目を覚ましていなさい。
2016年01月03日
マタイによる福音書2章1節〜12節
明けましておめでとうございます。
今年、最初の主日礼拝を守っています。主にある平安と、祝福がゆたかにありますよう祈りましょう。
教会の暦では、クリスマスから12日目、1月6日は「顕現日」(エピファニー)と言われる祭日です。異邦人への救い主が顕現されたことを祝う日とされています。
エピファニーの意味は、物事の本質や意味について、突然ひらめくこと、直観すること、悟ることという意味を持っています。日本語の「顕現」という言葉は、神々や仏がはっきりとした形をとって現れることを意味します。
東方教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など)では、12月25日ではなくて、この日が、キリストの降誕の日、クリスマスの祝日として守られています。
神さまは、神さまの方からご自身を現わされます。旧約聖書は、神さまが、ユダヤ民族という小さな民族を選んで、この民族に、スポットライトを当てて、ご自身を現された歴史の書だということができます。
聖書の時代のユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であるという選民意識(エリート意識)が強く、この民族の人々は、自分たちだけが神によって救われるのだと固く信じていました。自分たちだけが救われるのだという特権を振り回し、誇示していました。そのことが、他の民族に対して、差別意識を生み出していました。
神さまは、たしかにユダヤ民族を特別の民として選びましたが、しかし、それは、このユダヤ民族を通して、世界中の人々に神さまの意思を伝えさせるために、彼らを選んだのであり、特別の使命を与えて、この世に遣わすためでした。
しかし、ユダヤ民族は、自分たちだけが神の民だという選民意識だけが強くなり、神さまから与えられた使命には応えようとしませんでした。
新約聖書にあるクリスマス物語では、そのような、ユダヤ人社会の歴史的な背景の中に、神さまは、御子を生まれさせ、ユダヤ人であろうと、異邦人、異教徒であろうと、彼らを用いて、ご自身のみ心を、現わされたということが語られています。
私は、一昨年の秋まで保育園で勤めていたのですが、ある年の11月頃、毎年行なっているクリスマスの聖劇(ページェント)の練習に入る前に、年長組に、クリスマスの話をして欲しいと、担任の先生から頼まれました。
その時に、「なぜ、イエスさまがお生まれになることを、当時のユダヤの国の宗教家や王様や学者たちに知らせないで、東方の博士たちや羊飼いたちに知らされたのかということについて、教えてやってほしい」と、注文をつけられました。
「えーーっ、それを5歳の子供たちに話すのーーっ」と、答えましたが、内心、「難しいこと言うなあ」と驚きました。
マタイとルカ福音書に記されているクリスマス物語によると、エルサレムの近くの小さな村、ベツレヘムに男の子が生まれ、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされていました。しかし、その時、このことを知っていた人というのは、マリアとヨセフ以外、誰もいませんでした。
イエスさまの誕生にまつわる出来事のまわりには、大勢の人々が登場します。エルサレムには、立派な宮殿があって、そこには年老いたヘロデ王がいました。そのエルサレムには壮大な神殿があって、そこには、大祭司、祭司長をはじめ、多くの祭司たちがいましいた。エルサレムの会堂にはたくさんの律法学者や議員たちや長老もいました。それぞれが自分は信仰を持っている。神を信じている、誰よりも熱心に律法を守っていると自負し、自分たちは異邦人や罪人ではなく、血統正しいユダヤ人で、神に救われることが保証されている義人、正しい人だと誇っている人たちでした。
ところが、その誰にも、イエスさまの誕生のニュースは知らされていません。このような人たちの所には、知らされませんでした。まさか、ベツレヘムの馬小屋で「ダビデの子」「神の子」と呼ばれるような人が生まれるとは思いもしません。
しかし、そのような中で、特別に、そのことを知らされた人たちがいました。
それは、第一に、エルサレムからずっと遠くの国、東の方の国にいた占星術の学者たちでした。
そして、第二は、ユダヤの地で、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちでした。
なぜ、東方の占星術の学者たちや、ユダヤの羊飼いたちにだけ、このニュースが報らされ、現わされたのでしょうか。
その第一の東方から来た占星術の学者(Wise men)ですが、バビロニアから来たともペルシャから来たとも言われていますが、ゾロアスター教のマギと呼ばれる階級の占星術師、魔術師だったと言われています。占星術とは、いわゆる星占いをする人たちで、天体の動きを眺めて世界の動きを予報し、人々の運命を予言していました。夜、人々が寝静まっている時に、天体を注意深く眺めている人たちでした。神さまは、星を通して神ご自身をあらわされました。
この星の下に生まれる者は、ユダヤ人の王となると、王の出現を彼らに予言させたのです。当時のユダヤ人からすると、東方の占星術の学者は、異邦人、異教徒です。ユダヤ人からは、彼らは、罪人とされ、救われるはずがないと思われている人たちでした。そのような人たちに、特別の星が現れ、彼らを導き、ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と言わせたのです。
もう一つの、グループがありました。それは、野宿をして夜通し羊の番をしていた羊の群の番人でした。彼らは、ユダヤの地にいる者でしたが、ユダヤ社会では最も身分の低い立場の人たちでした。多くの場合、羊の所有者ではなく、羊を飼うために雇われている貧しい使用人でした。教養もなく、律法もよく知らない、教えられていない、無知、無学な人たちでした。ユダヤ人でありながら、ユダヤ社会の中で差別され、罪人のレッテルを貼られている人たちでした。預かった羊を連れて、牧草や水を求めて移動します。盗人や獣から命がけで羊を守らなければなりません。このような最下層の肉体労働者である羊飼いたちに、天使があらわれ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と、宣べたのです。
なぜ、彼らにだけ、東方の占星術の学者たち、野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊の番人にだけ、神さまは、ご自身をあらわされたのでしょうか。
それは、神さまからの良きニュースを受け取ることができる条件は、血筋や地位や身分や知識にあるのではないということです。血筋や血統、また掟を守っているかいないかでもありません。神さまの前では、そういうものは、何の役にも立たないということです。
それよりも、東方の占星術の学者たちと、野宿して羊の番をしている羊飼いたちと間には、ただ一つの共通点があったのです。それは、両方とも、夜通し目を覚ましている人たちだったのです。
人々が、枕を高くして眠っている時間に、夜通し、緊張して空を眺め、または、羊の番をしている人たちだったということです。
マタイによる福音書24章42節から44節に、このような言葉があります。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
ここでいう「目を覚ましていなさい」は、私たちの肉体の目のことを言っているのではありません。夜眠らずに睡眠不足で、ぼーっとしていることを勧めているのではりません。
心の目を見開いて、主が来られるのを待ちなさいと言われるのです。東方からきた学者たちがしていたように、また夜通し起きて羊の番をしている羊飼いがそうであったように、彼らが目を凝らし、緊張して、見守っていたように、あなたの心の目を開いて見、耳を開いて、神さまからの呼びかけを聴きなさいという、教えがこのクリスマス物語に含まれているように思います。
私たちの日常の生活の中でも、目で見ているのに見えていない、耳に聞こえているのに聴いていないということがよくあります。毎日の生活の中で、馴れてくると、それがひどくなります。それは、私たちの心が意識して見ようとしていないからです。私たちの心が意識して聴こうとしていないからです。
星を見つけた東方の占星術の学者と、夜中に天使の声を聴いた羊飼いたちは、それぞれ、飼い葉桶に眠る幼な子イエスさまに出会い、ともに礼拝して帰っていきました。
一方、ヘロデ王は、東方から来た占星術の学者たちから、そのニュースが知らされたのですが、イエスさまには会えませんでした。反対に、ヘロデ王は、自分の地位や権力や財力を保つことで頭が一杯です。王の中の王、ユダヤの王が産まれると聞いただけで、不安と恐怖を感じました。王であるという地位や権力を持っているために、いつも不安と恐れにさいなまれ、疑心暗鬼、兄弟や肉親を殺すというような人でした。そして、そのために、ベツレヘム中の幼い子どもたちを皆殺しにするというような出来事が起こりました。
イエスさまの誕生という出来事をさかいにして、博士たちや羊飼いたちと、ユダヤのヘロデ王、祭司や学者たちとをを、比べてみた時、神さまからの呼びかけを受ける条件が違っていることがわかります。
先程の保育園での子どもたちへの話ですが、子どもたちには、「日頃、自慢ばっかりしている人、ボクは、ワタシは、誰よりも強いのだ、何でもできるんだ、何でも知っていると言って、いばっている人には、イエスさまがお生まれになったという天使からのお知らせやお星さんの声は聞こえません。もっともっと、イエスさまのことを教えてください、もっともっと一生懸命お祈りできるようにして下さいと、お願いしている人には、天使の声が聞こえて、イエスさまにお会いできるのですよ」と話しました。どれほど通じたか、わかってくれたかどうかわかりませんが、一生懸命聴いてくれていました。
保育園の子どもには難しい言葉ですが、「神による啓示」という言葉をお聞きになったことがあると思います。
「神の啓示」とは、人の力では知り得ないことを、神が教え知らすことという意味です。ふつうの日常では、神さまの声は聞こえませんし、神さまを見ることもできません。しかし、ある条件のもとで、神さまが、チラッ、チラッとご自身を示されます。自然現象を通して、私たちに起こる出来事を通して、人と人との関係の中で、チラッ、チラッと、ご自身を現わされます。
真っ暗闇の山道を歩いている時、月も星も出ていない、鼻をつままれてもわからないような暗闇の中で、山の向こうで稲光がして、ピカッと光った瞬間、向こうの山や野原や畑などが目に焼きけられるように、神さまのみ心が、私たち人間に示される、現されることがあります。
東方の占星術の学者たちも、荒れ野で野宿していた羊飼いたちも、神さまからの啓示を受けました。
新しい年を迎えました。今年こそ、神さまに向かって、私たちの心の目を開き、私たちの心の耳を開いて、ちゃんと見るべきものを見、聞くべきことができますように、願いながら、歩み出したい思います。
最後に、ペテロの手紙5章6節〜8節に次のように記されています。
「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。」
〔2016年1月3日 降誕後第2主日(C) 下鴨キリスト教会〕