わたしに従いなさい

2016年06月26日
ルカによる福音書9章18節〜24節  イエスさまは、弟子たちに、「人々は、わたしのことを誰だと言っているか」と、お尋ねになりました。 すると、弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言っています」、「エリヤだと言っています」、「だれか昔の預言者が生き返ったのだと言っています」と、口々に答えました。  さらに、イエスさまは、弟子たちに向かって、「それでは、訊くが、あなたがたは、わたしを何者だと思っているのか」と、お尋ねになりました。  それに対して、ペトロは、一同を代表して、「神からのメシヤです」「救い主です」と答えました。  ルカによる福音書によると、イエスさまは、弟子たちに、そのことを誰にも言うなと、命じたうえで、「わたしは、間もなく、多くの苦しみを受け、ユダヤ教の指導者たちに捕らえられて、殺され、3日目によみがえるであろう」と、びっくりするような、不吉な予告をなさいました。  そして、弟子たちをはじめ、そこにいる人たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、毎日、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。  そして、さらに、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを、すなわち自分の命を救うのだ」と言われました。  言いかえれば、「救われたいと思う者は、イエスさまのために、わたしのために死になさい」と言われたのです。  逆説的というか、私たちの常識をひっくり返すようなことを言われました。  たとえば、濁流に呑み込まれて、溺れかけている人がいたとします。アップ、アップともがいて、「助けてくれーっ」と言って、叫んでいます。一方で、それを見て、ひょっとすると、自分も死ぬかも知れないのに、水の中に飛び込み、溺れている人を助けようとする人もいます。どちらが救われるのかというような場面を思い出します。困っている人がいると、我を忘れて、思わず手を差し伸べるということもあるかも知れません。  しかし、イエスさまは、ここで、「わたしのために」「イエスさまのために」という、特別の意味付けをして、救いの条件だと言われます。  そこに、宗教的な飛躍というか、「救い」とは、「救われる」とは、そういうことですよという厳しさが語られています。  「救われたい人は、わたしについて来なさい」、「わたしについて来たい人は、自分を捨て、毎日、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と教えられます。  これこそが、「わたしは神さまを信じます」「イエスさまを信じます」「聖霊を信じます」と、信仰告白をした者が、いかに生きるか、いかに生きるべきかを示す絶対命令なのです。  今日の福音書は、この「主イエスに従う」というテーマについて、それは、どういうことなのかを、より具体的に示して、教えています。  今日の福音書の個所をもう一度見て下さい。  ここに、イエスさまに従おうとする3人の弟子志願者が登場します。  第一に、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人です。  第二は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った人です。  第三は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言った人です。  まず、第一の弟子志願者ですが、イエスさまが、何も言わない先に、イエスさまと弟子たちの一行が道を歩いていると、一人の人が寄って来て、イエスさまに向かって、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。(57節)  弟子になるためには、まずイエスからの「選び」がなければなりません。イエスの招かれるということです。  聖職になることを志願して、勉強し、集団生活をし、筆記試験や面接試験を受けて、執事や司祭になります。  この面接試験の時に、いちばん問題にされることは、「あなたは、コーリングを受けましたか」と聞かれます。  Callingとは、呼ばれる、呼び出される、招かれる、召し出されるということです。「召命感」とも言います。聖職者になるということは、単に職業を選択する一つではないということです。神さまから、イエスさまからの呼びかけ、招きを受けましたか、受けていますか、と尋ねられるのです。  第1番目と、第3番目の弟子志願者には、イエスさまからの「従いなさい」という招きの言葉がありません。イエスさまは、「わたしに従いなさい」と言っておられないのです。  「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と、いくら調子のいいことを言って、イエスさまに近づいて来ても、これに対するイエスさまの答えは、非常に冷たいものでした。調子のいいことを言って近づいてくる弟子志願者に対しては、これを突き放します。  「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。  伝道者というものは、人々から拒絶され、受けいれられない存在です。枕する所もない、ゆっくりと手足を伸ばして寝る所もない、伝道者の孤独、そして、人の子イエスさまの孤独感、貧しさ、厳しさを述べ、神からの、イエスさまからの招きを、きちんと受け取った者でなければ耐えられないだろうと言われました。   第二の弟子志願者についてですが、イエスさまは、この人には、「わたしに従いなさい」とコールされました。  ユダヤ教では、ラビ(律法の教師)から律法とその解釈の仕方をならうために弟子入りします。律法を沢山暗記し、ラビの教え(解釈)を十分に覚えれば、その弟子たちも、ラビになることができ、独立することができます。  しかし、イエスさまの弟子になるということは、イエスさまの教えを聞いて覚えることが中心ではなく、イエスさま自身が中心であり、イエス自身が弟子の目的であるのです。  イエスさま自身が生き方であり、イエスさまご自身が生きる目的なのです。その教えを全部暗記したとしても、イエスさまが求める弟子とはなれません。イエスさまの弟子とはイエス自身を信じ、イエスさまにすべてをゆだね、イエスさまを、弟子たちの心の中心とすることなのです。イエスさまの弟子たちは、イエスさまの教えを全部マスターしたとしても、師を越えたり、イエスさまに替わって師になることはできません。ここに、イエスさまの弟子となることの特殊性があります。  イエスさまは、別の場面で、言われました。  「もし、だれかが、わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。(ルカ14:26,27) 「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったこの人に対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われました。  この答えは、ユダヤ教徒にとってはつまずきとなったに違いありません。十戒の中にある(第5戒)「あなたの父と母をうやまいなさい」という戒律に反します。父の葬儀を丁重に行うことは、ユダヤ教信仰の中心でした。安息日の制限規定の一切を免除されるほどでした。イエスさまの答えは、その当時のユダヤ人社会では受け入れられないものでした。イエスさまに従うことは、父と家族の絆から離れて「神の国の宣教」をすることを意味します。それこそが、イエスさまの目的であり、それを受け継ぐことが、イエスさまの生きざまを継続することだからです。  さて、第三の弟子志願者についてですが、この弟子志願者も第一の弟子志願者と同じように、イエスさまからの招きの声、コーリングを受けていません。  自分の方から「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。  これに対して、イエスさまは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。  これは、明らかに、旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語の中から語られています。(今日の旧約聖書をご覧下さい。)  エリシャは、12くびきの牛をつかって畑を耕していました。預言者エリヤは、そのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げました。当時、教師が弟子に外套をかけるのは「弟子にする」ということを表す行為でした。そこで、エリシャは、牛を捨て、エリヤの後を追いかけて行き、「わたしの父と母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言いました。すると、エリヤは「行ってきなさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と言いました。エリシャは家に帰って、別れの儀式、挨拶をして、エリヤに従いました。エリヤは、それでよかった。ユダヤ教の民族宗教の枠の中では、それで通用しました。  しかし、イエスさまは、それを越える厳しさで、向かい合われます。「神の国にふさわしくない」と答え、神の国を宣教するイエスさまの弟子になるためには、家族の絆をも、犠牲にすることが要求されます。何ものにも束縛されない者であることが、神の国にふさわしい者となることの前提であることが、その厳しさが求められます。  イエスさまの弟子になるということは、聖職者や伝道者になることだけではありません。  すべてのクリスチャンは、クリスチャンとは、イエスさまの弟子になることです。単に教会のメンバーとして名を連ねていることではありません。  イエスさまの弟子であるということは、イエスさまの生きざま、イエスの死にざまにならうことです。イエスさまのために生き、イエスさまのために死ぬことなのです。  イエスさまが愛し、イエスさまが仕え、イエスさまがご自分を捨てたように、わたしたちもイエスさまのように愛し、イエスのように仕え、イエスのように自分を捨てること。  そして、イエスが十字架を負われたように、わたしたちも、自分の十字架を背負って、よたよたしながらでも、イエスさまに、キリストに、従おうとすることです。その向こうに、イエスさまが、手を広げて待っていてくださいます。      〔2016年6月19日 聖霊降臨後第6主日(C-7) 聖光教会〕