救われる者は少ない。

2016年02月21日
ルカによる福音書13章22節〜30節  今日の福音書、ルカの福音書13章から、ご一緒に学びたいと思います。 23節、「すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(23-24)  マタイによる福音書では、7章13節、14節に、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は、なんと狭くその道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」と記されています。  マタイ福音書とルカ福音書は、同じ資料から編集したものだろうと言われますが、マタイは「狭い門」と「広い門」とを対比させて、狭い門から入れと言われていますが、ルカの福音書では、門ではなく「戸口」となっていて、広い門との対比はありません。  いずれもイエスさまは、狭い門、狭い戸口から入るように努めなさいと教えておられます。  この「努めなさい」という言葉は、ギリシャ語では、「アゴーニゾマイ」という言葉で、単に、「努力しましょう」ではなく、「競技する」「戦う」から「奮闘する」、「苦闘する」、「もがく」という意味を持っています。戦い抜いて狭い戸口から入りなさいという厳しい言葉です。  京都聖マリア教会は、平安神宮の隣りにあるのですが、この平安神宮の南側にある岡崎公園に面して、そば屋さんやうどん屋さん、中華料理屋、レストランなどが並んでいます。 その中の一軒のうどん屋さんの前には、いつも大勢の人が並んで列をつくっています。朝9時頃から、夕方まで、狭い歩道に沿って、折れ曲がって並んでいますので、そちら側の歩道を通ることができないぐらいです。真夏のかんかん照りの日も、雪がチラつく寒い日も、延々と並んでいます。「山元麺蔵」(やまもとめんぞう)というその店は、狭い間口の町家風のうどん屋ですが、なんでも京都の観光客向けの雑誌やインターネットに、「美味しいお店」だと紹介されているのだそうです。  私は、その店の前を通るたびに、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたイエスさまの、この言葉を思い出します。一杯のうどんを食べるために、真夏の炎天下の日陰も何もない下で、1時間も2時間も立っている「努力」には驚きます。(ちなみに、私は、何年もその前を通っていますが、そのうどん屋には一度も入ったことがありません。)  そのうどん屋の前を通って5分ほどで、聖マリア教会に着くのですが、礼拝堂の扉は、朝から夕方まで、一日中、扉が開け放たれていて、外の通りから祭壇や十字架が見通せるほど解放されていますが、いまだかつて、教会の入口の前に、行列ができたという話は聞いたことがありません。  うどん屋と教会を比べること自体間違っているかも知れませんが、もし、イエスさまが、うどん屋と教会の前に立たれたら、何と言われるだろうかと、いろいろ想像してしまいます。  なぜ、うどん屋に行列ができて、教会の前に行列が出来ないのかということを考えてみますと、はっきりしていることがあります。  それは、「求めているもの」が、違うということです。一方は、美味しいうどんやそばを食べるという幸せと、京都に行って、有名なあそこのうどん屋で長い時間並んで、たいへんな努力をして、あそこのうどんやそばを食べてきたと話し合える満足感が、満たされる喜びのためだと思います。いわば、「うどんを食べる」ということを通して、瞬間の天国を見出しているのだと言うことができます。  これに対して、教会が、キリスト教が、イエスさまが、与えようとしている天国は、瞬間に味わえるような喜びではない永遠の生命だからなのです。  現代に住む人々は、美味しいうどんを食べて喜ぶ幸せを求めるための努力はしますが、生命にかかわる本当の幸せ、神の国に入る喜び、ほんとうの救いを、なかなか求めようとはしません。  そうゆう意味で、教会の門の方がどこよりも入りにくく、入るのが難しいのです。目に見える姿とは逆です。  聖書の言葉に戻りますと、ある時、ある人が、イエスさまの所にきて、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねました。  この質問には、どんな人が救われるのでしょうか、誰でも救われるのではないのですか、誰が救われるのでしょうか、救われるための条件とは何ですか、という意味が含まれています。  これに対して、イエスさまは、その問いには直接答えられないで、そこにいた群衆に向かって、言われました。 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。  イエスさまが言われる「戸口」とか「門」から入るとは、どこへ入るのでしょうか。うどん屋へ入る入口、そば屋に入る門ということは、目に見えるのでよくわかります。暑い中を長い時間立ち尽くして待って、大変な努力をしてやっと涼しい店内に入って、待ちこがれたうどんにありつける、その幸せについては想像することができます。  しかし、イエスさまが語られる狭い戸口とはどのような戸口なのでしょうか。その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか。  その戸口の向こうにあるのは、「神の国」です。神さまが完全に支配される「神の王国」です。神さまの力が、神さまのみ心が、何ものにも邪魔されず、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。  この神の国には、入口すなわち門はありますが、周りには、塀も堀もありません。あるのは戸口だけです。  続いてイエスさまは、神の国について、たとえで語っておられます。(25-27節)  「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたいて、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』(詩編6:9)と言うだろう。」  と、イエスさまはこのようなたとえの話をされました。  この時、イエスさまを囲んで話を聴いているのは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神さまによって選ばれた民族である。神さまから救われることは保証されていると思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、神さま、神さまと言っていれば信仰深いのだと思っていた人たちでした。  イエスさまは、このような人たちに神の国に入るのは難しいと語っておられるのです。ユダヤ人たちは、イエスさまを捕らえ、苦しみを与え、最後には十字架につけて殺してしまいました。かれらこそ、不義を行う者どもだったのです。 「おまえたちは、『あなたと一緒に食べたり飲んだりしました。また、あなたから広場でお教えを受けました』と言うだろう。しかし主人は、すなわち神さまは、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」  また、神さまである家の主人は、おまえたちを神の国から外に投げ出してしまい、おまえたちは、泣きわめいて歯ぎしりする。その間に、異教徒、異邦人と言われている人たち、ユダヤ人以外の人たちが、東から西から、また南から北から神の国の宴会に招かれ、この宴会の席につくことになるだろうと、言われたのです。  神さまの思いが、ユダヤ人への救いの約束を破棄し、異邦人に向かって門戸が開かれようとしていることにあることがわかります。 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言って、誰が、どんな人が、どれぐらいの人が救われるのかと尋ねた問いに対して、それよりもだいじなことがある。あなたがたは、今、神の国の入口から入るために、努めているのか、闘っているのか、先延ばしにしているのか、真剣に入ろうとしているのか、どちらなのだと迫っておられます。  狭い門、狭い戸口というのは、うどん屋の間口の狭さのようなものではありません。美味しいうどんを食べる順番を待つ苦痛に打ち克つ努力をすることでもありません。  ほんとうに、神の支配の下で、服従して生きるか、自分の欲望のままに生きるのか、今、自分自身の心の整理をし、自分自身と闘って、これに打ち克つのでなければ、神の国に入ることはできないのだと迫っておられるのです。  ですから、教会の門や戸は、いつも、広く開け放たれていても、イエスさまが言われる神の国に入ることはもっともっと難しい、信仰の道を通って、ゴールにいたるためには、自分に打ち克つ努力が求められているのです。  ルカ福音書12章28節以下に、イエスさまはこのように言われます。  「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人(神を知らない人々)が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」  「まず、神の国を求めなさい」「そうすれば、何を食べようか、何を着ようか、それらは、神が加えて与えて下さる」と約束して下さっているのです。  また、ヨハネによる福音書では、イエスさまは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(10:9) と言われます。  「救われる者は少ないのでしょうか」  このような神の国の福音に、ほんとうに触れることができる者は少ない。そこにいたる戸口は狭いと言われるのは、このような神の愛、恵みを悟ることができる人は少ない、ほんとうにイエス・キリストを受け入れることができる人は少ないということです。  実は、その戸口がほんとうに狭いのではありません。そこに入ろうとする者に、妨げとなるものが多く、結果的にその戸口は狭くなっています。よほど、闘わねば、奮闘しなければ、その戸口から神の国に入ることは難しいと、イエスさまは言われます。  今日の大斎節第2主日の特祷をもう一度見て下さい。  「全能の神よ、わたしたちは自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。どうか外は体を損なうすべての災いを防ぎ、内は魂を襲う悪念を除いてください」と祈りました。  この大斎節に際して、自分をふり返り、神の国に入ることを全身全霊をもって求め、願っているかどうか、自分を吟味してみたいと思います。 〔2016年2月21日 大斎節第2主日(C) 於 ・ 東舞鶴聖パウロ教会〕