主イエスの遺体が見当たらなかった。

2016年03月27日
ルカによる福音書24章1節〜10節  イースターおめでとうございます。  今日は、キリスト教の2大祝日の一つ、主イエスのご復活を祝う日です。ただ単に、お祭りだから「おめでとうございます」ではなく、私たちに与えられた「主の御復活」を知る恵みをしっかりと受け取り、喜びの日とし、さらに私たちも復活にあずかる希望を確認したいと思います。  ご存じのように、イエスさま誕生の物語は、マタイとルカの2つの福音書にしか記されていませんが、イエスさまの十字架の死と復活の出来事については、4つの福音書全部に記され、そのいずれも、沢山の行数を裂いて紹介しています。それは、初代教会においては、この出来事をいかに重要視していたかということがわかります。  ルカの福音書に沿って、イエスさまが復活された日の出来事を想い浮かべ、黙想したいと思います。  現在の暦に当てはめると、それは、金曜日のことでした。  イエスさまは十字架につけられ、太陽は真上に照りつける、昼の12時ごろになりました。急に太陽は光を失い、全地は暗くなりました。ちょうど日食が始まったかのようでした。それが3時まで続きました。さらにその時地震が起こり、石の壁は崩れ、エルサレムの神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。その時、イエスさまは、大きな声で叫ばれました。 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」  こう言って息を引き取られました。  十字架の下で、これを見ていたローマの兵士百人隊の隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したと記されています。  見物のために集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら、ぞろぞろと帰って行きました。  弟子たちや、以前イエスさまを慕ってガリラヤからついて来た婦人たちや、イエスさまを知っていたすべての人たちは、遠くに立って、呆然とこれらの出来事を見ていました。  さて、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ議会の議員で、ヨセフという人がいました。この人は、イエスさまが教えておられた神の国を待ち望んでいた人で、善良で正しい人でした。他の議員たちがした決議や行動には同意していません。  このヨセフが、ピラトのところに行って、イエスさまの遺体を渡してくれるように願い出て許可を得ました。他の人たちと共にイエスさまの遺体を十字架から降ろし、亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩を掘って作った墓に納めました。  その日は、過越の祭りの準備の日であり、夕方から安息日が始まろうとしていました。ガリラヤから来てイエスさまと行動を共にしていた婦人たちは、ヨセフの後について行き、お墓とイエスさまの遺体が納められた様子を見届け、家に帰りました。彼女たちは、安息日が明けると、もう一度お墓を訪れ、イエスさまの遺体の手入れをするため、香料と香油を準備しました。そして、婦人たちは、安息日の掟を守って、土曜日は一日家にいました。  そして、日曜日、一週の初めの日の明け方、早く、婦人たちは、準備しておいた香料を持ってイエスさまのお墓に向かいました。お墓に行ってみると、お墓の入口をふさいでいた大きな石が横穴の入口のわきに転がしてありました。中に入って、イエスさまの遺体を安置した所へ近づいたのですが、そこにあったはずのイエスさまの遺体が見つかりません。なくなっていました。婦人たちは、びっくりすると共に、どうしていいのか途方に暮れていました。すると、白く輝く衣を着た2人の人がそばに現れ、婦人たちは、恐くなって、地に顔を伏せると、その2人は言いました。  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜しているのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっていると言われたではないか。」  そう言われて、弟子たちが聞き、また婦人たちも聞いていた、かつてイエスさまが語られた言葉を思い出しました。  そこで、婦人たちは、お墓から急いで帰り、11人の弟子たちやほかの人たちがいる所に行って、お墓の様子をみんなに一部始終を知らせました。  この婦人たちとは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでした。  婦人たちはこれらのことを弟子たちに話しましたが、弟子たちは、この話を聞いても、何をたわ言を言っているのだと言って、すぐには信用しませんでした。  しかし、ペトロは、立ち上がって墓へ走り、お墓のある洞窟を身をかがめて中をのぞくと、イエスさまを葬った場所には、イエスさまを包んだ亜麻布しかありませんでした。弟子たちは、この出来事に驚きながら家に帰りました。  これが、金曜日から日曜日の朝にかけて起こった出来事です。ルカが伝えるイエスさまの十字架上の最後と、葬りと、よみがえりの出来事です。日曜日の朝のこの状況では、確かに葬ったはずのお墓が空っぽになっていたこと、婦人たちや弟子たちもこの事実をはっきり見たのですが、その直後には、イエスさまの復活を信じることができなかったということです。  ところが、その後、復活したイエスさまが、たびたび弟子たちに現れたということから、イエスさまのご復活が信じられるようになっていきました。これが「主イエス復活の物語」であり、イエスさまが死んでよみがえられたという、奇跡の中の奇跡ともいうべき物語として伝えられてきました。  私たちが住む地球上には、数え切れないほどの種類の動物が生きています。私たち人間もその動物の一種です。その数ある動物の中で、人間だけが、ものを考えたり想像したり、過去をふり返ったりすることができます。人生の目的とは何かとか、生きる意味は何かとか、生きがいについてなどと、他の動物では考えることはできません。  私は、NHKの「ワイルドライフ」など、野生の動物を描いたドキュメンタリー番組をよく見るのですが、草食動物が、肉食動物に捕らえられて餌食にされる場面があります。弱い動物は、一生懸命逃げますが、最後に捕らえられた時、「あれっ、どうなっていっるの?」というような、そんな目をしているように思います。人間が死ぬときのように、苦悩とか諦めとか、恐怖というような目をしていません。  人間だけが、何のために生きるのかとか、死んだらどうなるのかというようなことを考える動物だと思います。  昔から、哲学者や文学者や宗教家など、いろいろ考えられてきましたが、はっきり言って、人生に決められた目的というようなものはありません。  しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、空しい。空しい人生は、何か大きな困難にぶつかった時には、生き続けることができない、そのために自棄になったり、自殺したりするようなことが起こります。  人生の目的は、「自分の人生の目的」を探すことであると言った人がいます。それは、自分一人の目的、世界中の誰とも違う自分だけの「生きる意味」を見いだすことになります。 ところが、その目的というものは、私たちが生きている間には、なかなか容易には見つかりません。もし見つかったとしても、それは、目先の「目標」であって、目的ではないということが多いのではないでしょうか。  目標は、達成すれば終わります。そのあとには、自分は達成したという満足感が残るだけで、その満足感も、時間とともに薄れていきます。  ほんとうの目的とは、色あせることがない。失われることもないものだと思います。  人生の目的を「自分でつくる」という道もあります。自分だけの人生の目的をつくりだすということは、それは一つの物語をつくることだということです。自分で物語をつくり、それを信じて生きるということです。  しかし、それもまた、なかなかむずかしいことです。そこで、私たちには、自分でつくった物語ではなく、共感できる人びとがつくった物語を「信じる」という道もあります。  <人が何かを悟る>という物語。<死んだらどうなるか>という物語。<天国とはどのようなものか>という物語。<よみがえるとはどういうことか>という物語など、などです。  人間の長い歴史の中で、それぞれの時代に、それぞれの偉い、特別の能力を持った人たちが現れ、語り、教え、生きた「物語」というものが残されています。そして、偉大な物語が伝えられてきました。それが「宗教」というものだと思います。  人が全身で信じた物語は、真実となります。その人がつかんだ真実は、誰も動かすことはできません。それを奪うこともできません。失われることもありません。  しかし、自分以外の人がつく出した物語を本当に信じる、受け入れるためには、そのつくった人を尊敬できなければなりません。心から共感し、愛さなくては、信じることはできません。  ですから、信仰や宗教は、教義から始まるのではなく、その偉大な物語をつくり、それを信じて生きた人への共感と尊敬と愛から始まります。  仏教用語で、「帰依する」という言葉があります。「ナムアミダブツ」とか「ナムミョーホウレンゲキョウ」と祈る最初の言葉「南無」は、もとは、「ナマス」「ナモー」というサンスクリット語(「ナム」は、古代インドの言語、梵語からの音写です。)は、「帰依します」という言葉である。それは「信じます」であり、「尊敬します」であり、「愛します」でもあります(和英辞典を引きますと、embrace 「抱きしめる」)。  信仰や宗教は、ここから始まります。そういう存在が見つかった人は、幸せな人です。  信仰とは求めるものですが、求めて必ず見つかるものでもありません。その宗教との出会い、神との出会いは、ある意味では、<偶然>であるかも知れませんが、さらにそれを越えて神からの恵み、導き、捕らえられたと受け取ることができた時、その出会いに感謝し、喜びに溢れることができます。  私たちは、「キリスト教」という偉大な物語に出会いました。さらに言いかえれば、イエス・キリストという方に出会い、その方の教えと行ないに触れ、その生きざまと死にざまを通して、その指さされた生き方を、自分自身の「生きる目的」とし、生きる意味を見出そうとしています。  そして、主イエスご復活の物語は、キリスト教という偉大な物語の中の、最もだいじな物語であるということができます。私たちは、この物語に、どのように共感し、尊敬と愛をもって受け入れる、「帰依する」ことができるでしょうか。  聖パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、このように言っています。  「キリストは死者の中から復活したと、宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(コリント第一15:12-14)  「この世の生活で、キリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」 (コリント第一15:19-21)  「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、(土に落ちて朽ちなければ)死ななければ命(新しい芽が)を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(コリント第一15:35-38) 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリント第一15:42-44)  かつて、イエスさまは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。(ヨハネ12:24) 小さな麦も土の上に蒔かれて、朽ちて、姿がなくなって、はじめて芽が出て根が生えて大きくなって、沢山の実を稔らせます。  そのたとえと同じように、パウロは、私たちも肉体的に死んで、姿、形がなくなり、キリストがよみがえったように、私たちもよみがえり、新しく生まれ変わるのだ、肉に死んで、霊によみがえるのだと言います。  キリスト教の死生観はここにあります。イエスさまのよみがえりを信じることは、私たち自身の生き方と死んでどうなるのかということにつながっています。  主イエスの「よみがえり」の出来事、物語を、感謝して受け止め、私たちを「よみがえらせてくださる」ことを約束されていることに希望を持つ、そのような信仰を改めて確認したいと思います。  心から主を賛美し、感謝しましょう。 〔2016年3月27日 復活日(C年) 四日市聖アンデレ教会〕