あなたはわたしの愛する子

2016年01月10日
ルカによる福音書3章21節〜22節  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:21、22)  今日は、1月6日の顕現日から始まる「顕現節」の第1主日であり、そして、もう一つ「主イエス洗礼の日」と名付けられている主日です。  これは、イエスさまが、30歳ぐらいになった頃、突然人々の前に姿を現して、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼をお受けになったことを記念します。  バプテスマのヨハネが、ヨルダン川の近くで、ユダヤの人々に「悔い改めよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と説き、罪を悔い改めた人々に、ヨルダン川で洗礼を授けていました。 そして、大勢のユダヤ人がヨハネから洗礼を受けていました。  その時、イエスさまも、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そのことについて、ルカ福音書では、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、‥‥」(3:21)としか記されていませんが、マタイによる福音書によると、その場のいきさつについて、もう少し詳しく記されています。   「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』 しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、‥‥‥」と、あります。(マタイ3:14〜16)  イエスさまは、なぜ洗礼をお受けになったのかとか、お受けになる必要があったのかということが、その後も神学者の間で議論が絶えません。  マタイ福音書によりますと、ヨハネが、イエスさまが洗礼をお受けになることを思いとどまらせようとしました。  しかし、イエスさまは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とだけお答えになって、その理由は記されていません。  ルカの福音書3章21節では、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とあり、民衆が受けていた洗礼と、イエスさまが受けられた洗礼が、同じレベル、同じものとして描かれています。  長い教会の歴史の中で、洗礼は、ずーっと行われてきているのですが、どの教派、どの教会でも、キリスト教の教会で行われてきた洗礼の「主役」は、イエスさまです。  現在、私たちも、よくどこどこ教会で洗礼を受けましたとか、だれだれ先生から洗礼を受けましたと言います。しかし、それは、教会や聖職者の奉仕を受けただけであって、洗礼そのものの中味、中心は「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼が授けられているのです。  洗礼の「主役」は、イエスさまです。神の名によって、イエスさまの名によって、洗礼が授けられているのであり、水による洗礼に、悔い改めと罪の赦しの効果をもたらすのは、神さまであり、イエスさまです。  そのイエスさまが、自ら悔い改めて、赦しを得る必要はないはずです。後になって、人々へのほんとうの罪の赦しと新しい生まれ変わりは、あのゴルゴタの丘で起こった十字架の出来事と、3日目の朝に起こった主の復活によってもたらされました。そのことを前提にして、この時、イエスさまは、罪人との結びつきを、はっきり宣言されたということができます。  神の子イエスさまには、罪がなくても、私たちと同じ肉体を取り、私たちと全く変わらない人間となられたという意味で、民衆が受けた悔い改めの洗礼をお受けになられたのです。この時、私たちが負う罪の重荷を、私たちと同じように負われたということではないでしょうか。  そして、大切なことは、イエスさまが、洗礼を受けられた直後にそこで起こった光景でした。  洗礼を受けた後、大勢の群衆からひとり離れて祈っておられると、  「その時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」と記されています。(ルカ3:22)  このような光景が、主イエスにだけ見えたのか、その近くにいる人たちにも見えたのかはわかりません。  「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降った」とあります。  聖霊とは、目に見えない神さまの力です。本来、目に見えないものです。その聖霊が「鳩のように目に見える姿で」降って来ました。  「鳩」という動物は、聖書の中には、柔和、優しさを表すシンボルとして登場します。  ノアの箱船の物語では、洪水が続いた後、ノアが鳩を放ち、水が引いたことを報せたのは鳩でした。平和のシンボルにもなっています。  鳩が、枝に止まる時、地面に降りてくる時などの美しい姿が、聖霊が天から降ってくる様子を目に見える形で示されたのではないでしょうか。  使徒言行禄2章の聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の場合は、  「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という表現で、聖霊が降った情景が伝えられています。激しい風、大音響、炎のような舌という表現で、そこに居る人たちがびっくりするような場面が描かれています。  それに比べて、イエスさまが洗礼をお受けになった時には、おだやかな光景を想像することができます。  そして、第二に、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』」という声が、天から聞こえた と記されています。  この言葉は、神の特別の「愛」を表しています。  この時、イエスさまはどのようなお祈りをしておられたのかわかりません。  この時のイエスさまの祈りに答えるかのように聞こえたのがこの声でした。  『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。  ルカ福音書によりますと、この天からの声が、もう一度聞こえたという出来事がありました。  イエスさまがご自身の死と復活を予告された後、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちを連れて山に登られました。そこで、イエスさまの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、栄光に包まれながらモーセとエリヤと語っておられたという事件がありました。弟子たちはその光景を見て驚きました。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。(ルカ9:35)  イエスさまが、ヨルダン川から上がって祈っておられる時、また、山に登って祈っておられる時、「あなたはわたしの愛する子」、「これはわたしの子」と同じ言葉が、天から響いてくるのが聞こえました。  それは、神さまとその子イエスさまが交信しておられる瞬間でありました。  私は、いつも一つの場面を思い出します。  小さな子どもがひとり遊びに熱中している時、ふと気がついて、隣りの部屋のお母さんを呼ぶ時があります。そして、返事が返ってくると安心して、また、遊びに熱中します。 お母さんの方も、時々思い出したように隣りの部屋をのぞき、子どもの名前を呼びます。そして、返事が返ってくると安心して台所仕事をしたりテレビを見たりしています。  親のもとにいることに絶対の信頼と安心を感じている子ども、そして、愛する子どもの安全を確認する母親の姿、互いに呼び合う、呼び交わすことによって、愛と信頼、安心を確認し合います。  よく見かける親子の交信の姿です。  神さまは、そのひとり子を私たちのこの世にお遣わしになりました。そして、だいじな時に、チラッ、チラッと、親子の愛と信頼を確認するかのように呼びかけ合っておられます。  神さまは、私たちを愛する愛を示すために、私たちが神さまを受け入れることができるようになるために、また、私たちがほんとうに「生きる」ようになるために、その最も愛するひとり子を、その命を、私たちのために与えてくださいました。  父である神さまと、子であるイエスさまが、愛と信頼関係を確認し、またイエスさまがこれからなさろうとすることの使命を確認して呼びかけ合っておられます。  私たちは、神さまとみ子の胸中を想うとき、私たちが受けている愛と恵みを思うとき、私たちは、これにどのように応えたらいいのでしょうか。  さらに、私たちと、神さまとの交信はどうでしょうか。  神さまの方からは、いつも変わらない愛のまなざし、愛の呼びかけ、計り知れない恵みをもって、私たちに働きかけて下さいます。  私たちに太陽の光や熱が振りそそぐように、また、雨の恵みが降り注ぐように、これを当然のように受けています。  さらに、私たちを呼び覚ますように、確認するかのように、日常生活の中にハッとするような呼びかけを感じることがあります。  これに対して、私たちの方からできることは、これに応える愛の信号は、私たちがささげる祈りであり、私たちがささげる感謝と賛美の礼拝です。  私たちは毎日曜日、主日礼拝を守っているのですが、この礼拝こそ、私たちから神さまに対して発する交信の場であり、交信している時だと思います。  私たちは、イエスさまがお受けになった洗礼と同じ洗礼を、「イエス・キリストの名によって」受けました。  そして、神の子とされたのです。神がみ子イエスさまに向かって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけ、その関係を確認し、新たな使命をお与えになったように、今、私たちも、神の子と呼ばれる資格が与えられ、私たちたち一人ひとりに、同じ言葉で呼びかけてくださっているのです。  お母さんと幼い子どもが、愛と信頼と安心を確認する呼びかけの声を交わすように、礼拝は、神さまと私たちとの愛の交信の場であり、神さまとの交わりを持つ時です。  忙しいからこそ、心も体もくたくたに疲れ切っているからこそ、この愛の交信が必要なのではないでしょうか。 自分の方から神さまとの交信のスイッチを切ってしまっていることはないでしょうか。  礼拝することの意味を忘れてしまったり、いつの間にか足が遠のいてしまっているということは、神さまとの交信がとぎれてしまっていることだということを知っていただきたいと思います。  もう一度、今日の特祷を一緒に祈りましょう。  「天にいます父よ、あなたは、み子イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊を注ぎ、愛する子と宣言されました。どうかみ名によって洗礼を受けたすべての者がその約束を守り、み子を主また救い主として大胆に告白することができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられるみ子イエス・キリストによってお願いいたします。」アーメン  〔2016年1月10日  顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(C)  於・下鴨キリスト教会〕