いまだかつて、神を見た者はいない。
2015年12月27日
ヨハネによる福音書1章1節〜18節
あらためまして、クリスマス、おめでとうございます。
キリスト教国ではない日本の国では、むしろ、12月24日のクリスマス・イヴや、25日のクリスマス当日の騒ぎは、異常だったことが思い知らされます。バレンタインデーも、ハローウインも、クリスマスも、同じように扱われ、何でも楽しければいいのだとばかりに、お祭り騒ぎにしてしまっています。
今、読みましたヨハネによる福音書1章4節では、
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。今の時代では、世界中のいたる所にイルミネーションが輝き、ほんとうの光を見えなくしてしまいます。
また、10節では、「言は世にあった。世は、言によって成ったが、世は言を認めなかった」とも記されています。
今の時代では、さまざまな騒音に阻まれ、神の言葉は、人々の耳に届かず、人々には聞こえません。
さらに、11節では、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と記されています。今の時代では、人々の心は閉ざされ、神のみ心を受け入れることはできません。
このように、ヨハネの福音書の記者は、2千年昔の時代から、「暗闇は光を理解しなかった」、「世は言を認めなかった」、「民は受け入れなかった」と、繰りかえし、神さまから遣わされた神の言であり、光であり、肉体をとって、神によって生まれたイエスさまを、世間は、なかなか正しく受け入れられないことを強調しています。
そして、今日の日本の社会においては、クリスマスを迎える風景やお祭り騒ぎは、これらの聖書の言葉が裏付けられているような気がします。
さて、今日は、ヨハネ福音書1章18節の、
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」という言葉にこだわって少し考えてみたいと思います。
今の時代、とくに科学、文明が発達した社会では、目に見える宗教的な「お祭り」や儀式については、ある程度は受け入れられるのでしょうが、目に見えない「神」を信じて生きるということが、ますます難しくなっていることを感じさせます。 目に見えるものしか信じられない、物質や金銭のように数数えられるものを優先し、これを最も確かなものであると考える時代にあっては、目に見えない神を信じて生きるということは、ほんとうに至難の業であると言えます。
現在、教会につながる私たちでさえ、「ほんとうの信仰の喜び」に満ち溢れているかと尋ねられると、何と答えるでしょうか。
形式化した礼拝、マンネリ化したお祈り、目に見える行事やプログラムにのみ心が奪われ、忙しい忙しいと言っている状態をふり返えると、反省しなければならないことがたくさんあります。
神さまは、私たちのこの肉眼の目では見えません。
しかし、神さまがお造りになった、宇宙の、地球上のすべてのものに目をやると、神さまは、これらの被造物の中に、ご自分を現し、ご自分を示して下さっていることに気づきます。
私たちは、大きな大きな宇宙の営みについて知っているつもりです。実際に自分の目で確かめたわけではありませんが、地球は丸く、太陽の回りを回っています。地球から太陽までの距離は、平均1億4千960万キロあって、その太陽の半径は約70万キロメートルあって、地球の半径の109倍に相当することもわかっています。その一つ一つの数字を確かめたわけではありませんが、知っているような気持ちになっています。
その太陽には、8つ惑星があって、地球は、その中の1つです。私たちは、朝に太陽が上がるのを見、夕方には西の空に太陽が沈むのを規準にして、毎年の四季の移り変わりを知り、毎日の生活を営んでいます。その背景には、目に見えない大きな力が働いていることを感じます。
私たちは、毎日、時間に追われて生活していますが、しかし、「時間」というものは目に見えません。時間を計る時計は持っていますが、「時間」という言葉は、口にしていますが、時間そのものは見ることは出来ません。
宇宙のことを考え、自然の小さな草花、動物の生命についても、今、一生懸命に科学者は、研究していますが、神さまがお造りになった、人間も含めた自然の世界の入口に、やっとに立ったところだと言われます。門外漢の私が、科学の世界について語っても、説得力はありませんが、目に見えないから、自分の手で触れなければ信じられないと考えることは、それは、私たち人間の傲慢さだという気がします。
さて、このように、偉そうなことを言っている私ですが、少し、私ごとを言い、典型的な日本人で、家族にも、親戚にも一人もクリスチャンがいない環境で育って、なぜ、私が、神さまを信じるようになったかということを、お話させて頂きたいと思います。
私は、1957年(昭和32年)12月22日、大阪聖ヨハネ教会において、洗礼を受け、クリスチャンになりました。大学1年、
21歳の時でした。中学生の頃から、ちょっとしたきっかけで、聖公会の大阪聖ヨハネ教会という教会に関わっては、いたのですが、時々教会に出入りしているというだけで、神さまを信じるとことは、全然できない青年でした。高校生の頃から、本を読むのは好きで、いろいろ読んでいたのですが、友人の影響もあって、フランスのアルベール・カミュという作家で、哲学者である方の書いた本を読みあさっていた時期がありました。今、覚えている本の題では、「異邦人」「ペスト」「 転落」「シーシュポスの神話」などという本でした。よく内容がわかっていないのに、実存主義だとか、不条理だとか、反抗だとかいう言葉をひねくり回し、そのうちに、だんだん、厭世的になり、何を見ても、「くだらん」「くだらん」と言って回り、ニヒルで、無気力な、暗い青年になっていました。
しんどくなると、教会を訪ね、だらだらと牧師さんに話を聞いてもらって、理屈をこねて帰る嫌な求道者でした。
あるとき、いつものように、おしゃべりをして、帰る間際に、私の背中に向かって、その先生は、「きみ、愛について考えたことはあるかね。人を愛したことはあるかね」と尋ねられました。私は、その時、なんと答えたのか、覚えてません。
その頃には、ふられて、終わっていたのですが、高校時代に、一方的に「一目惚れ」をした一学年下の女の子がいました。毎週、手紙を書き、一度も返事が来ないのに、3年間、送り続けたという経験がありました。今から考えると、「ストーカー」だったのですが、当時、恋に恋する、恋のために命を捨てる、などと言って、「寝ては夢、起きてはうつつ、まぼろしの‥‥」という心境で、人の誠意は、こんなに恋焦がれている気持ちは、必ず相手に通じると信じて、過ごしていたことがありました。
「きみ、愛について考えたことはあるかね。人を愛したことはあるかね」と尋ねられて、思い出したのは、この片想いの、真剣に愛していると思っていた、その人のことでした。
その牧師さんの言葉が気になり、家に帰るなり、持っていた新約聖書の「愛」とか、「愛する」という文字に赤鉛筆で線を引いて読みました。徹夜をして朝までかかりました。(最近、調べると、愛という字がいっぱいありました。新約聖書全体では、320個所にそれがあったことがわかりました。)
聖書には、「神とは何か」と、定義した個所はないのですが、ヨハネ第一の手紙4章7節〜12節には、このように書かれていました。
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
片想いのその女の子については、住所と氏名がわかるだけで、どんな人なのか全然知りません。手元にあるのは、その人からもらった一通の暑中見舞いのハガキと、遠くから盗み撮りをしたぼやけた写真でけでした。
3年間思い続けているうちに、その人の姿が、「まぼろし」化し、いつのまにか自分の中で神さま、偶像になってしまっていました。頭の中に、勝手な偶像をつくり、崇拝をしていました。しかし、「愛されることはなかったけれど、愛するということ、想いを抱き続けるということが、こんなに、充実した気持ちになったり、希望を持たせたり、頑張る気持ちにさせたりするものか」ということだけは知りました。
現実の人ではない、まぼろし化した人を愛し続けることができるのなら、目に見えない神を愛することだって、できるはずだ。人は人を裏切る。しかし、神は決して裏切らない。それに、「神は愛である」と書いてあるではないか。
このような自分勝手な、解釈で、見えない神さまを信じることができる、信じることの意味がわかるような気持ちになりました。
人を愛するように、神さまを愛するのではない。神さまが愛して下さっているから、人を愛することできるのだ。神さまが、私を受け入れて下さっているから、私も人を受け入れなければならないのだと、発想を転換することができるようになりました。神さまを信じて生きる喜びと、充実した人生を生きることができる幸せを感じています。
ほんとうに、キリスト教とはどういうものかということを知ったのは、神学校で学んでからでした。
私たちが、神さまと出会う方法は、すべて違います。幼児洗礼を受けた人もいれば、結婚がきっかけになった人もいます。ある人に誘われて教会に足を踏み入れたという人もいます。そのきっかけはどのようなものであっても、神さまに捕らえられているのです。私は、その女の子のお陰で、イエスさまを追いかけるストーカーになりました。
聖パウロは、言います。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:12-14)
「いまだかつて、神を見た者はいない」のではなく、「暗闇は、光を理解しなかった」のでもありません。「神を見ようとはしない」、「見たくない」と言い続けているのです。暗闇は光を理解したくないのです。理解しようとしないのです。
しかし、父のふところにおられる独り子である神、私たちと同じ肉体を取って、見える姿でこの世に来られ、この方だけが、神を示されました。見えないはずの「神が見える」という奇跡の中の奇跡、最大の奇跡が、約2千年昔、私たち人類にもたらされたのです。
クリスマスのテーマは、「神の愛」です。
この時に与えられる、神の愛を、神の恵みを、しっかりと受け取りましょう。
心から神に感謝し、心から神を賛美する礼拝をささげましょう。
〔2015年12月27日 降誕後第1主日(C) 四日市聖アンデレ教会〕