「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」

2016年02月07日
ルカによる福音書9章28節〜36節  ある時、イエスさまは、弟子たちに、突然、「人の子は(わたしは)、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている」と言って、ご自分が苦しみを受け、死んで、よみがえるであろうと、予告されました。  その予告があってから8日ほど経って、イエスさまは、12人の弟子たちの中から、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて、お祈りをするために山に登られました。  山の頂上で、祈っておられると、そのうちに、イエスさまの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いています。  さらによく見ると、2人の人が、イエスさまと話し合っているのが見えました。  それは、モーセとエリヤでした。その2人は、光に包まれて現れ、イエスさまが、エルサレムで遂げようとしておられる最期のことについて話し合っていました。  ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは、ひどく眠くなりましたが、それでもじっとこらえていると、光に輝くイエスさまと、そばに立っているモーセとエリヤの2人の姿が見え、そのふたりがイエスから離れようとしているので、ペトロは、イエスさまに思わずに口走りました。  「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と。ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったと記されています。  そのうちに、雲が現れて彼らを覆いました。3人の人たちが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐わくなりました。  すると、雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が聞こえてきました。  そして、次の瞬間、そこにはイエスだけがおられました。 ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは、見たことを誰にも話さず、その当時は、沈黙を守っていました。  先ほど読みました福音書9章28節から36節までは、イエスさまの姿かたちが真っ白に光り輝き、「イエスの変容貌」と呼ばれる不思議な出来事が起こったことが記されています。  教会暦の中でも、毎年8月6日を「主イエス変容の日」、祝日として記念されています。  イエスさまの故郷ナザレから東南に10キロほど下った平原に「タボル山」という山があります。  お椀を伏せたような形をしていて、高さは588メートルで、あまり高い山ではありません。  しかし一面平原や荒れ野が続く平野の中に一つだけある山なので、この山に登ると、四方が見渡せ、はるか東方のカルメル山まで見渡すことができます。  伝説によりますと、イエスさまの変容貌の出来事は、このタボル山の山頂で起こったのではないかと伝えられています。 西暦326年、当時のローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナによって、この山の頂上に礼拝堂が建てられました。その後、長い歴史の中で、この山の頂上には、礼拝堂が建てられたり、要塞が築かれたり、また荒れ果てたまま長年放置されたりしてきましたが、現在は、ギリシャ正教の修道院と礼拝堂が建ち、またローマ・カトリック教会のフランシスコ会の礼拝堂が建てられています。このフランシスコ会の礼拝堂の天井のドームには、イエスさまと、その両側にモーセとエリヤが立ち、話し合っている光景が、美しいモザイク画で描かれていて、多くの人々がこの山に登りお祈りに訪れています。  さて、このイエスさまの山の上での変容貌の出来事は、何を意味するのでしょうか。  それは、イエスさまが、ご自分の死と復活について予告され、いよいよこれから苦難と死に向かって、歩み出されることが確認されているのだと理解されています。  第一に、モーセとエリヤが現れてイエスさまと話し合っておられたということは、旧約聖書の時代に示された事柄との確認です。  モーセは、イエスさまの時代から1200年もさかのぼった時代の人です。神さまは、モーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから脱出させ、律法をお与えになりました。モーセにおいて、「律法」が代表されています。  そして、エリヤは、紀元前800年頃に活躍した預言者です。神の声を取り次ぎ預言の言葉を語りました。エリヤは、最初の預言者として、「預言」を代表しています。  今読みました聖書ルカ福音書の9章31節に、「2人は、栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と記されています。(遂げる=エクソドス、出て行く、イエスの出立の意)イエスさまがこれからなさろうとしていることは、イスラエル民族に与えられた律法と預言の集大成として、今、命をかけて成し遂げられようとしているのです。今、そのことが確認されています。  第二に、イエスさまご自身が、神の子、「神」としてご自分を確認しておられます。神が、神のみ子が、人間の肉体を取ってこの世に来られました。この山の上で、神のみ子が神の栄光を現わし、ご自分を確認しておられます。どこかから差して来た光に照らされて輝いたのではなく、み子ご自身が光り輝き、神の栄光を発せられた瞬間でした。太陽の光より白く、光り輝く神そのものに変貌された瞬間でした。  ヨハネ福音書1章にある「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)という言葉を思い出します。同時に、イエスさまご自身が、これから歩み出そうとされる道を確認しておられました。  第三は、神さまが、イエスさまとの関係の中で交わされている確認です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が、雲の中から聞こえました。(9:35)  イエスさまが、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて祈っておられた時、天が開け、聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降りました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。(ルカ3:22)  これは、イエスさまが宣教活動を始める第一歩を踏み出そうとされる時、神さまから与えられた呼びかけであり、確認の声でした。神さまとイエスさまが交信し、「愛する子」と確認しておられます。  そして、今、いよいよ、苦難と死の道行きに一歩を踏み出そうとする時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、同じ言葉が掛けられているのです。  イエスさまが苦しみを受け、死に向かって歩まれることに、誰よりも痛みを感じておられるのは父である神さまです。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:10)  神さまが私たちを愛して下さっているということは、ご自身が誰よりも先に、誰よりも大きな痛みをもって与えてくださっている愛であることを忘れてはなりません。  山の上で、イエスさまの姿が変わられこの出来事は、神さまとみ子の愛、神さまとイエスさまとの密接な関係を表しています。イエスさまは、つねに神さまと共におられる。父である神さまのみ心に従おうとしておられます。この変容貌の出来事は、その密接な関係を、私たちに垣間見せる瞬間です。  私たちは、聖餐式の中で、大切な個所で、大切な言葉を交わします。  司祭は、会衆に向かって、「主は皆さんとともに」と唱え、会衆は「また、あなたとともに」と言ってこれに応えます。  これは、私たちの祈りの言葉であり、合言葉であり、挨拶のことばです。「神さまが、あなたと共に居て下さいますように」、または「イエスさまがあなたと共にいて下さいますように」と、心を込めて願います。そして、会衆一人一人が、「また、神さまが、イエスさまが、あなたと共に居られますように」と、繰り返し、繰り返し、心を込めて願い、求めます。  神さまとイエスさまが、つねに「共にいる」「選ばれた子」「愛する子」であることを確認しておられるように、私たちも、神さまに礼拝をささげる上で、最も大切な心のあり方を確認しているのです。  神さまとイエスさまが、いつも共に居られるように、愛の交信をかわしておられるように、私たちも、私たちの信仰生活の中心にある最も大切なことを確認したいと思います。 〔 2016年2月7日 大斎前主日(C年) 下鴨キリスト教会〕