十字架上の最後のことば
2016年03月20日
ルカによる福音書23章1節〜49節
この週は、私たちは、イエスさまが捕らえられ、十字架につけられて息を引きとられるまでの、この世における最後の出来事を記念します。
イエスさまは、裁判にかけられ、鞭打たれ、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。その場面の一つ一つ心に思い起こしながら、黙想したいと思います。
現代に生きる私たちは、ちょっとケガをしても、麻酔を打ってもらって手術をしても、痛い、痛いと大騒ぎをします。 ところが、イエスさまは、39回鞭打たれ、茨の冠を被せられ、手と足を十字架に釘で打ち付けられ、その十字架が立てられた後、体重がその傷口にかかります。その激痛のために失神してもおかしくないような苦しみの中で、イエスさまはうめいておられます。
私たちは、その十字架を見上げる時、イエスさまの痛みをどれほど自分の痛みとして感じることができるでしょうか、また、それを受け取ることができるでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、イエスさまの受難と十字架の死について、いずれも多くのページ数、行数をさいて、私たちに伝えています。
とくに、十字架にかけられて、十字架の上から語られた言葉、発せられた叫び声、呻き声を集めてみますと、4福音書の中に、7つの言葉が見られます。これを、「十字架上の七語」と云います。
十字架上の言葉の、まず第1の言葉は、
イエスさまは、捕らえられて、あちこち連れ回され、前の日から一睡もしておられない、衰弱しきった体のうえに、重い十字架を担がされて、「されこうべ」と呼ばれる、エルサレムの城壁の外にある刑場へ、連れて来られました。そこでローマの兵士たちは、イエスさまを十字架につけました。同時に、2人の犯罪人も連れて来られ、一人は、イエスさまの右に、一人は左に、同じように十字架につけました。
そのとき、イエスさまは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
かつて、イエスさまは、
「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵 を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27以下)と。
また、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(ルカ10:21)とも言われました。
イエスさまは、苦痛にもだえ苦しみながら、敵のために祈り、今、起こっていることのほんとうの意味を理解できない人々のために、神さまに赦しを乞われました。そして、かつて、人々に教えられた言葉を実現しておられます。
第2の言葉は、
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、同じように十字架につけられ苦しみもだえながら、イエスさまをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。すると、もう一方の犯罪人がたしなめました。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。おれたちは、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ(あたりまえだ)。しかし、この方は何も悪いことをしていないというではないか」と言い、さらにイエスさまに向かって「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。
するとイエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。(ルカ23:43)
イエスさまを罵った犯罪人は、「お前がメシヤなら」すなわち「ユダヤの王なら」と、現実社会の改革者をイメージして言ったのに対して、これをたしなめた方の犯罪人は、「あなたの御国にお出でになるときには」と、神の国、神の支配が全うされる所ではと、イエスさまの王国を指し、ほんとうの救いを求めました。イエスさまは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園(天国)にいる」と、確約されました。
第3の言葉は、
イエスさまの十字架を見上げている人たちの中に、他の婦人たちと共に、イエスさまの母マリアがいました。母マリアとそのそばに立っている愛する弟子とを見て、マリアに、「婦人よ、御覧なさい。これがあなたの子です」と言い、それから愛する弟子に「見なさい。あなたの母です。」と言われました。そのときから、この弟子はイエスさまの母を自分の家に引き取ったと記されています。(ヨハネ19:26、27)
第4の言葉は、
昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。3時に、イエスさまは大声で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」叫ばれました。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。(マルコ15:34 マタイ27:46)
この言葉は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という詩編22編2節からの引用です。
イエスさまは、痛み、苦しみの極限の中で、天を仰いで、神さまに祈られます。イエスさまは、神でありながら人となられた、半神半人ではなく、全き神でありながら私たちと全く変わらない人となられました。私たちは、罪のゆえに、神さまから見捨てられようとしています。ところがイエスさまは、私たちの罪を負って、取りなしをして下さいます。
「わが神」「わが神」と、父である神さまに呼びかけておられます。
第5の言葉は、
この後、イエスさまは、すべてのことが、今や成し遂げられたのを知り、「渇く」(詩編22:16)と言われました。このようにして、旧約聖書に記された聖書の言葉が実現しました。
第6の言葉は、
そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてありました。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプ(ヒソプという植物の茎)に付け、イエスさまの口もとに差し出しました。(ヨハネ19:28) イエスさまは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。(ヨハネ19:30、ヨハネ17:4)
口語訳聖書では「すべてが終わった」と訳されています。十字架におけるイエスさまのなすべき業の完成と栄光が、この時、はっきりと示されました。
一方、ルカによる福音書によると、既に昼の12時ごろになり、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。太陽は光を失い、その時、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。イエスさまは、大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られたと記されています(ルカ23:46)。これが十字架上の第7の言葉とされます。
十字架上の7つの言葉をもう一度、ふり返りますと、
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知 らないのです。」
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園 にいる」
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あな たの母です。」
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか」
「渇く」
「成し遂げられた」
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られました。
この7つの言葉が、十字架の上で、痛み、苦しみの中で、イエスさまが語られた、叫ばれた言葉とされています。
先日出ました「文芸春秋」という月刊誌の3月号に、「88人の生きる意味を教えてくれる最期の言葉」という題で、戦後に亡くなった88人の各界の人々の死ぬ直前の言葉を収集し、特集しています。政治家やタレント、スポーツ選手や作家等、様々な分野の人々の、亡くなる前の最期の言葉が集められ、非常に興味をもって読みました。
私ぐらいの年になりますと、息を引き取る瞬間に、人生の最後に、何と言おうかと考えてみることがあります。事故や突然死のように、そんなことを言っていられない場合もありますが、それぞれ長い人生を生きてきて、最後の一言というのは、その人の生き方や人柄やその人の生涯を表し、これを見るような思いを持ちます。
そのようなことを考えつつ、イエスさまの最後の言葉をもう一度読み返してみますと、他の誰とも比較できない、重みと緊張と深い意味を感じます。
私たちが死に至るように、イエスさまも死なれたのです。私たちは死なねばならないから死にます。私たちは、どんなに生きながらえたいと願っても、自分で1分たりとも生命を引き延ばすことはできません。死に直面する私たちは全く無力です。
十字架を背負い、歩かれるイエスさまのお姿は、死に向かって、私たちと同じように無力な弱々しいものに見えました。イエスさまに向かって人々は「十字架から降りてみよ」とあざけりました。イエスさまは、ご自分のために、奇跡を起こし、十字架から降りることも、できたかも知れませんが、そのようにはなさいませんでした。
イエスさまは、死ななければならないから死に給うたのです。イエスさまは、ご自身を私たちのためにお与えになるために、死に給うたのです。
イエスさまの死は、私たちを愛する愛、神さまの愛を明らかにするためだったのです。
イエスさまは、ご自分の死の時を、定めておられました。イエスさまは、あたかも召使いを呼び寄せるかのように、「死」に命令を下し、定められた時に、ご生涯を閉じられたのです。
イエスさまは、天を仰ぎ父の名をお呼びになり、ご自分の霊を、父のみ手にゆだねられました。
神のみ子であるイエスさまは、私たちと同じ肉体を取って人間となり、私たちと同じように死んで下さいました。
もし私たちに死ぬ時が来て、息を止める瞬間には、私たちも、イエスさまにならい、「主よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、言って、祈って、死にたいと思います。
いい格好をしてではなく、心の底から出る自分の言葉で、イエスさまと同じ言葉が言えるようになりたいと思います。
そのためには、今、現在、そして、これから、私たちがどのような生き方をしているかが問われるのではないでしょうか。
イエスさまは、ひときわ大きな声で叫ばれた。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られました。
十字架の下にいた、異邦人でありローマの兵隊の百人隊の隊長は、この出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました。
〔2016年3月20日 復活前主日(C) 東舞鶴聖パウロ教会〕