もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。

2016年04月17日
ヨハネ福音書10章22節〜30節  それは、冬のことだったのですが、エルサレムの神殿で毎年行われる「宮清めの祭り」の日に、イエスさまは、エルサレムの神殿の中を歩いておられました。神殿のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられると、 そこへ、ユダヤ人たちがやってきて、イエスさまを取り囲んで言いました。  「あなたは、いつまで、わたしたちを不安のままにしておくのか。あなたが、キリストであるなら、メシヤなら、 そうとはっきり言ってもらいたい。」  彼らは、こう言って、イエスさまに詰め寄りました。  「キリスト」とは、ギリシャ語です。「メシヤ」とは、旧約聖書が書かれたヘブライ語です。日本語では、「救い主」と訳されています。もとの意味は、「油注がれた者」という意味で、ユダヤ民族の中で、大祭司であるとか、王であるとか、偉大な指導者になる時に、頭に香油を注ぐ儀式をし、神に祈って任命式や献身式が行われました。  預言者サムエルは、青年サウルの頭に油を注ぎ言いました。「主があなたに油を注ぎ、ご自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」このようにして青年サウルは、ユダヤの民の王となりました。(サムエル記上10:1)  また、サムエルは、エッサイの末っ子ダビデが連れて来られた時、「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」という神の声を聞き、兄弟たちの見ている前で、油を注ぎました。(サムエル記上16:12)このダビデが、 サウル王に仕え、後に、サウルに代わってイスラエルの王になりました。  このように、神の聖霊の働きにより、頭に香油を注ぐという行為をもって、民を導く王となり、指導者となり、 敵に打ち勝ち、民族を幸せにする者と任命されてきました。  この「油注がれた者」を「メシヤ」といい、ギリシャ語では「クリストス」、キリストとなって、そのまま「世を救う人」、「救世主」の意味になりました。  イエス・キリストの「キリスト」はイエスさまの姓ではなく、「救い主・イエス」という称号として呼ばれています。  イエスさまの所に、ユダヤ人たちが来て、イエスさまを取り囲み、「あなたは、ほんとうにメシヤなのか、キリストなのか」と言い、「いつまで、われわれに、気をもませるのか」「いいかげんに、はっきりしろ!」と言って迫ったのです。  たしかに、その当時のユダヤ人たちは、預言者たちの預言に希望を持ち、「救世主、救い主」が現れるのを待ち望んでいました。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国でした。ユダヤの王ヘロデはいましたが、ローマの皇帝にへつらい、税金を取り立てられ、生活は貧しく苦しい、一方、宗教的には、ユダヤ教の戒律はきびしいだけで、ほんとうに心が安まる時がない、イスラエルの民は、心身ともに疲れはてて、ただ、希望といえば、ほんとうのメシヤ、救い主が現れ、軍事的にも、経済的にも、自分たちを救ってくれる人を待ち望んでいました。もっと、具体的に言えば、過去の歴史的な人物であるダビデ王の再来を待ち望んでいました。ダビデ王の時代のような繁栄、勝利、豊かさを望んでいました。  イエスさまが話される教えは、人々の心をつかみ、また、たびたび奇跡を行って、何か普通の人にはない力を持っていました。そこで、この方は、自分たちが待望するキリストではないか、ダビデ王の再来ではないかと期待したのです。  ところが、イエスさまは、いっこうに立ち上がろうとしません。決起する様子もありません。イエスさまに、自分たち思いで、期待をかけ、「いつまで、わたしたちに気をもませるのですか。もしメシアなら、そのように、はっきり言ったらどうですか。」「わたしは、ダビデ王の生まれ変わりだ」とか何とか言って、立派な馬にまたがり、剣をを持って、家来たちを集めたらどうですか」と、迫ったのです。  イエスさまが十字架につけられた時の場面を思い出してください。(ルカ23:32-43)  イエスさまと、ほかの2人の犯罪人とが、一緒に、ゴルゴタの丘に、死刑にされるために、引かれて行きました。  「されこうべ」と呼ばれている死刑場に来ると、そこで人々はイエスさまを十字架につけました。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけられました。  人々は、立って、この光景を見つめていました。  議員たちも、あざ笑って言いました。  「お前は、他人を救ったのだろう。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分で自分を救ってみたらどうだ。」  ローマの兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言いました。 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」  それだけではなく、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあったと記されています。一般的には罪状が書かれた捨て札ですが、からかい半分に書かれていました。  手と足に釘打たれ、苦しみもだえている中で、同じように十字架にかけられていた犯罪人の一人も、イエスさまをののしって言いました。 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。エルサレムの市民を代表する議員も、ローマの兵隊も、犯罪人も、皆、同じことを言いました。  「お前が、ほんとうに、ダビデ王の力を持っているのなら、メシヤなら、ここで、奇跡を起こして、自分を救ってみよ、自分も救えないのか」と。イエスさまを侮辱し、からかい、挑発し、しかし、もしかして最後に何か起こるのではないかと期待しながら、十字架を見上げていました。  ところが、ただ一人、同じように苦しみもだえている犯罪人だけが、もう一方の男をたしなめました。  「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。おれたちは、自分のやったことの報いを受けて、こんな処罰を受けているのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」  そして、イエスさまに、「イエスさま、あなたがみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。「み国」とは、神の国です。主イエスが栄光をお受けになるときには、わたしにはそこに入れていただく値打ちなどない者ですが、ちらっとでもわたしのことを思い出してください」と謙虚にお願いしたのです。  するとイエスさまは、「はっきり言っておく、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、「神の国に居る」と約束されました。  私たちは、イエスさまに何を求めているのでしょうか。  イエスさまが、この世に来られて、私たちに与えようとされるものと、私たちが求めているものとが、ちゃんと、合っているでしょうか。ピントが合っているでしょうか。  イエスさまの時代のユダヤ人たちは、救い主と言っても、ダビデの到来、権力をふるい、経済が繁栄し、安楽に生きることを願い、それをもたらしてくれる指導者として、イエスさまに立ち上がることを迫りました。  議員たちも、犯罪人も、この世の力で、目に見える姿で、裕福になり、豊かになる、それが「救われること」であると考え、それを求めました、  これに対して、イエスさまは、終始一貫、神の国、神の意思に、神さまのみ心に従うことが「救い」であると言い続け、教えて来られました。イエスさまが十字架につけられて、今、亡くなることも、神さまのみ心に従うことであることを示されました。神さまのみ国を受け継ぎ、神の国、神の楽園を約束されたのは、もう一人の犯罪者だけでした。  最初のイエスさまとユダヤ人の問答に戻りますと、「はっきり言って下さい」と迫ったユダヤ人に、イエスさまは言われました。   「わたしは、すでにはっきり言ったが、あなたたちは信じない。わたしが、神の名によって行う業、すなわち奇跡を行ってきたことで、わたしが何者であるか、ちゃんと証しをしている。しかし、あなたたちは、それを見ても、わたしを信じようとしない。信じない。」  さらに羊飼いと羊の関係にたとえて、 「わたしを信じないあなたたちは、わたしの羊ではないからだ。わたしの羊であれば、わたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは、わたしを信じる者に永遠の命を与える。その人たちは、決して滅びることはない。そして、だれも、その人たちをわたしの手から奪うことはできない。わたしと、父である神さまとは一つである」と言われました。  私たちが、イエスさまに求めているもの、私たちが求めている「救い」は、何でしょうか。それは、イエスさまが言われる「救い」と、きちんと、ピントが合っているでしょうか。 〔2016年4月17日 復活節第4主日(C) 聖光教会〕