彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」

2016年05月15日
ヨハネによる福音書20章19節〜23節 「私のお墓の前で 泣かないでください  そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって  あの大きな空を 吹き渡っています」   これは、その当時、「千の風になって」という題で、テレビで、よく歌われていた歌の歌詞です。 あれからもう15年が経ちます。  作詞者は、アメリカの女性、メアリー・フライという人だったと言われていますが、詳しいことはわかりません。もとは「私のお墓の前で泣かないでください」(「Do not stand at my grave and weep」という詩だったとそうです。  2001年、第99回芥川賞を受けた、小説家でシンガーソング・ライターの新井満さんが、アメリカで作詞され、作者不明と言われていた、この詩を日本語に翻訳し、自ら作曲しました。原詩の3行目 "I am a thousand winds that blow" から、「千の風になって」のタイトルがつけられました。  2003年8月28日号で、朝日新聞の「天声人語」に、この歌のことが取り上げられ、また、いろいろな歌手が歌い、話題になりました。  さらに、2006年には、テノール歌手の秋川雅史さんが、紅白歌合戦で歌い、有名になりました。CDがよく売れ、その他にもいろいろな歌手が歌っているようですが、この秋川雅史バージョンがいちばんよく知られていました。  愛する人、最も身近な人を亡くして、悲しんでいる人に、亡くなった人の方から、語りかける歌です。  お墓の前でたたずんで、涙を流している人に語りかけます。  「私のお墓の前で、泣かないでください。    そこに私はいません。眠ってなんかいません。   (私は)千の風に、千の風になって、    あの大きな空を 吹き渡っています。」  当時、キリスト教の関係者で、この歌は、とんでもない歌だと息巻いているのを聞いたことがあります。  キリスト教では、死んでよみがえって、イエスさまのところへ行くのだから、「千の風になて、大空を吹き渡っています」なんて、とんでもないと言っていました。  この歌は、聖書と直接関係ありませんし、目くじらたてるようなことでもないと思います。  しかし、私は、この歌を聞くたびに思い出していた聖書の言葉があります。  それは、使徒言行録2章2節の「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」という、毎年、「聖霊降臨日」に読まれる聖書の個所です。  イエスさまが、十字架にかけられて死に、3日目に、お墓が空っぽになっていたという出来事があり、弟子たちは、恐ろしさと不安と絶望のどん底にある時、突然、聖霊が降った。その場面が、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と表現されています。  聖霊の「霊」という言葉は、英語では spirit、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「ルアッハ(ruah)」、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「プネウマ(πνευμα)」と言います。  このルアッハもプネウマも、共に、「霊」と訳されていますが、もとは「風、息」という言葉で訳されている言葉です。  「千の風になって」という言葉は、「目に見えない霊になって」と、私には聞こえました。  現代に住む私たちは、風や息は「空気が動く、空気が移動する」現象であるということを知っています。別に目で見て確かめたわけではありませんが、当然のこととして知っています。  しかし、聖書の時代の人々は、風とか息は、どうして起こるのかということは、科学的にはまだ知りませんでした。  創世記の天地創造の物語では、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。この「命の息」それは「ルアッハ」です。  ヨハネ福音書3章の中では、イエスさまは、夜、訪ねて来た議員、ニコデモニに言われました。 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』と。  ニコデモは言いました。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』  すると、イエスさまはお答えになりました。『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」  ここで、イエスさまは、風と霊を掛け言葉として説明しておられますが、ここに出てくる「霊」「風」という言葉は、「プネウマ」というギリシャ語です。聖書では、霊も、風も、息も、それらを現す言葉は、一つの言葉で語られていたことがわかります。  風も息も霊も、その共通点を言えば、「目に見えない力」を表します。風には、台風や竜巻のように、家でも木でも人でも、なぎ倒してしまうような大きな力、そういう恐ろしい力があります。また、反対に、そよそよと吹く涼しい風、心地よい風があります。人間の呼吸、息のように生命、命を連想させる風もあります。  昔の人々は、このような目に見えない力を「霊」と言い、さらに神さまから吹いてくる風、神さまから送られてくる風のように目に見えない力を「聖霊」と呼び、「聖霊の力」を信じました。  もし、私たちが、聖霊の力、神さまから私たちに吹く風、息を体で感じることができなければ、神さまの恵みを受けることもできませんし、感謝することもできません。  今日のヨハネによる福音書では、復活したイエスさまが、弟子たちの所に現れ、聖霊をお与えになった場面を伝えています(20:19-23)。 イエスさまがよみがえられたと報らされたその日の夕方です。復活したイエスさまが、身分証明書を見せるように、生々しい手の釘痕、脇腹の槍で刺された傷跡を見せて、恐れている弟子たちに「わたしだ、わたしだ」と、ご自分であることを証明されました。そして、平和の挨拶をされ、弟子たちに派遣の命令を言い渡され、そして「彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』と言われました。」  かつて、弟子たちは、すべてを捨ててイエスさまに従ってきました。この方こそキリスト、この方こそ、救い主だと信じて、ついてきました。しかし、その方が、ぶざまに十字架につけられて死んでしまったのです。  これから先どうしたらいいのかわからない。それだけではない、イエスさまを「十字架につけよ」と叫んだユダヤ人たちが、弟子たちを探し出して、あのナザレのイエスの仲間だというので、捕らえて、イエスさまと同じように殺そうとするに違いない。弟子たちは、恐怖、不安、そして絶望に、打ちひしがれた状態になっていました。  弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、ただ息をひそめて隠れているだけでした。  そこに、復活のイエスさまが現れ、そして、「聖霊を受けよ」と言って、息を吹きかけ、神の聖霊をお与えになったのです。  この出来事によって、死んでいた弟子たちは、生まれ変わったのです。  彼らは立ち上がりました。人々の前に堂々と姿を現し、イエス・キリストを証しする人たちに変わっていったのです。イエスさまを真っ直ぐに見つめ、イエスさまのために、どんな迫害を受けても、死さえも恐くないという生き方に変わっていきました。  私たちの信仰の中心は、徹底的にイエスさまに従うということにあります。イエスさまから目を離さない。それは、イエスさまが、いつも共にいて下さるということを自覚することです。  聖霊とは、私たちをイエスさまに向かわせて下さる目に見えない力です。私たちが、立ち止まったり、戸惑ったり、手も足も動かなくなったり、どうしていいのかわからなくなったり、イエスさまを見失いそうになったり、そのような時に、私たちを、ある時は後ろからそっと、ある時は、強引に押し出してくれます。目に見えない風を送ってくれます。イエスさまから目を離さなければ、どんな状態に陥っていても、かならず私たちを立ち上がらせて下さいます。  ヨハネ第一の手紙4章1節以下に、次のように述べられています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて、神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」  復活したイエスさまは、弟子たちに「息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』」と言われました。  聖霊は、目に見えない神の力です。もう一度言います。聖霊は、人を立ち上がらせ、人を前に突き出し、人を促します。聖霊は、私たちをイエス・キリストに向かわせ、イエス・キリストを神の子であると告白する勇気を与え、イエス・キリストのためにどのようなことにも耐える力を与えてくれます。  聖霊は、私たちに、神の愛と恵みを悟らせ、私たちを弁護してくれます。  イエスさまも、もうお墓にはいません。神さまが送られる神の風は、万の風、百万の風、千万の風となって、千の風を包み、私たちと共にいて下さいます。  私たちは、イエスさまに向かって、私たちを押し出してくださる「神の霊」、「聖霊」そして「神の愛」を信じます。イエス・キリストこそ、私たちの救いだからです。  今日は、聖霊降臨を記念する日、神さまの息、風、聖霊を胸いっぱい吸い込み、弟子たちがそうであったように、立ち上がりましょう。       〔2016年5月15日 聖霊降臨日(C)   聖光教会〕