キリストに倣う者になりなさい。

2016年01月01日
「8日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」 (ルカによる福音書2章21節)  明けましたおめでとうございます。  昨年は、皆さんにとってどのような年だったでしょうか。  昨年、1年間をふり返り、神さまから与えられた恵みに深く感謝し、新しい年が、祝福で満たされた年となりますように心からお祈りいたしたいと思います。  今日、1月1日は、一般の暦では「元旦」ですが、教会の暦では、「主イエス命名の日」と言われる日です。  イエスさまは、当時のユダヤ社会の習慣に従って、生まれて8日目に、割礼という儀式をお受けになり、 「イエス」と名がつけられました。  この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使から、「その子をイエスと名付けなさい」と命ぜられて付けられた名前でした。(マタイ1:21、ルカ1:31)  イエスさまは、いろいろな名前で呼ばれています。誰でも知っている呼び名としては、「イエス・キリスト」という名前ですが、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っている人がいますが、そうではありません。 「キリスト」とは、メシヤ、「油注がれた者」という意味で、「救い主」という意味です。後の時代にイエスさまを信じた人たちから付けられた称号、身分を表す肩書きでした。  「イエス」という名は、ギリシャ語で、「イエスース」と言い、その意味は「救い」を表します。旧約聖書が書かれたヘブル語では「ヨシュア」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。イエスという名は、ユダヤ人の間で、最も広く用いられていて、ごくありふれた普通の名前で、非常に多かったようです。  その他には、「ナザレのイエス」、「ダビデの子」「インマヌエル」などがあります。また、イエスさま自身は、ご自分のことを、「人の子」と呼ばれ、「わたしはパンである」とか、「わたしは良い羊飼いである」とか言って、ご自分を紹介しておられます。  私たちの教会2千年の歴史の中では、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼が授けられますし、「主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします」と言って、必ず、主イエスの名に委ねてお祈りします。神の名、イエスさまの御名には、神そのものを表す力がある信じられています。  さて、今日は、「主イエス命名の日」の礼拝をささげると共に、「元旦礼拝」でもあるわけですが、皆さんは、新しい年をどのようにお迎えになったでしょうか。  昔というか、私が子どもの頃は、元旦というと、なにか身も心も新しくなるという気分がありました。  私の両親は、貧乏しながら、4人の子どもを育ててくれたのですが、着るものも履くものも、お正月まで辛抱しなさいと言って辛抱させ、年末には、シャツもパンツも、靴下も、運動靴も何もかも、全部新しいものを買って、枕元に置いてくれていました。これを着て、家族そろって、お雑煮を頂き、ほんとうに新しい自分になったような気分でお正月を迎えたものでした。  しかし、この頃は、お正月だからといって晴着も着なくなりましたし、たこ揚げや羽根つきの光景も見られなくなり、そういう意味では、「新しくなる」とか「改まる」とかいう感じが少なくなったような気がします。  パウロは、エフェソの信徒への手紙4章22節、23節に次のように言っています。  「以前のような生き方をして、情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」  ここで、パウロが言う「以前のような生き方をして」とは、「新年を迎えて」とか、「旧年中は」という意味ではありません。それは、「イエスさまに出遭う前」、「イエスさまを知る前」という意味です。イエスさまを信じる以前とその後では生き方が違うはずだというのです。イエスさまについて聞き、イエスさまに結ばれて教えられ、真理がイエスさまの内にあるということを、学んだはずです。だから、私たちが新しくされるために、「以前のような生き方をしている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」というのです。  聖書が言う、「新しくされる」とは、「改まる」ということは、暦がかわって、気分が新しくなるというようなものではありません。パウロは、イエス・キリストによって、新しくされる、イエス・キリストによって生まれ変わるのでなければ新しくならないと言います。  それでは、イエス・キリストによって新しくされるとはどういうことなのでしょうか。  ずいぶん以前ですが、テレビで、京都のある有名な禅宗のお寺が紹介されていました。若い僧侶が入門を許され、朝早くから夜まで、禅に明け暮れして修業する姿が紹介されていました。座禅を組んでいる時も、食事をする時も、庭の掃除など作業をすることも、托鉢をして町を歩く時も、すべて細かく定められた作法通り、これを厳しく守ることが求められています。その番組の中で、そのお寺の偉いお坊さんが、インタビューに答えて言っていました。  禅の神髄は「真似をすることです」と。開祖以来、歴代の先輩修業者の真似をすること。まず、ただひたすら真似るということ、徹底的に真似をすることが修業だと言っていました。徹底的に真似ることができた時、初めてほんとうの個性というものが光るのだと言っていました。  そう言えば、歌舞伎俳優の世界でも、何代も続く職人さんの世界でも、同じようなことが言われていたと思います。  これを聞いて、なるほど、キリスト教信仰を守るうえでも、共通するところがあるのだなあと思いました。  パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙にこう書いています。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙一 11章1節)  私たちの信仰というものも、まず信仰の良き先輩の考え方や生活、行動を真似るところから出発するのではないかと思います。毎週、繰り返している礼拝も、このような礼拝の形を生み出し、語り伝えた、千年を越える私たちの先輩方の礼拝生活を、実は真似ているのではないかということです。それをさらにさかのぼれば、イエスさまにたどり着き、私たちの信仰生活は、そのイエスさまという方の考えておられることを私たちの考えとし、あの方が愛されたように人を愛し、あの方が生きたように私たちも生き、そして、あの方が死なれたように私たちも死ぬということです。  徹底的にあの方の真似をしようとすることが、私たちが信仰に生きようとする生き方だと思います。  イエスさまは、そのことを「私に従いなさい」と言われました。  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マタイ16:24)  イエスさまに従うということは、イエスさまについて行くということです。イエスさまが歩まれる足跡を踏み、その跡をたどってついて行くということです。そのためには、自分を捨て、自分の十字架を背負って、ついていくのです。  そして、パウロは、同じことを、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」という表現で、人々に勧めました。  人がぬいぐるみや着ぐるみを着て、その動物や人間に成りきるように、キリストによって新しく生まれ変わった人は、キリストその方を上に着ることだと言います。  「キリストの真似をして生きる」「キリストに従う」「キリストを着る」、それは同じことを言っているのだと思いますが、 それでは、私たちは、具体的に、どうすればよいのでしょうか。何をすればイエスさまに従うことが出来るのでしょうか。イエスさまを着て、身にまとって生きることができるのでしょうか。  ここで、今年の年頭にあたって、一つのことを提案したいと思います。  それは、「イエスさまなら、どうなさるか」と、考えながら毎日の生活をするということです。  ほんとうは、24時間、毎日、「イエスさまなら、こんな時どうなさるだろうか」と考えながら生活できれば、すばらしいのですが、なかなか、それはできません。  一日に1回でも2回でも、そして、何かの時に、「こんな時、イエスさまならどうなさるだろうか」を考えるのです。  とくに、困った時、苦しくなった時、行き詰まった時、どうしようもなくなった時、淋しい時、悲しい時、もし、イエスさまが、今、私が居るこの立場に居られたら、「イエスさまなら、何と言われるだろうか」、「イエスさまなら、どのようになさるだろうか」と考えてみることです。  そして、「イエスさまなら、そんなことはなさるはずがない」「きっとこうなさるに違いない」と思った時には、勇気をもって、それを実行するのです。または忍耐を持って実行しないことです。それも、すぐには、すべてを実行出来ないかもしれません。しかし、少なくとも、1歩でも2歩でも、それに近づこうと努力してみることです。  そのためには、イエスさまの考えや、イエスさまのなさったことを良く知っていなければなりません。聖書を読んいなければ、正しいイエスさまの答えは出てきません。  「もし、イエスさまならどうなさるでしょうか。」  これから始まる一年、信仰生活を始めるにあたって、このような提案を、抱負の一つとして加えて頂いたらいかがでしょうか。 皆さんにとって、この年が、祝福に満たされ、ますます信仰が強められますよう、心からお祈りいたします。 〔2016年1月1日 主イエス命名の日(C)  於 ・ 京都聖三一教会〕