すべての人を一つにしてください。

2016年05月08日
ヨハネ福音書17:21〜22  ヨハネによる福音書をずっと読み進んでいきますと、21章中、14章から16章までは、イエスさまの訣別の説教が述べられています。十字架を間近にして、弟子たちやイエスさまにつき従ってきた人たちに、最後に、このことだけは語っておかねばならないという、イエスさまの大切な教えが語られています。  そして、長い話をなさった後で、天を仰いで、「父よ、時が来ました」(17:1)と言って、長いお祈りをなさいました。それは、17章全体にわたっています。「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとにまいります」(17:11)と、この世において、父である神さまと最後の対話ともいうべき祈りのことばです。  彼らとは、「世から選び出して、わたしに与えてくださった人々」(17:6)、すなわち、イエスさまに従ってきた人々のことです。イエスさまは、この人々に、永遠の命を与えることができましたと祈られます。  「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と。(17:3)  ヨハネの福音書では、天国、神の国、「救われる」のことを、「永遠の生命」、「永遠の命を得る」という言葉で語られています。イエスさまは、今まで、さまざまな奇跡を行って見せ、多くの場合たとえで語り、いろいろと言葉をつくして教え、語ってこられました。しかし、今、ここで、はっきりと、言葉で語っておられます。 「永遠の命」とは、唯一のまことの神と、その神がお遣わしになったイエス・キリストを、ほんとうに、全身全霊をかけて知ることです」と言われました。  ここに記されている「知る」という言葉ですが、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「ギノースコー」という言葉です。新約聖書では、この言葉は、222回使われていますが、その内の57回は、このヨハネの福音書に出てきます。その意味は、「知る、聞いて知る、分かる、気づく、感じる、悟る、認める、理解する」という、意味を持っています。  「ああ、わかった、わかった」、「知っている、知っている」というような表面的な知り方もあれば、悟る、認める、心から理解する」といった、深い意味に使われています。  唯一の神と主イエス・キリストを知るということは、すなわち、信仰、神への信頼を確信すること、心から神を愛し、キリストに従うことを意味します。  イエスさまは、彼らに「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(17:3)、全身全霊をもって信じること、心から神を愛し、人を愛することを、はっきりと教えましたと述べられた上で、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって、彼らを守ってください」と、切々と祈っておられます。父である神さまと、子であるイエスさまが一つであるように、彼らも一つになるために、守ってください」と祈られました。  今日の福音書の21からの個所は、そのことを願っておられるイエスさまの「祈り」です。もう一度読みますと、  「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが、わたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」  この祈りの言葉から、イエスさまは、「一つになる」「一つである」ということについて、いかに切望しておられたかがわかります。  イエスさまが言われる「一つになる」とは、どういうことでしょうか。  私たちが、「一つになる」ということを考える時、いろいろな状態や状況が考えられます。「一致する」「統一する」「合体する」「融合する」「合同すること」「団結すること」など、一つになり方もさまざまです。  イエスがここで言っておられるのは、父である神の思いやみ心が、子であるイエスさまの思いや心と一つであるようにと、言っておられます。  これも私たち人間の世界では、行きすぎると恐ろしいことになります。思想を統一するとか、みんな同じ考えや意見を持たなければ許されないというような状況になりますと、これほど恐ろしいことはありません。  年輩の方々は、第二次大戦に向かう日本、軍国主義、政府による思想弾圧や情報操作による扇動の状況については、まだ強く記憶に残っておられることだと思います。  神さまは、私たち人間をお造りなった時に、最も大切なものとして「自由」をお与えになりました。私たち人間にとって、一人一人が自由であるということは、神さまから頂いた大切な恵みです。自由であるということは、私たちの前に2つ以上の道があって、自分の意志で、どれか一つを選ぶことができるということです。道は一つしかないという時は、その道しかないのですから、選ぶことはできません。そこには自由はありません。自由の反対は「強制」です。  神さまが与えて下さった自由を、人の自由を奪ってもいけませんし、奪われてもいけないものだと思います。しかし、実際には、人と人との「自由」は、ぶつかり合いますし、自分の自由だけを通そうとすると、そこに争いが起こります。  イエスさまがいう「一つにしてください」というのは、強制的に何かをするとか、統制するとか、外からの力で無理矢理に一つにするということではありません。神が与えて下さった自由の中で、自由な心を持った人たちが、自分の思いでその自由をしっかりと持ったままで「一つになる」ということではないでしょうか。  「一つになる」ことの反対は、「分裂」であり、「断絶」であり、「バラバラになる」ということです。反発したり、背きあったり、争ったり、絶縁状態なったりという状況になります。  「わたしたちが一つであるように、彼らが一つになるためです。」神さまの自由は、何者にも妨げられません。イエスさまも、ご自分の自由な意思をもって、父のみ心に従われました。  そして、イエスが語っておられる「彼ら」とは、弟子たちをはじめとする、キリストを信じる者の群れ、教会という共同体です。  「父よ、あなたが、わたしの内におられ、わたしが、あなたの内にいるように、すべての人を一つにして下さい。」  父なる神と、子なる神が一つであるようにということは、お互いの心の中に、しっかりとした信頼があるということです。その関係は、人間の関係を現す言葉で言うと、「100パーセントの信頼の関係」です。信頼というもので結ばれた「一つになる」ことです。父が子に強制して、がんじがらめにしているのでなければ、子が父を束縛しているのでもありません。自由な意志を持つ父なる神と、同じように完全な自由を持つみ子イエスが、信頼という関係の中で、「一つ」なっているというのです。  父なる神と、子なる神が、自由な意志に立った「信頼」によって、一つであるように、先ず、キリストの共同体のメンバーが、彼らが信頼しあい、その信頼の上に立った一致を得られますようにと願っておられます。  そうすると、この世が、この共同体を信じるようになり、彼らを遣わしたイエスさまを信じるようになり、神を信じるようになるといわれます。  しかし、世界のキリスト教の教会の様子はどうでしょうか。「一つ」であるとは言えません。長い歴史の中で、分裂を繰り返し、なかなか一つになることはできていません。自由であることと信頼しあうことが、まるで正反対であるかのような姿を呈しています。世間の人々は、そのような教会の姿を見ています。  私たちの教会はどうでしょうか。信頼という言葉は、神さまと私たちの関係では、「信仰」という言葉で表されます。神さまとイエスさまの関係、そして、イエスさまと私たちの関係、さらに、私たち信徒と信徒との関係、それは、ほんとうに信仰、信頼で結ばれた「一つ」の状態になっていると言えるでしょうか。  私たちの言葉や行いや発想や思想が、「信頼」を前提にし、信頼に基づいたものでありますように、またそのような関係になることができますように、心からみんなで願い、祈りたいと思います。  そして、今も、イエスさまは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」と祈り続けておられることを忘れてはなりません。  イエスさまの願い、イエスさまの祈りが、私たちを通して実現しますように。もう一度、イエスさまの祈りを、願いを聞きたいと思います。 〔2016年5月8日 復活節第7主日(昇天後主日) 聖光教会〕