悪 魔 の 誘 惑

2016年02月14日
ルカ福音書4:1〜13 1 荒れ野における40日  聖公会には、「教会暦」という教会の暦があります。とくに復活日(イースター)の前、日曜日を除く40日間を「大斎節」と言います。この期間は、イエスさまが、荒れ野に留まり、40日40夜断食をし、悪魔の誘惑に打ち克たれたことを記念するために、昔から守られています。 聖書には、「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:1-2節)と記されています。  この40日という期間ですが、「40」という数字には、新旧約聖書全体を通して、特別の意味があります。それは、さまざまな出来事の「準備と試練」の期間として、40日とか40年という数字が使われています。  思い出して頂きたいのですが、ノアの洪水の物語では、40日40夜大雨が降り続き(創世記7:4)、洪水が40日間、地上を覆っていた(創7:17)とあります。  また、モーセは、教えと掟を記した石の板を授けられるため、シナイ山に登った時、40日40夜、そこに留まっていました(出エ24:18)。  ダビデ王の在位が40年(�競汽爛┘�5:4)、ソロモン王の在位が40年(�砧鷁�11:42)、ヨアシュ王の在位が40年(�粁鷁�12:��)でした。  ヨナは、40日すればニネベの都は滅びると預言し、罪の悔い改めを人々に迫りました(ヨナ3:4)。  新約聖書では、イエスさまは、40日40夜、荒れ野において悪魔に試みられ、これに打ち克たれました。  よみがえったイエスさまは、40日間にわたって弟子たちに現れました。  このように、聖書には、40日とか40年とかいう「期間」が見られ、これらはいずれも「準備」と「試練」の期間として意味を持っています。 2 荒れ野における3つの誘惑  「イエスは、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」という場面を、少し想像してみてください。  今、テレビや新聞で、毎日のように報じられて中東(シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、エジプト、サウジアラビア、イラクなど)の真ん中に、聖書の舞台となっているイスラエルがあります。これらの国々の「荒れ野」の光景は、テレビなどで、ご覧になっていると思います。見渡す限り、赤茶けた土、岩と砂の土地がどこまでも続いています。木も草もあまり生えていない、昼は暑く夜は寒い、雨期と乾期しかない、水がない、何の音もしない厳しい自然の風景が続いています。そのような厳しい自然の中で、イエスさまは、40日間、断食をし、ひたすら祈っておられました。  その40日の期間が終わろうとする時、悪魔が現れ、イエスさまに語りかけました。  「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。空腹の限界、飢餓状態、体力の限界を越え、生命を維持するために必要なぎりぎりの食欲本能に訴えて、誘惑してきたのです。「神の子なら何でもできるはずだ」と迫りました。  これに対して、イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。  この言葉は、申命記8章3節、かつてイスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出し、飢えに苦しんでいる時、神さまが、モーセを通して語られた言葉です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2、3)という、この聖書の言葉を用いて、イエスさまは、悪魔の誘惑を退けました。  しばらくして、再び悪魔が現れ、「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。神の子としてふさわしい権力、栄耀栄華、支配力を与えてやろうと誘惑してきたのです。  イエスさまに、ただ権力や栄誉や支配力を与えようというだけではなく、悪魔は、イエスさまに「神の子」としての権威、神の子の力を試させ、それを我がものとするために、自分に礼拝することを要求したのです。  「わたしを拝め」と迫りました。「もし、あなたがわたしの前にひざまずくなら」と。その姿勢は、相手の前に屈服する姿勢であり、相手を絶対化し、自分自身を失わせる行為です。  これに対して、イエスさまは、「あなたの神である主を畏れ、ただ主に仕えよ」と、お答えになりました。  これは、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」という申命記6章13節、14節の言葉からの引用です。イエスさまは、またしても聖書の言葉で悪魔を退けました。  そして、最後に、悪魔は、イエスさまをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。  「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」と書いてあるではないかと。  今度は、悪魔の方が、聖書の言葉(詩編91編11節、12節) 「主は、あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」を用いて、誘惑してきました。この詩編の言葉は、神さまへの完全な信頼を示す祈りの言葉です。悪魔は、この言葉を用いて、神さまへの信頼を試させようとしました。  またルカ福音書では、はっきりと「エルサレム」と書いています。エルサレムは、イエスさまが十字架に架けられ、死んでよみがえられた最後の勝利の地です。悪魔は、お前が神の子メシヤなら、魔術的な力を発揮して、今、自分の力を試してみよと迫りました。  これに対して、イエスさまは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。これは申命記6:16「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」を引用して、お答えになりました。かつてイスラエルの民が、マサにおいて喉が渇くといって、モーセに不平不満を言って詰め寄り、神への信頼をないがしろにしてモーセに迫りました。そこで、モーセが岩を杖で打って水を湧き出させた時のことを述べています。  イエスさまは、次々と現れる悪魔の誘惑を退け、これに打ち克たれました。そこで、悪魔は、時が来るまで、イエスを離れて去っていきました。  イエスさまが、40日40夜、荒れ野で過ごし、その間、断食をし、悪魔の誘惑に打ち克たれたというこの物語は、現実にあったのでしょうか。この物語がそのまま歴史的な事実だったかどうかはわかりません。たぶん、イエスさまは断食をし、懸命に祈られる期間を持たれたことは確かだと思います。  その中で、イエスさまの頭の中に去来する、内的な、主観的な幻視、幻、また自問自答される姿がそこにあったのではないでしょうか。イエスさまご自身の神の子としての自覚、これから始まろうとする使命を遂行することへの決意、父である神さまへの信頼の確認、心の中から起こってくる葛藤、心の準備などが、このような物語として伝えられているのではないかと思います。 3 悪魔とは何か。  さて、この物語に登場する「悪魔」について考えてみたいと思います。  悪魔というと、漫画や絵本に出てくる、上から下まで真っ黒で、耳がとんがっていて、口が耳まで裂けていて、しっぽがあって、らんらんと目を輝かせているといった悪魔の像を思い起こします。しかし、それは、お話に出てくる悪魔の姿で、そのような生き物は実際にはありません。また単に精神的な想像の生き物でもありません。  「悪魔」は、英語では「デビル」、ギリシャ語では「ディアボロス」、ヘブル語では「サタン」と言います。「敵対する者、反対する者、反逆する者」というような意味を持っています。  聖書では、悪魔について、定義した言葉はありませんが、たびたび重要な位置に登場します。アダムとエバに、禁断の木の実をすすめた蛇は「誘う者」の役を果たしています。荒れ野で、イエスさまに現れた悪魔も、「誘惑する者」ということができます。  私たち人間を誘惑しようとする悪魔は、私たち自身の外にあり、また、自分の内側にも潜んで働きかけます。  悪魔は、現実にあるものとして語られますが、その正体ははっきりしません。聖書全体から見ると、神さまに従おうとする者を反対の方向に引き戻そうとする力。神に近づこうとすればするほど、悪魔の力が強く働いて、引き戻そうとします。また、悪魔は、光に照らされてできる影のようなものだといわれます。影はどこにでもついて来ます。そして光が強ければ影もはっきり浮かびあがり、光が弱ければ影も薄くなります。なまくらな信仰者には、神さまから引き戻そうとする悪魔の誘惑も弱くなります。  さらに、悪魔は、人間のように人格を持っています。人間が意志を持ち、主体的に動いているように、悪魔も、別の人格を持ち、ほくそ笑みながら自分の意志をもってうごめいています。悪魔の誘惑は、良いもの、快いもの、美味しいものを与えようと提案してきます。私たちの本能や欲望に訴えかけ、決して嫌なこと、苦しいことは提案しません。悪魔はいかにも良く見えることに誘い、決して悪いことへ人を導くそぶりは見せません。すべて人々のためになると言って、優しく働きかけます。また、悪魔は、聖書の言葉、神の言葉を用いてでも誘ってきます。非常に聖書の言葉に精通していて、聖書の言葉をよく知っています。悪魔は、聖書の時代の昔の生き物ではなく、時代と共に姿を変え、手を変え品を変えて近づき、現在に生きる私たちのまわりにうごめいています。 4 悪魔に打ち克つ  イエスさまは、これから始まる宣教活動を前にして、その準備のために、厳しい自然の中で、ひとり静かに「祈り」の時を持たれました。私たちと同じ肉体をとり、その弱さを持ち、それを克服するために断食をし、ひたすら祈っておられました。そのイエスさまにも、悪魔が現れて、誘いかけてきたのです。  最初は、空腹の極限にあるイエスさまの肉体的な飢餓に訴えて働きかけてきました。  第2に、神の子として生きなければならないイエスさまに、「神の子ならば」と言って、権力と繁栄をちらつかせ、神以外の者に礼拝することを求め、神への信頼を裏切らせようとしました。  そして、最後に、エルサレムの神殿から飛び降りてみよと言って、ほんとうに助けてくれるかどうか、父である神の愛に疑いを持たせ、試させようとしました。  しかし、イエスさまは、これらの悪魔の誘惑をことごとく退け、「サタンよ、退け」(マタイ4:10)と言って、これに打ち克たれました。  悪魔の誘惑の怖さを知らずして、ほんとうの信仰は分からない、神さまのみ心が分からないと言われます。  私たち自身、毎日の生活の中で、絶えず悪魔の誘惑に身をさらしている。しかし、実際には、どれが悪魔の誘惑であるということを見極めることが非常に難しいことです。  また、同時に、私たち自身が、身近な人々に悪魔的な役割を果たしてしまっていることがあります。  さらに、自分自身の中にも悪魔が住みついていることも忘れてはなりません。頭では分かっていても、誘惑に負けてしまう。体が、肉体が、欲望が、悪魔との戦いに負ける言い訳を作ることもあります。  イエスさまが、悪魔と向き合い、戦われたように、勇気と忍耐をもって、悪魔と向き合うことも大切です。  大斎節。イースターを迎える心の準備として、自分の周辺に巣をつくっている悪魔と向き合い、勇敢に戦いつつ、この大斎節を過ごしたいと思います。 〔2016年2月14日 大斎節第1主日(C年) 於 ・ 加悦聖三一教会〕