ナインのやもめの息子を生き返らせる
2016年06月05日
ルカ7:11〜17、列王記上17:17〜24
私たちは、神さまを信じて生きようとしています。
もっと、もっと、神さまのことが知りたいと思い、聖書を読み、礼拝に参加し、お祈りします。
神さまは、いろいろなかたちで、私たちに神の存在を知らせてくださいます。
野に咲く一本の美しい草花から神さまを感じることができますし、世に起こる出来事や自然現象から神の力を感じることができます。日々の人間関係を通して、神さまの愛を感じることができます。
しかし、聖書によりますと、今から約2千年前に、この世に現れたイエスさまという方を通してのみ、ほんとうの神さまに出会うことができるのだと言います。
旧約聖書、新約聖書、全部で66巻ありますが、そのすべてが、イエスさまとは、誰だったのか、何者だったのか、この方は何をなさったのかということを、直接的に、または間接的に指差して、知らせようとしています。
たとえば、「神の国」という言葉が、聖書によく出てきます。
それは、神の愛と正義が支配する所、状態である、などと説明されますが、愛とか正義とか真理などという抽象的な言葉を使って語られ、わかったような気持ちになっていますが、それでは、愛とは何か、正義とは何か、真理とは何かと、問いますと、ますますわからなくなります。
ところが、聖書の中では、イエスさまは、愛とは、「わたしだ」「わたしだ」と、ご自分を指差されます(ヨハネの手紙一4:7〜)。
正義とは何かというと、「わたしだ」「わたしだ」と言われます(ローマ3:21〜)。
真理とは何かと尋ねると、「それは、わたしだ」とはっきり言われました。(ヨハネ18:37)
イエスさまとは、何者なのか、誰なのか、この方とどのような関係を持って生きるのか、聖書全体が、そのことを、私たちに知らせようとしています。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の福音書、そして、旧約聖書の列王記上から、何を言おうとしているのかを学びたいと思います。
イエスさまが育ったガリラヤのナザレから、南東へ約9キロほど行った所にナインという小さな町があります。イエスさまは、弟子たちと共に旅を続けて、このナインの町に入いられました。
弟子たちやイエスさまの噂を聞いたこの町の人たちが大勢、イエスさまについて歩いています。
イエスさまが、町の門に近づかれた時、ある母親のひとり息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。
この母親は、「やもめ」、未亡人でした。どんな事情があったのかわかりませんが、夫を失い、子どもを抱えて、女手一つで子どもを育ててきました。
たいへんな苦労をして、息子を大きくしてきたのですが、その愛しいひとり息子が、病気か何かで死んでしまったのです。
ひとり息子に先立たれ、身もだえし、泣き悲しんでいます。その事情を知っている近所の人たちも、そばに付き添って、同じように悲しみ、涙を流しています。
イエスさまは、この泣き悲しんでいる母親を見て、「可哀想に」と同情されました。
憐れに思い、この婦人に近寄って「もう泣かなくともよい」と言われました。
そして、さらに近づいて棺に手をかけられると、棺を担いでいた人たちは立ち止まりました。
イエスさまは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。
すると、棺の中に死んで寝かされていた、この息子は、起き上がって、ものを言い始めました。
イエスさまは、その息子の手を取って、母親に渡してやりました。
これを見た人々は、皆、びっくりしました。
今、目の前で起こった出来事に、恐れを感じ、そして、神を賛美しました。
ある人たちは、「大預言者が、我々の間に現れた」と言い、また、ある人たちは「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。
人々は、はじめは「死んだ人がよみがえらせるなんて、この人はいったい何者だ」と、恐れをいだきました。
そして、同時に、神の力が働いたことを感じ、神を賛美しました。
そして、さらに、「大預言者がわれわれの間に現れた」と言いました。
その時、ユダヤ人である彼らは、旧約聖書に記されている出来事を思い出したのです。
今日の旧約聖書、列王記上17章17節〜24節に記されている出来事です。
エリヤと言う預言者は、紀元前9世紀ごろ、南北に分裂していたイスラエルの北イスラエル王国で活躍した預言者でした。
エリヤは、イスラエルの民に、異教の神を信じさせようとする王や王妃に対抗し、ほんとうの神、ヤーウェを信ぜよと叫び、そのために迫害を受け、飢饉の中で叫び続けた預言者でした。
この預言者の回りには、たびたび奇跡が起こったことから、後の時代の人たちから、預言者の中の預言者、「大預言者」と呼ばれるようになりました。
ある時、エリヤは、神さまからお告げを受けました。
それは、厳しい干ばつにあい、生きるか死ぬかの境地の中で、シドンの地、サレプタに行き、一人のやもめの所に住めという神さまの命令を受けました。
このやもめの家は、その日の食べ物さえないほど貧しい状態でした。そこで、預言者エリヤは、食べ物を与える奇跡を起こし、さらにそのやもめの息子を生き返らせるという奇跡を行いました。
このやもめの女主人の息子が病気にかかりました。病状は非常に重く、ついに息を引き取りました。
彼女は、エリヤに、
「預言者だ、神の人だ、と言われるあなたは、わたしに一体何をしてくれたのですか。
あなたは、わたしに罪があってこんな悲しいことが起こったのだと思わせるために、息子を死なせるために来られたのですか」と言いました。
エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから死んだ息子を受け取り、自分のいる
2階の部屋に抱いて行って、寝台に寝かせ、エリヤは神さま向かって祈りました。
「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」と。
そして、エリヤは、子供の上に3度身を重ねてから、さらに主に向かって祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と。
すると、神さまは、エリヤの声に耳を傾け、その祈りを聴き、その子の命を元にお返しになりました。
子供は生き返りました。エリヤは、その子を連れて2階の部屋から降りて来て、母親に渡し、
「見なさい。あなたの息子は生きています」と言いました。
このやもめで母親であるこの女はエリヤに叫びました。
「あなたは、ほんとうに神の人です。今、わたしは分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
旧約聖書が伝えるこの預言者エリヤに起こったこの奇跡物語については、イエスさまの時代のユダヤ人には、小さい時から教えられ、知っている出来事でした。
イエスさまが、ナインの村で、やもめの、死んだ息子をよみがえらせたという出来事を目の当たりにした時、人々は、皆、恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者がわれわれの間に現れた」と言いました。
人々が、イエスさまのことを、「大預言者」だ呼んだのは、その背景に、このエリヤの出来事があったからでした。
また、奇跡物語というのは、ある特定の、死んでいた人の命を、わずかだけ延ばす、延命装置の役割を果たすだけのものではありません。
このナインの町のやもめの息子だけではなく、そのほかにも、ヤイロの娘(マルコ5:35〜)や、ラザロ(ヨハネ11章)など、死んだ人がイエスさまによって、よみがえらせられたという奇跡物語がいくつかあります。
いずれも、イエスさまによみがえらせていただいた、生きかえったとしても、しかし、その後には、何年か後には、もう一度死んでいます。
永遠に生きる者になったわけではありません。
言い換えれば、彼らは、ほんとうの「永遠の命」を与えようとするイエスさまのために、彼らは、教材になった、道具となったということができます。
イエスさまは、これらの人々をよみがえらせるという出来事、奇跡を通して、これを用いて、神さまのなさる業、神さまの力、神さまの権威を人々にお見せになっているのです。
私たちには、神さまを、直接見ることはできません。しかし、そのような私たちに対して、神さまは、神さまの方から、チラッ、チラッと、ご自分をお示しになります。
ナインの町の人々は、皆、恐れを抱き、神さまを賛美して、「大預言者が、われわれの間に現れた」と言いました。また、「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。
奇跡物語が伝えようとするほんとうの意味は、イエスさまを指して、「この方は、神の子、この方こそ、神、この方こそ神の権威を持つ方、そして、この方こそメシヤ、救い主である」ということを知らせることでした。
ナインの町の人々は、この方は、大預言者エリヤの再来だととらえましたが、しかし、エリヤ以上の方、比べることさえできない方が、今、ここに来て下さっているということには気がつきませんでした。
また、人々は、「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。しかし、「神は、その民を心にかけてくださった」ぐらいにとどまらず、神さまは、そのひとり子をこの世に遣わし、その命を十字架にかけて、これほど、あなた方を愛する、愛しているということを、お示しになりました。
しかし、人々は、まだ、そのことには気がつきませんでした。
イエスさまが行われる奇跡は、単に過去の出来事、2千年昔に、終わってしまった出来事ではありません。
今も奇跡は起こります。現代のこの時代にも、今も奇跡は起こっています。
私たちの心が鈍いために、そのことがわからないでいるのです。
私たちが、奇跡を起こすのではありません。神さまが、奇跡を行われるのです。ある時、ある場所で、神さまが、私たちの中に奇跡を投げ込まれます。
私たちが、神さまを信じて生きるようになっていることこそ、奇跡です。信じることの喜びに満たされ、神を賛美することができることこそ奇跡です。
神さまがこの身に奇跡を行って下さいますように、この世に神さまのご栄光を表すために、私たちを、証しする器としてお用いください、神さまを賛美する道具、スピーカーとして、私たちを用いてくださいと願いたいと思います。
〔2016年6月5日 聖霊降臨後第3主日(C-5) 聖光教会〕