弁護者なる聖霊が、教え、思い起こさせてくださる。
2016年05月01日
ヨハネ福音書14章23節〜29節
ヨハネによる福音書14章から16章までを、イエスさまの「告別の説教」といわれています。弟子たちに向かって語られた遺言ともいうべき長い説教が記されています。
この説教の中で、イエスさまは、
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(34-35節)と言って、弟子たちに、「新しい掟」をお与えになりました。
そして、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:15-17)と、
弟子たちに言われました。
すると、弟子の一人で、ユダ(イスカリオテのユダでない方のユダ)、ヤコブの子ユダが、イエスさまに質問しました。
「主よ、わたしたち(弟子たち)には、御自分を現そうとなさるのに、世(の中の人々)にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と尋ねました。
これに応えて語られたのが、今日の福音書、ヨハネの14章23節〜29節の言葉です。
イエスさまは、ヤコブの子ユダに答えて言われました。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父は、その人を愛され、父と、わたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父、すなわち神の言葉である。」
イエスさまのいましめ、すなわち神さまの掟を心に抱いて、これを守る者は、わたしを(すなわち神さまを)愛する者である。イエスさまも、その人を愛し、その人に、イエスさまご自身をあらわすと、言われるのです。
ヤコブの子ユダが、「あなたは、なぜ、わたしたち弟子に対して、ご自分を現そうとなさるのに、世(の中の人々)にはそうなさらないのですか。なぜですか」と尋ねたのに対して、イエスさまの答えは、少しピントがずれているように聞こえます。
それは、イエスさまにとって、弟子であるか、それ以外のユダヤ人であるかは、問題ではない、神さまを愛し、人を愛せよという神さまのおきてを守る人を、神さまは愛してくださる、共にいて下さると、お答えになりました。
ここで、まず第一に、弟子たちが自問自答すべきだったことは、イエスさまが言われたように、自分たちも、
イエスさまが命じられる戒め、掟をちゃんと守っているだろうか、イエスさまを愛しているだろうかということでした。
しかし、ユダの問いは、「わたしたちには、ご自身を現そうとして」と言って、自分たちと、世の人々を区分けして、自分たちのことを外に置いておいて、世の人々のことを尋ねた質問でした。
イエスさまは、これに対して、弟子であるかどうかが問題なのではなく、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとは、その人のところに行き、一緒に住む」と言われたのです。イエスさまと神さまが一体となって、その人の所に住み込むと言われます。
イエスさまと、父である神さまが、神を愛する人、イエスさまを愛する人の所に来て、住まいを造ってあげると言われます。私たち人間が、死んでからとか、再臨の時とか、いうのではない、もう、今、現実に、ここで、私たちがイエスさまを愛し、イエスさまの戒めを守り、イエスさまのみ言葉に生きるていれば、私たちは、父なる神のお住まいに入ることができると言われるのです。神さまが私たちの心の内に住んで下さるというのです。あなたの体を、神さまが住む神殿にして下さると約束して下さっているのです。
その区分、区分けは、どこでされるのかというと、イエスさまの弟子であるか、どうかではなく、「イエスさまを愛し、イエスさまの言葉を守る」人であるかどうかということにあります。
しかし、イエスさまは、ただ私たちを「ふるい」にかけて、ただ区分けしておられるだけではありません。それだけではなく、今日の福音書の少し前、15節以下に、このように言われます。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」と。
また、今日の福音書の中でも、25節以下に、「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と、言っておられます。
ここに、「弁護者」という言葉が出てきます。この言葉をギリシャ語の辞書で引いてみますと、「パラクレートス」という言葉です。日本語の聖書の中では、援助者、弁護者、代弁者、助け主という言葉に訳されています。このパラクレートスは、パラカレオーという動詞から来ていて、「支援のために呼び寄せられた者」という意味があります。
私たちの国の裁判制度でも、弁護士という役割があります。刑事裁判では、人の物を盗むとか、人を殺すとか、そのような犯罪を犯すと、法律の知識を持った検事が、国を代表して、法律に基づいて、罪状を述べ、いろいろと申し立てます。私たち普通の人は、特別の法律的な知識を持っていませんから、それに対抗することはできません。そこで、弁護士に依頼して、私に代わって、意見を述べ、対抗してもらいます。弁護士は、そのために法律的な知識を持ち、やむを得なかった事情などを述べて、対抗してくれます。裁判官は、その両方の主張を聞いて、法律に基づいて、判決を下します。
このように、弁護士とは、訴えられた者、すなわち被告の側に立って、代弁してくれる人、助けてくれる人、味方になってくれる人です。被告は、まず全面的に弁護士、弁護人を信頼していなければなりません。
イエスさまの時代には、ユダヤ人社会にすでに、そのような制度があったのでしょう。
イエスさまは、ご自分は、間もなく、あなた方の目には見えなくなるであろうと、居なくなることを予測し、肉体の目に見えるイエスさまはいなくなるが、これからは、代わりの助け主、弁護者、支援者、すなわち、パラクレートスが遣わされるであろうと言われます。
それは、すなわち「聖霊」という弁護者です。聖霊が、教えてくださる、導いてくださる、支えてくださると、言われるのです。
イエスさまが言われる「弁護者(パラクレートス)」とは、その正体は、神さまが、イエスさまの名によって遣わしてくださる「聖霊」です。目に見えない神さまの力です。その聖霊が私たちの所に来て、イエスさまが教え導いてくださった活動を続けて下さいます。私たちの目を開かせて下さいます。私たちの心を開き、私たちを後ろから背中を押してくれます。この聖霊の働きによって、イエスさまは、私たちの間に、住まいを造って住み込むと言われるのです。
私たちは、イエスさまを信じる、父なる神さまを信じるということは、聖書を読んで、ある程度は理解できるような気がします。頭の中にイメージすることができます。
しかし、聖霊を信じるということは、なかなか難しいことだと思います。聖霊とは、一口にいうと、目に見えない神さまの力、風のようなもの、神さまの息、火のようなものなど、さまざまなものに例えられますが、いずれも「もの」になってしまいます。
ここでは、イエスさまは、弁護者、助け主、支援者といった人、人のように、人格を持った人として現わしておられます。
一つの例えで言いますと、私たちは、知らない土地に行って、道に迷う時があります。ぐるぐる歩き回って、困り切っている時には何ともいえない不安に陥ります。やっと地元の人らしい人を見つけ、道を訊きます。口で説明してもらってわかる時もありますが、それでもわからなさそうな顔をしていると、その人が、「わたしがその家まで連れていってあげましょう」と言って、助けてくれるか、または、この人を案内してあげなさいと言って、誰かを呼び出し、その人がついて行ってくれることがあります。一緒に歩いてついて行ってくれる人、支援者、助けてくれる人に、例えることができます。聖霊の働き、支援者、弁護者、助け主とは、一緒に同行して助けてくれる人のことです。
または、今日の社会では、よく聞くことばに「ヘルパー」さんという仕事しておられる人を思い出します。老人介護や障害者介護のために来てくれる訪問介護員(ホームヘルパー)さんに例えることができます。(英語の聖書では、この弁護者という言葉を「ヘルパー」と訳しているものがあります。)
助けてくれる人、世話をしてくれる人です。
「弁護者」、すなわち、父なる神さまが、イエス・キリストの名によって、お遣わしになる聖霊が、私たちにすべてのことを教え、イエスさまが、弟子たちや私たちに、話したことを、すべて、全部、思い出させてくださるヘルパーさんを差し向けてくださると言われるのです。
このことによって、イエスさまは、私たちに、ほんとうの平和を残し、私たちに平安を与えると保証して下さいます。
そして、また、イエスさまは、「この平和や平安は、この世が与えようとするようなものではない。そのような平和や平安ではない」と言われます。
「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」と言って、
イエスさまは、弟子たちに対して、また、私たちに向かって、ご自分が、見えなくなった後のことのために、遺言ともいうべき教えを宣べておられます。
イエスさまの、ほんとうの弟子となることができますように。そして、イエスさまが送ってくださるヘルパーさんである「聖霊さん」を信頼して、しっかり受けとめる信仰生活を送りたいと思います。
〔2016年5月1日 復活節第6主日(C) 聖 光 教 会〕