悔い改めなければ滅びる.

2016年02月28日
ルカによる福音書13章1節〜9節 大斎節も第3主日を迎え、間もなく40日の半分を迎えようとしています。  今、読みました福音書から、私たちの罪と罰、「悔い改める」ということについて、学びたいと思います。  今日の福音書は、ちょっと解説しないと、読んでもすぐには、意味がわからないような個所です。  最初は、13章の1節〜3節では、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件についてのイエスさまの教えです。  第2の4節〜5節では、「シロアムの塔が倒れて18人の人が死んだ」という事故について、イエスさまが教えられたことが記されています。  そして、3番目の6節〜9節では、「実のならないいちじくの木」のたとえを、イエスさまは人々に語られました。  最初の「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という出来事と、第2の「シロアムの塔が倒れて18人の人が死んだ」という出来事についてですが、今のようにテレビや新聞、インターネットなどがない時代ですから、このような事件が起こり、ユダヤの人々の間で噂になっていた大きなニュースだったようです。  何人かの人々が、イエスさまの所にきて、最近起こったこれらの事件について話しました。  いつ、どこで何が起こったのかという事件の内容については、何も書かれていません。  まず最初の、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件ですが、神さまに犠牲をささげる儀式は、エルサレムか、またはサマリアのゲリジム山でしか行われていませんから、そのいずれかで、神の祭壇に犠牲を捧げようとしたガリラヤ人が、何らかの理由で、ローマの提督ポンテオ・ピラトの下にある家来か兵隊に殺された、「血祭りにあげられる」という事件があったのではないかと推測されます。  または、もう一つの推論は、西暦70年に、ローマ軍がエルサレムを攻め、エルサレムの神殿が破壊されました。ルカがこの福音書を書いている時には、そのことを知っていましたから、この事実を取り入れたのではないかとも言われています。いずれにしても、ローマの総督ピラトの手下によって、何人かのユダヤ人が殺されたという事件がありました。  さらにもう一つの、「シロアムの塔が倒れて、18人の人々が死んだ」という事件ですが、これもその背景からいろいろ推察して見るより仕方がありません。  エルサレムは、石灰岩の山の上に立てられた町で、標高790メートルの高い所にあります。古くから人は住んでいたのですが、最初に大規模な町を建てたのはダビデ王で、さらにその子ソロモンが城壁を巡らし、神殿を築いて大きな都市としました。しかし、ここで生活する人々にとって、一番大きな問題は、「水」を得るということでした。唯一、「ギホンの泉」と呼ばれる泉があって、そこから水を引いて、生活にあてられていました。溝を掘ったり、トンネルを掘ったりして、町全体に灌漑が行われていました。北の方にあるギホンの泉から、「シロアムの池」と呼ばれるプールのような貯水池に水が送られ、そのシロアムの池は、城壁で囲まれ、つねに厳しく監視されていました。そこには監視するための高い塔があったらしいという遺跡が残っています。  その塔の修復工事か何かの時に「シロアムの塔が倒れて18人が死んだ」という事故があったのではないかと言われています。  ユダヤのある人たちは、イエスさまに、このような事件や事故のニュースをいち早くしらせて、そして言いました。 ローマの兵士たちとのいざこざで殺されたガリラヤ人たちは、ほかのどのガリラヤ人よりも、何か罪深いことをしたから、罪深い者だったから、死んだのでしょうかと。  また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人のエルサレムの市民たちは、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者たちだったのでしょうか、とイエスさまに尋ねたのです。  すると、イエスさまは、いずれに対しても「彼らが(すなわち死んだ人たちが)特別に罪深い者だった、悪いことをした人たちだと、あなた方は決めつけるのか。決してそうではない」と、はっきりと答えられました。  因果応報というか、悪いことをすると罰があたるとは、私たちも子どもの頃から教えられてきたことです。  旧約聖書を見ますと、預言者エゼキエルを通して、神さまは語っておられます。(エゼキエル18:23〜24) 「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。」 アブラハムの子孫、ユダヤ人であっても、神の掟を守らず、過ちを犯した者は死ぬと教えられています。  イエスさまの時代の人々は、ファリサイ人や律法学者たちから「律法を守り神の命令に従う者は生き、律法を守らず罪を犯した者は死ぬ」と教えられていました。  そのことから、さまざまな事件や事故などで災難を受けて死んだ人たちも、いつか、どこかで罪を犯した罪深い人たちだったのですねと、イエスさまに語りかけてきたのです。  それは、災難に遭って死んだ人たちを裁き、裏返せば、自分たちが生きているのは、正しいことをしているからだというおごりがありました。  イエスさまは、これに対して、「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われました。  イエスさまはこの世における災難や病気の原因と、それらは罪を犯した結果であると、断定する、いとも単純に、機械的に、割り切ってしまう因果関係に対して、「決してそのようなものではない」と言い放たれました。  その上で、自分たちは罪を犯していない、自分たちは正しいと考え、胸を張っている人たちの自己満足と、自分自身をふり返ることができない怠慢を指摘して言われました。 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。そして、「実のならないいちじく木」のたとえを話されました。  ある人がぶどう園に、いちじくの木を植えておき、実を探しに来たのですが、一つも見つかりません。そこで、(ぶどう園で働いている人)園丁に言いました。「もう3年もの間、このいちじくの木に、実を探しに来ているのに、一つの実も見つけることができない。だからこの木を切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と。すると園丁は答えました。 「御主人様、今年も、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」  イエスさまは、このように、たとえ話で話されました。  イエスさまは、何をどのように、たとえておられるのでしょうか。  「ぶどう園」とは、イスラエルの民、イスラエルの人々を指しています。「いちじくの木」とは、エルサレムまたは、一人ひとりのユダヤ人を指しています。「園丁」とは、イエスさまのことです、「3年間」とは、イエスさまが人々の中で費やされた宣教活動の期間です。  神さまは、ユダヤ民族、イスラエルを選び、そこにいちじくの木、すなわちをエルサレムの民、ユダヤ人を置かれました。神さまは、そこで、ユダヤ人の一人一人が実を稔らせることを期待しておらたのです。ところが、いちじくの木は、葉ばっかりが繁り、神さまの期待に応えようとせず、一つも実を稔らせません。そこで、園丁であるイエスさまを送って、期待に応えないユダヤ人を打ち倒そうといちじくの木を切り倒せと命じました。するとイエスさまは、もう一度、人々に教え、奇跡を行い、彼らの目を覚まさせるようにしますから、しばらく待って下さいと言って、神さまに取りなしをしました。  ここに神さまの期待に応えず、一向に実を稔らせようとしないユダヤ人の頑なさや不信仰、不従順があります。これに対して、神さまは、イエスさまに命じて、神の裁きを下そうとされました。しかし、イエスさまは、神さまに申し出て、もう少し待って下さいと言って、ユダヤの人々を悔い改めさせましょうと言って、しばしの猶予の時を願います。  さて、実際に起こった出来事を見ますと、ユダヤ人、ことにエルサレムの市民たちは、「十字架に付けよ」と叫んで、イエスさまを殺してしまいました。神の子を殺すという大罪を犯したのです。その結果、神さまはユダヤ民族との約束を破棄し、古いいちじくの木を捨てて、異邦人の畑に、新しいイスラエル、新しいいちじくの木を植えられたのです。それがキリストを頭とする教会です。そして、今、私たちがいちじくの木であり、神さまは、この木に新しい実がなることを期待しておられます。  神さまが期待しておられるいちじくの実とは、何でしょうか。二つの事件の後に、イエスさまは、ユダヤ人たちに言われました。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。事件や事故によって災難に遭った人たちを、彼らは、神の掟に従わなかった、不正な行為をしたから死を招いたのだと彼らを裁き、自分自身を正しい、信仰深いから生きているのだと思い上がっている人たちに、心の底から悔い改めることがなければ、自分たちの間違いに気づき、心から悔い改めるのでなければ、ほんとうに神さまからの裁きを受ける、滅びるといわれました。  神さまが私たちに求められる「いちじくの実」とは、心の底から、神さまを神さまとすることであり、神以外のものを神としないことであり、自分が神にならないことです。  神さまにすべてを委ね、神さまの御心に従おうとすることです。イエスさまを神のみ子であるということを心から信じて受け入れ、そのことを勇敢に証しする者となることです。  大斎節も半ばです。大斎節は、自分自身の信仰のあり方を吟味する時です。自分の傲慢さに気づき、心から悔い改める心の転換を図り、祈りと克己に努めるときでもあります。 「あなたがたも悔い改めなければ滅びる」と言われるこの言葉をテーマに、祈り、良き準備をして、復活の喜びの日を迎えましょう。   〔2016年2月28日  大斎節第3主日(C年) 於 ・ 四日市聖アンデレ教会〕