「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

2016年06月12日
ルカ福音書7章36節〜50節  イエスさまは、ある時、ファリサイ派のシモンという人の家に招かれ、食事の席についていました。  この町に、人々から「罪深い女」と呼ばれている女性がいて、その女性は、イエスさまが、シモンの家におられると聞いて、その家に入ってきました。  手には、香油が入った石膏の壷を持っていて、イエスさまの後ろからイエスさまに近寄り、足もとにひざまづいて、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻して香油を塗りました。  今日の聖書の個所では、はじめから「罪深い女がいた」とはっきりと書いてあります。たぶん売春婦だったのだろうと思われます。その当時、売春婦、娼婦、遊女と呼ばれて、男性に自分の体を売って生業としている女性は、当時は「罪深い女」としてレッテルを貼られていました。  十戒の第7戒に「姦淫してはならない」と、命じられていますが、とくに神殿の周辺には、神殿娼婦といわれる女の人たちがいて、いろいろな事情で、やむを得ず体を売って生きている人たちもいました。そのような人たちは、神の意志に背く者、掟に背く者とされ、徴税人、異教徒、異邦人とともに、とくに売春婦は罪人の代表と見なされていました。社会のきびしい目にさらされ、差別を受けていました。  熱心なファリサイ派の一人であるこの家の主人シモンは、その女を見て、この女がどのような女なのかすぐにわかったので、心に中でつぶやきました。  「このイエスという人は、預言者の一人だと言われている人ではないか。」  預言者とは、神さまの言葉を語る人だと、もっぱらの噂だから、この人を我が家に招待したのに、と思いました。  ファリサイ派とは、当時のユダヤ教の一派で、律法主義者、戒律を厳格に守る熱心なユダヤ教徒です。このシモンのつぶやきは、一つは、預言者だったら、そのような汚れた女に、自分を触らせるはずはないと思い、もう一つは、預言者は、神の人と言われる人なのだから、目の前にいるこの女がどんな女か、人を見抜く力を持っているはずだと思いました。  さて、この「罪深い女」と紹介されている、この女性は、イエスさまに何をしたのでしょうか。  この女は、香油の入った石膏の壺を持って、黙ってこの家に入ってきました。後ろからイエスさまの足もとに近寄って座り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でこれをぬぐい、イエスさまの足に接吻して香油を塗りました。  知らない女性が、突然、後ろから近寄ってきて、男性の足に接吻し、香油を塗るというような行為は、ただ事ではありません。しかし、その当時、大事な客をもてなすために、足を洗い、香油を塗ることはしていましたし、それは、その人に対する尊敬を表すしるし、感謝を表すしるしでした。  それに加えて「足を涙でぬらし」というような行為は、見ている人たちを驚かせるほど異常です。明らかに心からなる悔い改めを示し、溢れるばかりの愛の表現、そのような気持ちを表すものでした。  この様子を見ておられたイエスさまは、ファリサイ派のシモンの心の中のつぶやきを見抜いて、そして、まったく関係のない一つのたとえをお話になりました。 「ある金貸しから、2人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。2人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。」  そして、シモンに、「この2人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と尋ねました。  シモンは、すぐに、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。イエスさまは、「そのとおりだ」と言われました。  イエスさまは、当時のユダヤ教の教師たちが考え、人々に教えている論法をご存じでした。彼らは、「相互互恵の原則」といって、神さまに対する負債(罪)も、計量的に多い少ないで説明していました。  沢山善い行いを積んだ人は、神さまから沢山お恵みを頂ける。反対にたくさんの罪を犯した人は、それだけたくさん罰を受ける。人間の世界の損得や、貸し借りの原則が、神さまとの間でも通用すると考えていました。  人間レベルの物差しで、神さまとの関係を計っていました。  シモンは、「帳消しにしてもらった額(罪)の多い方」と答え、イエスさまは「その通りだ」と、その答えを肯定しました。  罪深い女がした行為と、ファリサイ派のシモンがイエスさまを食事に招いた行為とを比較しても、シモンがした行為に何か欠けたところがあったわけではありません。シモンは、イエスさまに何か失礼なことをしたわけでもありません。  普通のお客さんを招くという常識の範囲では、十分にもてなしをしていました。  それに比べて、「罪深い女」と言われるこの女性は、シモンがしなかったようなことをしたのです。普通の人から見ると、明らかに常識を越えています。  イエスさまの足もとにひざまずき、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻して、香油を塗りました。  ふつうのもてなしではそこまでしない、これぐらいすればいいだろうといった常識をはるかに越えたふるまいをしたのです。  イエスさまは、シモンに言われました。  「この人を見なさい。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは、足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人は、わたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは、頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」  では、この女性は、なぜこのようなことをしたのでしょうか。  その行った行為の動機が違います。  そのしたことが、正しいか正しくないかではなく、愛があるかどうかというところに違いがあります。この女性は、イエスさまに対して、言葉では言い尽くせない愛を表しました。愛の気持ちが溢れ、突き上げてくるような思いがこのような行為を取らせました。  イエスさまへの愛は、押さえきれない、止められない行為となって現れました。  この女性の愛を、しっかりと受け取ったイエスさまは、  「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言い、そして、イエスさまは、この女に、「あなたの罪は赦された」と、罪の赦しを宣言されました。 (47節、48節) 「彼女は多く愛したから、多くの罪を赦されたのだ」と言われます。  この女性には、世間体や常識ではない、程度の問題やどんな結果になるかという問題でもない、ただイエスさまへの思い、イエスさまへの愛が、このような思い切った行動をさせたのです。私たちのイエスさまへの思いは、どうなのかと問われています。  1956年(昭和31年)に、日本の国で、「売春防止法」という法律が出来ました。  1958年(昭和33年)には、いわゆる赤線地域といわれる場所、公然と行われていた売春行為が禁止されました。戦中、戦後、何らかの事情で、そのような所に身を沈めていた女性たちが解放されというか、職を奪われて、路頭に迷う人たちがいました。その時に、深津文雄という日本基督教団の牧師が、千葉県館山市に「かにた婦人の村」という婦人長期保護施設を設立しました。  偏見に満ちた目で見られ、誰にも話せない過去を持つ、身も心もぼろぼろになった女性のための更正施設でした。これらの女性と共に過ごしてこられたことから著書「いと小さき貧しき者に」の中に、次のように書いておられます。  「われわれが、自分を罪人と呼ぶ時に、そこには一種のしらじらしいわざとらしさがつきまとう。しかしこの人たちが、自分を罪人と呼ぶとき、その時その言葉は澄んでいる。冴えている。しかも、この人たちの罪――たった一つしかない命を取り返しのつかぬほど、汚してしまったという――誰も赦してくれない。どんなに親しくなっても、どんなにまじめに生きても、必ず迫ってくる『過去』。‥‥そうだ、この『過去』から彼女たちは切断されたいのだ。そのハサミが、とりもなおさず洗礼なのだ。‥‥」  「罪」の真実の、ほんとうの意味を知っている者こそ、罪赦された罪人ではないでしょうか。罪ある女は、イエス・キリストと出会い、罪赦されて、死んだようになっていた者が、生きる者とされたのです。「過去」から断ち切られた彼女の心を、感謝と喜びが満たし、じっとして居られない気持ちでイエスさまの後ろに立ったのです。  私たちは、今、この時のこの女性の心の内を深く考え、そして自分自身の生き方と重ねて考えてみたいと思います。  ファリサイ派のシモンは、イエスさまをもてなしました。イエスさまを預言者として、ちゃんと礼儀をつくし、失礼なことは何もしていません。しかし、それを超えた愛がない。反対に罪ある女は、突然、後ろからイエスさまに近づき、涙でイエスさまの足をぬらし、自分の髪の毛で足を拭いました。それは愛を表す動作です。普通のもてなしを超える愛の表現でした。イエスさまが、預言者以上の方であることを、もっと神さまに近い方であることを、感じています。  神さまが、私たちの罪を赦してくださるのは、私たちが良いことしたからではありません。一方的に与えて下さる神さまの愛によって赦されているのです。  一方的な神さまからの恵みによって赦されるのです。罪ある女は、神の愛に対して、イエスさまを愛するという方法で、神さまに応えました。  「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(第一コリント13:1ー3)  有名なパウロの言葉を思い出します。  「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」  どんなに良いことを言っても、どんない良いことをしても、私たちの言葉に、行いに、愛がなければ空しいと言います。   (2016年6月12日 聖霊降臨後第4主日(C-6))