり」を感じたのではないでしょうか。
しかし、まだ、ほんとうの「世の終わりの日」は来ていません。
一方、どんなに平和だ、豊かだ、自由だと感じている時代でも、誰でも、今、生きている現在の状態に満足している人はいないと思います。
すべての人間は、明日は何とかなると、未来に希望を抱いて生きているのではないでしょうか。政治的、経済的、社会的に、また、人間関係や健康状態など、一人一人何か問題を持ち、苦しいことがあればあるほど、将来に希望を持とうとし、何かが変わることに夢を抱いて生きているのではないかと思います。
聖書によりますと、神への信仰を持って生きてきた人々は、昔から、神さまが約束して下さっている恵みに、すべてをゆだねて生きて来ました。終わりの日を前提にして、何かを先取りして生きていたということがわかります。
また、同時に、私たち人間は、他の動物とは違って、自分の「死」を意識して生きている存在です。
「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語の警句があります。「自分は(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句だそうです。「死を記憶せよ」などと訳されています。古代では、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬのだから」というような意味に使われていたそうですが、その後のキリスト教の世界では、違った意味を持つようになったと言います。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたために、キリスト教徒にとっては、死への思いは、現世での楽しみや贅沢や手柄が空虚で空しいものであることを強調するものとなり、来世に思いをはせる意味で「メメント・モリ」(「死を記憶せよ」)という意味になったと言われます。
いずれにせよ、人間は、誰も、すべての人が例外なく死ぬ存在であり、死を意識しながら、生きていることは事実です。地球に終わりがあるとか、世の終わりがあるというよりも先に、自分自身に終わりがあることを、誰もが確実に感じているところです。
さて、イエスさまは、このような「終わり」について、どのように伝え、その時代の人々は、これをどのように受け取っていたでしょうか。
ルカによる福音書によりますと、弟子たちを連れてエルサレムに入ったイエスさまは、いよいよ十字架に向かう最後の場面で、高い城壁に囲まれたエルサレムの街、大理石と金銀で飾られた巨大な神殿が、崩壊する時がくる、滅亡の日が近いと予告されました。「報復の日が来る」「神の怒りが下る」と、そのことが「終わりの時」の前触れのように記されています。(ルカ21:5-6、20-24)
そして、今日の福音書21章25節以下に続くのですが、その内容は、終末説教といわれる教えです。
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。
地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。
天体が揺り動かされるからである。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」と教えられました。
「その時」には、天変地異という特別の「しるし、徴候」が起こり、世界中の人々が、恐れ、おびえ、気を失うと、イエスさまは語られます。そして、「そのとき、人の子すなわちキリストが、栄光を帯び来るのを、人々は見るだろう」と、予告されます。
人間の歴史の中で、このような天変地異や戦争は、世界中至る所で、数限りなく起こり、今も続いていますが、しかし、いずれも局地的で「世の終わりの時」はまだ来ていません。また、キリストが再び来られるという再臨も、待ち続けていますが、まだ「その時」は来ていません。
イエスさまは、なぜこのような「終わりの時」が来ると教えられたのでしょうか。
そのもとをたどると、それは、「神の怒り」から端を発しています。
古代の人々は、雷や大雨、地震や台風や干ばつなどの自然現象に苦しむたびに「神の怒り」を感じてきました。旧約聖書の時代には、神さまとの契約、約束を破ったイスラエルの民に対して、神さまは怒りを露わにされました。またはイスラエルの民を苦しめている異教徒、異邦人に対して、神さまは、厳しい怒りを示し、神の裁き、刑罰を下しています。 預言者たちは、「裁きの日」が来るとか、「主の日」が来ると、口をそろえて忠告したのは、神の怒りが原因でした。(イザヤ2:6-22、エレミヤ30:7以下など)
イエスさまが人々の前に姿を見せる前、ヨルダン川で洗礼を授けていたバプテスマのヨハネは、群衆に向かって、悔い改めを叫んでいました。(ルカ3:7-9)
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と言って、神さまの怒りを代弁しています。
さらに、パウロは、神の怒りは、すべての人間の不信心と不義とに対して示されていると言います。(ローマ1:18-23)
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」
ローマの教会の信徒に宛てた手紙ですが、パウロのこの言葉を現代風に翻訳してみますと、
「神を神としない、神を知ろうとしない人々に対して、神は天から怒りを現されます。神とは何かは、すでにはっきりと表されているのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、すなわち神の永遠の力と神の性質は、神が造られたすべてのものを見れば、そこにはっきりと現わされています。これを見れば、誰でも神を知ることができます。だから神を知らないという人たちに弁解の余地はありません。彼らは、反対に、神を知りながら、神を神としてあがめることも、感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍くなり、暗くなっています。自分では知恵がある、賢いと言いふらす者が、愚かになり、滅びることのない神の栄光を、すぐに滅び去ってしまうような偶像と取り替えてしまい、金や権力や科学の力を神としてしまっているのです。」 現在の言葉で言えば、パウロは、わたしたちに、このように語っているのではないでしょうか。
さて、私たちの信仰の中に、神さまのことを思う心の中に、「神の怒り」を買っているという思いはあるでしょうか。
子どもの頃に、何か悪いことをして、親や先生や先輩の怒りを買い、叱られ、怒鳴られて、縮みあがったような、恐れの気持ちを持って、神さまとの関係を緊張感をもって、神を仰いだことはあるでしょうか。
神さまは、愛の神、慈愛に富んでおられる、何でも望みをかなえて下さる方、私たちの願いを何でも聴いてくださるという思いだけで、お願いごとばかりをしている、それが信仰だと思っていることはないでしょうか。
確かに、神さまは愛の神さまです。しかし、神さまの愛は、厳しい愛です。神さまは、私たちにも犠牲を求め、犠牲を伴う愛を求め、そして、不正や不信仰に対しては、怒る神であり、裁く神であり、刑罰を降す神さまでもあるのです。
神さまとイエスさまの関係では、父と子の関係でありながら、その子を愛しながら、十字架にかけて苦痛と死をお与えになりました。そのひとり子は、十字架に掛けられることによって、救い主として神の裁きを遂行しなければなりませんでした。神さまが私たちを救って下さる救いの業において、神さまとキリストは一つだったのです。
私たちが信じる神さまは、愛の神であると共に、怒る神であり、裁く神です。
そして、イエスさまも神と共に裁きの座に着かれます。しかし、同時に私たちのために裁かれる者となり、わたしたちに替わって裁きを受けて下さったのです。
私たちの不義と不信仰のゆえに、私たちは、神さまの怒りを買い、本来私たちが受けるべき裁きと刑罰を、イエスさまの血によって、義とされ、正しい者とされ救われたのです。刑罰から免れることができたのです。
そして、そのイエスさまが、ほんとうの「裁きの日」「主の日」「世の終わりの時」が来るのを待ちなさいといわれます。
「そのとき、人の子、イエス・キリストが、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21:27,28)
その時、イエスさまが再び来られます。主の再臨が約束されています。
その時を見極めなさい。時のしるしを、いち早く察知しなさい。いちじくの木やほかのすべての木の葉が出始めると、それを見て、夏が近づいたことを知るように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさいと言われます。(21:29-31)
それでは、私たちは、どのようにすれば良いのでしょうか。
イエスさまの言葉は続きます。
「放縦や深酒や生活の煩(わずら)いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)
どんなことが起こっても、再臨のキリストの前に立つことができるように、いつも心の目を覚まして祈りなさい。
東方の博士たちが、どんな星の動きも見逃さないと、夜通し星空を見つめていたように、荒れ野で野宿する羊飼いたちが、羊たちを守るために暗闇で目を凝らしていたように、私たちも心の目を覚まして祈り、主が来られる日を待ちましょう。
〔2015年11月29日 降臨節第1主日(C) 下鴨キリスト教会〕