わたしが愛したように

2016年04月24日
ヨハネによる福音書13章31節〜35節  キリスト教は「愛の宗教」だと言われています。しかし、仏教にも、慈悲、慈愛、憐れみという教えがありますし、その言葉はよく使われています。キリスト教の愛と仏教のいう慈悲と、どこがどのように違うのでしょうか。  宗教に関係なく、小説、演劇、映画、歌の歌詞でも、愛という言葉はよく使われていますし、それは、人生の永遠のテーマだと言われ、「愛」という言葉が氾濫しています。  世界中の誰も、みんな「人を愛したい」「人に愛されたい」と願っていますが、しかし、その一方では「人が人を愛し合うことが出来ない」深刻な問題が続いています。  さて、今日の福音書ですが、イエスさまが、弟子たちに、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われて、イスカリオテのユダの裏切りを予告された直後に、「あなたがたに新しい掟を与える」と言い、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、あらためてお命じになりました。  このイエスさまの教えは、何が、どこが新しい掟、律法なのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」というこの掟は、旧約聖書のレビ記19章18節(本日の旧約聖書の最後の節)に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と記されていて、古くからすでによく知られている、当時のユダヤ人は、子どもの時から教えられている掟です。決してイエスさまが言い出した新しい教えではありません。  しかし、他の宗教にない、誰も教えたことのないような新しい教えが、ここに、ヨハネの福音書に記されています。  それは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉です。これは、旧約聖書にも、仏教の慈悲の思想にもない言葉です。それはどういうことなのか、これから、それが、目に見えるかたちで示されようとしているのです。「わたしがあなたがたにしたように」というその行為が示されようとしています。  場面が替わりますが、ある時、ペトロがイエスさまのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回、赦すべきでしょうか。7回までですか」と尋ねました。  これに対するイエスさまの答えは、「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われました。(マタイ18:21、22)  ペトロの問いを、「赦す」から「愛する」に置き換えると、「人が私を裏切って、愛せなくなりました。それでも愛さなくてはいけませんか。どこまで愛したらいいでしょうか」と尋ねたことになります。  そのすぐ後で、イエスさまは、弟子たちに、神さまと私たち人間の関係を「天国のたとえ」として、たとえ話をなさいました。  あるところに王様がいました。王さまは、大勢の家来たちにお金を貸していましたが、ある時、その王さまは、その家来たちに貸したお金の精算を命じました。返済してもらう金額を計算し始めたところ、1万タラントン借金している家来が、連れて来られました。1万タラントンとは、当時のギリシャの通貨で、1タラントンは、ローマの通貨で6千デナリオンでした。1デナリオンは、当時、ぶどう園で働く労働者の1日の賃金、日当でしたから、現在の日本の貨幣価値からすると、5千万円から6千万円ぐらいになるでしょうか。  それほど、王様に借金している僕が、王さまの前に連れて来られました。その家来は、その借金を返せと言われましたが、そんなに積もり積もった借金をすぐには返すことができません。そこで、王さまは、その家来に、自分も、妻も、子供も(奴隷になること)、また持ち物も全部売って返済するようにと命じました。家来は王様の前にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と、しきりに願いました。涙を流して頼みました。王様は、その家来を憐れに思って、彼を赦してやり、その借金を帳消しにしてやりました。  喜んだその家来は、外に出て、家に帰ろうとしましたが、その途中で、友だちの一人に会いました。ところがその時、この家来は、その友だちに、100デナリオン(90万円か100万円ぐらい)を貸していることを思い出しました。すると、その王さまの家来は、その借金をしている友だちをその場で捕まえて、首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。  この友だちはひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と、真剣に頼みました。しかし、家来は承知しません。とうとうその友だちを引っぱって行って、借金を返すまでと言って牢に入れてしまいました。  その様子を見ていた仲間たちは、非常に心を痛め、王様の前に出て事件を残らず告げました。そこで、王様はその家来をもう一度呼びつけて言いました。「お前は何と不届きな家来だ。お前があんなに泣いて頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのではないか。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」そして、王様は、怒って、自分の借金をすっかり返済するまではと言って、その家来を牢役人に引き渡した。  このたとえの最後に、イエスさまは、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われました。  このたとえのテーマは、「赦し」ですが、これを「愛する」ということに置き換えてみたらどうでしょうか。イエスさまが語る愛の論理、神さまと私たち人間の関係は、このようなものだと教えておられます。  神さまは、私たちの罪を6千万円分以上、赦してくださっているのに、私たちは、隣人に貸した100万円も赦すことができない。神さまは、私たちを6千万円分以上、愛してくださっているのに、私たちは、隣人に対して100万円分さえ愛することができないのかと言われます。  ここにイエスさまが言われる愛の論理、誰も聞いたことがない、「新しい掟」と言われる根拠があります。  ヨハネ福音書は、イエスさまの愛とは、「十字架に懸けられたキリスト」にあると、十字架を指さしています。  ヨハネの第一の手紙4章9節以下に、このことを解説してくれる言葉があります。  「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」  神さまが、私たちのために、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪を赦すために、その命を与えてくださいました。ここに神の愛があると言います。 「愛」は、目には見えません。これほどあなたを愛していますと言って、胸の中から愛のかたまりを取りだして見せることはできません。しかし、神さまは、私たちに見えるかたちで、神の愛を示してくださいました。  イエス・キリストこそ、神の「愛」の目に見える形であり、神の愛そのものなのです。それは十字架と復活によってはっきりと示されました。  神さまは、私たちを愛してくださいます。その証拠として、最も愛する独り子を与えて下さいました。それほど私たちを愛してくださっているのです。それに対して、私たちは、どれほど愛される値打ちがあるのでしょうか。  神の子の命と引き換えにするほどの価値が、私たちにあるのでしょうか。  良いところなど少しもない、ほんとうに弱い、醜い者です。神さまに背いているばかりいる私たちです。そのような私たちを、神さまは受け入れてくださっているのです。  神さまは、その弱い、醜い、神さまに背いてばかりいる私たちを、そのままの姿で、受け入れてくださっているのです。その弱さも醜さも罪も、これを全部引き受けて、その償いのために、独り子の命を与えてくださいました。それが十字架であり、そこに神の愛があります。  「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)  この「わたしがあなたがたを愛したように」というお言葉の向こうには、イエスさまの十字架があるのです。十字架によって示された神の愛が指さされているのです。  他の宗教や世間一般に言われている「愛」との違いは、ここにあります。 「互いに愛し合いましょう!」「お互いに仲良くしましょう!」「みんな仲良くしましょう!」と、標語に書いて、これを暗記して、さあ「愛するぞッ」と言って、自分で決心して始めるような「愛」ではありません。  6千万円の負債を赦してもらったあの家来のように、6千万以上の愛を受けている私たちが、神さまからすでに大きな愛を受け、かけがえのないイエスさまの命を代償とするような愛され方をしていることを忘れてしまって、最も身近な隣り人を愛せないでいるのです。言いかえれば、人を愛せないのは、私たちが神さまから受けている愛を忘れてしまっているからだと言うことが出来ます。  「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」  これは、イエスさまが、弟子たちに与えた新しい掟です。弟子の集団、ひいては教会に対する掟だということです。  「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」このような愛に生きる人たちこそほんとうのイエスさまの弟子であり、多くの人たちは、そのことを認めると、イエスさまは言われます。 私たちが、私たちのこの教会が、イエスさまが教えられるほんとうの愛で満ちた教会になりたいと願い、求めたいと思います。 〔2016年4月24日 復活節第5主日 聖光教会〕