三位一体の神を信じる。

2016年05月22日
ヨハネによる福音書16章13節  教会の暦では、先週の主日は「聖霊降臨日」(ペンテコステ)という日でした。今日の主日は「聖霊降臨後第1主日」であると同時に「三位一体主日」と言われる主日です。  私たちは、「三位一体の神を信じます」と信仰告白をいたします。  私たちが手にする祈祷書には、「使徒信経」と、「ニケヤ信経」という、2つの信経があり、巻末には「アタナシオ信経」が記されています。 (1993年以降に出版された日本聖公会祈祷書の巻末には、これが記載されています。)  約2千年の教会の歴史の中で、私たちの先輩が、唱え続けてきた「信仰告白」の言葉です。  ちょうど、恋人同士が、「わたしは、あなたを愛します」と、愛の告白をするように、私たちは、毎週、毎日、「わたしたちは、父である神を信じます」、「子であるイエス・キリストを信じます」、そして、「聖霊である神を信じます」と、この信経を唱えることによって、信仰の告白をします。  父である神、その子であるイエス・キリスト、聖霊である神を信じているのですが、それでは、私たちが信じている神は、3つあるのかというと、そうではありません。神は一人、神は一つです。「唯一である神を信じる」というのが、私たちの正しい信仰告白の内容なのです。  3つの神格を持つ一つの神を信じる、そのことが「三位一体の神を信じる」ということなのです。  「三位一体の神」という言葉は、聖書の中には、直接出てきません。これは、初代教会になって、教会の中で生まれてきた言葉です。なかなかひと口には説明できない難しい神の真理なのですが、しかし、「私たちは、三位一体の神を信じる」という信仰を堅く守ります。  「三位一体主日」という今日のこの主日は、私たちが、正しく神さまのことを理解し、正しく神を信じているかどうかという、私たちが、自分自身の信仰の内容を吟味する時なのです。  私がまだ若かった時、毎週、夜、開いていた聖書研究会で、最近、出席し始めた男性が、このような質問をしました。 「先生、キリスト教の神さんって、いったい何の神さんだんねん。」  そこにいた他の人たちはびっくりした顔をしています。  「わたしは、毎週、日曜日の礼拝に出席して、この聖書研究会というもんにも休まんと出てきてますけど、キリスト教の神さんって、何の神さんか、さっぱりわかりまへんねん。先生は、黒板使うて、なんじゃかんじゃ難しいこと言うてはるけど、もっとはっきり言うとくんなはれ。キリスト教の神さんって何の神さんだんねん。」 「わしも、あっちこっちの宗教を尋ね歩いて、たいていの神さんのことは知ってますねん。キリスト教の神さんは、お伊勢さんの神さんといっしょやとか、出雲の神さんといっしょやとか、住吉さんの神さんといっしょやと、ひとこと言うてくれたら、あーそうだっかと、ぴーんとわかりまんねん。キリストの神さんって、何の神さんと一緒だんねん。」  この質問には、一同びっくりしました。そこで、私は、またまた黒板など使いながらキリスト教の神について、説明したのでしょうが、何をどう説明したのか覚えていません。  しかし、この人を失望させたことは確かです。その人は、2度と教会に、姿をあらわしませんでした。一生懸命救いを求め、教会の門を叩いた一人の人をつまずかせてしまった、牧師として、忘れられない若いころの体験です。  キリスト教の神とは、どんな神さまか。どのような神さまを私たちは信じているのか。世界中には、無数の宗教があります。それらの他宗教が掲げる神と、キリスト教の神さまとは、どこがどのように違うのでしょうか。  あの時、あの男の人に、何と答えればよかったのでしょうか。今だったら何と答えるでしょうか。 「神」という言葉は、旧約聖書では、「エル」、「アドナイ」、「ヤーウェ」「エホバ」とかいう言葉や読み方が使われています。新約聖書では、「セオス」、ラテン語では「デウス」、英語では「ゴッド」と、さまざまな言葉で呼ばれ、さまざまな用いられ方をしています。  1549年に、ポルトガル人であるフランシスコ・ザビエルによって、始めてキリスト教が伝えられたのですが、このザビエルが、ラオスで始めて会った日本人がアンジロウという鹿児島出身の人でした。  アンジロウは、ザビエルに日本語を教え、聖書の要約らしいものを始めて書いたと言います。聖書を日本語で紹介する時に、日本にいる時には、アンジロウは真言宗の信徒でしたから、真言宗の言葉を多く当てはめて、訳したと言われます。ラテン語の「デウス」を大日如来から「ダイニチ」と訳しました。日本にやって来たザビエルは、「ダイニチを拝みましょう」「ディニチをおがみあれ」と言って布教したと言われています。その後、日本の古来の「神」との混乱を避けて「天主」と呼ばれました。  長い鎖国時代と、キリシタン迫害の時代が過ぎて、再び日本にキリスト教が伝えられた時、宣教師たちの中で、やはりこのセオスとかゴッドという言葉を、日本語でどのように表すかということが大きな問題になりました。  1837年、日本語で最初に聖書を翻訳されたのは、ギュツラフの「約翰福音之伝」と言われていますが、そこには、「カミ」にあたる言葉は「ゴクラク」と訳されていました。1850年頃、日本に宣教活動を繰り広げた各国から来たプロテスタントの宣教師たちは、そのことを決めるのにたいへんな時間を費やしています。いくつかの言葉から、最後に、「神」と「上帝」という日本語が使われ、そしてカトリック教会が使っている「天主」という言葉が残りました。  次々と聖書の日本語訳が出され、さらに中国での聖書翻訳の影響などを受け、「神」という言葉が定着していきました。  日本人がつかってきた日本語の「神」は、霊とか魂という意味が強く、創造主、全知全能の神というニュアンスがなかったため、宣教師たちが教えようとする「神」には、なかなか合いませんでした。最初は敬遠されたと言います。  同じように、愛を「お大切」、聖餐式に使うパンを「餅」と訳されていました。  このように考えますと、神という言葉は、日本人が神社仏閣で、また民間信仰の中で、古来から使ってきている言葉を、キリスト教が使っているわけですから、お伊勢さんや出雲の神さんや住吉の神さんと混同されても仕方がありません。  それよりも、大きな問題は、私たちが、天地を創造し、宇宙を支配し、生命を支配し、全能である方、目に見えない神を、私たちの自分の知識と経験の中で、100パーセント、小さな頭の中で、捕らえようとする、理解しつくそうとすることが不可能だということです。  そうすると、どうしても、過去において仕入れた知識や経験に基づいて、それに当てはまるものだけを、わかった、わかったといって、神のことは全部わかったように思っているわけですから、人がそれぞれ生きてきた背景によって、違ったイメージを持って、神とはこういうものだと思い込んでしまうのも当然のことだと言えます。  今日の福音書、ヨハネによる福音書の16章で、イエスさまは、このように語っておられます。  「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」  「その方」というのは、聖霊です。イエスさまは、ご自分がこの世を去り、あなた方には見えなくなるが、その時には、父である神、子であるイエス・キリストから出る「聖霊」が、あなた方の所に来てくださり、あなた方を導いてくださる。聖霊があなたがたを導いて真理をことごとく悟らせてくださると、言われるのです。  聖霊が、私たちに、神さまのことを、神ご自身の意志、み心を悟らせて下さるというのです。誰かが何かをつけ加えるような方法ではなく、イエス・キリストを通して示された、主イエスの栄光の意味を、ちゃんと解き明かしてくださると言われます。  私たちは、イエス・キリストを見て、イエス・キリストの生きざま、イエス・キリストの死にざまを見て、神さまが私たちに、送ってくださったイエスさまを、神の御子と信じることによって、はじめて神を知ることができます。そのことを、後押ししてくださるのが「聖霊」です。聖霊が働いて下さるのでなければ、神さまのことも、イエスさまのことも、私たちは悟ることはできません。  私たちは、神さまを信じます。信じています。しかし、はたして、その信仰の内容は、聖書が、私たちに求めている信じ方や、信じている内容と、合っているでしょうか。ピントが合っているでしょうか。  自分勝手な思い込みで、我流の考え方で、それが、神だ、信仰だと、思い込んでいることはないでしょうか。  もし、そうだとすると、単に、自分の頭の中にでっちあげたものを拝んでいる、偶像崇拝に陥ってしまっていることになります。  「神さま、神さま」と、お祈りしていますが、いつのまにか、お祈りしている対象が、お伊勢さんや出雲の神さんや住吉の神さんと、同じになってしまっていないでしょうか。  私たちが信じている神さまは、神々の神ではありません。唯一の神、主イエス・キリストが指し示して下さった、父である神さまなのです。そこにきちんとピントが合っているでしょうか。  私たち一人一人に、聖霊が働いてくださり、キリストの真理に導いてくださいますように、私たちの心の目が開かれますように、私たちの祈りは、そこから始まり、真剣にそのことを祈り、求め続けたいと思います。  今日は、「三位一体主日」です。私たちが、自分自身の信仰の姿を謙虚に振り返り、自分自身の信仰の中味を吟味し、聖霊の導きを祈りたいと思います。  〔2016年5月22日 三位一体主日・霊降臨後第1主日(C) 聖光教会〕