そんなことがあってはなりません。

2016年03月13日
ルカによる福音書20章9節〜19節  イエスさまは、神の国とか、神さまの愛とか、神さまと私たちとの関係について語られる時、いつも「たとえ」を用いて語られました。私たちの日常生活の会話の中でもよく「たとえば」と言っていろいろ説明したりします。  「たとえば、唯一の神さまと私たちの関係は、一夫一婦制を守る夫婦のようなものだ」と言うと、なるほどと、わかってもらえることがあります。  2つの全く違った領域や状態にあるものを比較し、一方のよく知られたものを通して、他の全く知られていないものを説明するという方法です。  マタイ福音書13章10節以下には、このように記されています。  ある時、イエスさまが、多くの人々に「種蒔きのたとえ」を語られた後、弟子たちが、イエスさまに尋ねました。  「先生、あの人たちには、なぜ、たとえを用いてお話しになるのですか」と。すると、イエスさまは、お答えになりました。  「あなたがたには、天国の秘密について悟ることが許されているが、あの人たちには、許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。しかし、あなたがたの目は、見ているから幸いだ。あなたがたの耳は、聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と。  このように「たとえ」を用いて話す理由を教えられました。  天国、神の国、永遠の生命など、信仰の最も大切なことをほんとうに知るためには、知識でも、思考力でも、経験でもなく、神さまによって選ばれ、神さまから与えられる「恵み」を受けた者のみが、それをほんとうに知ることができるのだと言われたのです。  そのことを頭に置いたうえで、今日の福音書に記された「ぶどう園と農夫のたとえ」をもう一度読んでみたいと思います。  「ある人が、ぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出ました。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送りました。ところが、農夫たちは、この僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返しました。そこでまた、ほかの僕を送りましたが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返しました。さらに3人目の僕を送りましたが、これにも傷を負わせてほうり出しました。  そこで、ぶどう園の主人は、『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみたらどうだろうか。この子なら、たぶん敬ってくれるだろう』と言って、息子を送りました。農夫たちは息子を見て、相談し合いました。『これは跡取息子だ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになるぞ』と。そして、この息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまいました。さて、この仕打ちに対して、ぶどう園の主人は、農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」  イエスさまは、このような「たとえ」を語られました。  すると、これを聴いていた人々は、口々に、「そんなことがあってはなりません、とんでもない奴らです」と言いました。このぶどう園で働く農夫たちがやったひどいことに対して怒り、非難したのです。  このたとえの中で、ぶどう園の主人、すなわちぶどう園の所有者、地主とは、神さまのことです。そのぶどう園で働く農夫とは、ぶどう園を借りてぶどうを作り、収穫を上げて小作料、年貢を納めることを契約し土地を借りている小作人です。これは、イスラエルの民をあらわしています。  そして、「長い旅」とは、旧約聖書の長い歴史の流れです。次々と使いに出された3人の僕とは、神さまから遣わされた預言者たちを意味しています。モーセであり、エリヤであり、イザヤであり、エレミヤであったのです。  そして、最後に遣わされた「息子」とは、イエスさま、すなわちイエス・キリストであることがわかります。  神さまは、多くの国や民族から、イスラエルの民を選び、アブラハムを通して、神の民とすることを約束されました。  イスラエルの民は、神に選ばれた民として、律法が与えられ、神のみ心に従って生きることを約束したのです。しかし、イスラエルの民は、その約束、契約を破り、なかなか神さまの言うことを聞きません。  そこで、神さまは、次々と預言者たちを遣わして、神さまとの契約に立ち帰ることを求めました。しかし、イスラエルの民は、神の使いである預言者たちに迫害を加え、痛め尽くして追い返しました。そして、最後に、神さまは、「愛する子」そのひとり子、イエスさまをこの世にお遣わしになりました。  ところが、イスラエルの人々は、神の子イエスを殺してしまいました。  この福音書の編集者ルカは、イエスさまが十字架につけられ、死んで葬られた出来事も、西暦70年に起こったエルサレム陥落も、歴史的事実として知っていてこれを書いています。  イエスさまが、この何千年にも渡る歴史的な事実を、たとえとして語られると、人々は、「そんなことがあってはなりません」と言って、農夫たちを非難しました。  たとえとして聞かされると、物事を客観的に見ることができ、何が良いことか悪いことかを判断することができるのですが、しかし、実際の出来事の中に身を置くと、自分たちのしていることが見えなくなり、正しい判断ができなくなります。  そして、彼らこそ、イエスさまに向かって、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んだのです。  このたとえを話された後、イエスさまは、この話を聞いていたユダヤ人たちをじーっと見つめて言われました。  「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。  『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者は、だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」  この最初の部分は、詩編118編22節「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」の引用です。  この当時のパレスチナ地方の家や建造物は、石を積み上げて作り上げられていました。石工は、ちょうど良い石を選び、要らない石を捨ててしまいます。しかし、時代が変わり、次の新しい建物が建てられる時には、この捨てられた石が、石工の目にとまり、次の建物の親石「コーナー・ストーン」、基準石となって、新しい建物の基礎、中心となる石として取り上げられることもあります。  そのような意味で、神さまによって選ばれたイスラエル民族も、次の時代には打ち壊され、かつて、捨てられた石、すなわち異邦人が、親石、コーナーストーンとして用いられ、大役を果たすことになると言われるのです。  さらに、18節以下の「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」は、イザヤ書8章14節、15節の「主は聖所にとっては、つまずきの石、イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩、エルサレムの住民にとっては、仕掛け網となり、罠となられる。多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる」を連想させる言葉です。  最後にイエスさまは言われました。  イスラエルの民に対して、神さまご自身が、つまづきの石となる、妨げの岩となる、あなたたちは、妨げられ、倒れて打ち砕かれると、厳しく指摘されました。  多くの群衆に混じって、イエスさまの話を聴いていた律法学者たちや祭司長たちは、イエスさまが、自分たちに当てつけて、このようなたとえを話されたのだと気づいて、イエスを殺そうとしましたが、民衆を恐れて、それはできませんでした。  このたとえは、イエスさまが、イスラエルの民、ユダヤ人に向かって語られた話です。  かつて、神さまが選ばれたイスラエルの民は、神さまの求めに応じず、ある時は偶像崇拝に走り、また後には律法やしきたりを振り回し、これを形式化し、形骸化し、神さまのみ心に従うことをしないこのような歴史を繰り返してきました。神さまは預言者たちを遣わし、忍耐強く待たれましたが、最後に愛するひとり子をお遣わしになりました。しかし、ユダヤ人たちはそのひとり子を十字架につけて殺してしまいました。  エルサレムの郊外、ゴルゴタの丘に立てられた十字架を境にして、神さまは、ユダヤ人、イスラエルの民との契約を破棄し、彼らを見捨てて、新しいイスラエルをお建てになりました。  「さて、ぶどう園の主人は、農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15節、16節)が、実現したのです。  エリート意識のかたまりであった古いイスラエルを捨て、新しいイスラエル、12弟子たち、すなわち使徒たちを中心とした教会、異邦人の世界に向かって広がっていく教会が建てられました。  さて、そのことから、約2千年が経って、「新しいぶどう園」で働く農夫なのです。教会というぶどう園に属し、私たち一人一人が、そこで働くように任されています。  私たちは、「神さまの収穫の時」がきた時、収穫を納めなければなりません。その時、私たちは、何と答えるでしょうか。  教会は、私たち一人一人は、神さまにどのような収穫を納めることができるでしょうか。  決算を迫られる、裁きの時はまだきていません。  しかし、今日のこの福音書のたとえは、今の時代を生きる教会に、また私たち一人一人に、私たちの信仰の在り方について問われている「たとえ」です。  私たちは、何と答えるでしょうか。