「平和があるように」
2016年07月03日
ルカによる福音書10章1節〜12節
ある時、イエスさまは、祈るために山に行き、神に祈って、夜を明かされました。朝になると、弟子たちを呼び集めて、その中から12人を選んで「使徒」と名付けられました。それは、ペトロ(シモン)、その兄弟であるアンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダでした。(ルカ6:12-16)
この12人が、よく知られているイエスさまの弟子たちですが、今日の福音書、ルカ福音書10章1節以下では、さらに72人を選んで、任命し、伝道のために派遣されたと記されています。
この12人とか、72人という数字は、ただ何となく定められた数ではなく、それぞれに、旧約聖書からの伝承に基づいた数字です。
12という数字は、イスラエル民族の12部族を意味しています。イスラエル民族は、同じ唯一の神を信じる部族の集合体から成っています。創世記や民数記では、ヤコブの子どもたちとして、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ガド、アセル、ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリという部族の名前が出てきます。(創世記46:8-27、民数記1:5-16)
古いイスラエルに対して、新しいイスラエルの基になるものとして、12部族を象徴する意味で、12人の弟子、使徒団が選ばれたと考えられています。
一方、72人という人数ですが、民数記11:24〜30に、このような出来事が記されています。
モーセは、神の幕屋から外に出て、神さまのみ言葉(お告げ)を民に向かって告げました。さらにモーセは、民の長老たちの中から70人を集め、幕屋の周りに立たせました。神さまは、雲の中からモーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を、70人の長老たちにも授けられました。霊が、この長老たちの上にとどまると、彼らは預言状態になりました。ところが、モーセから呼び集められた時に、宿営に残っていた長老が2人いました。一人はエルダドと言い、もう一人はメダドといいます。長老の中に加えられていましたが、まだ幕屋には出かけいませんでした。ところが、神さまからの霊が、この二人の上にもとどまり、彼らは宿営の中で「預言状態」になりました。
一人の若者が、モーセのもとに走って行って、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げました。
それを聞いて、若いころからモーセの付き人であったヌンの子ヨシュアは、モーセに、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言いました。宿舎から出て来もしないで、神の霊を受けるとは、何ごとですかと。
すると、モーセは、ヨシュアに言いました。
「あなたは、わたしのためを思って、ねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と。モーセは、イスラエルの長老と共に宿営に引き揚げました。最初に神の霊を受けた70人と宿舎で霊を受けた2人と、72人が、神さまからの霊を受けたという出来事です。この72人が、頭にあって、イエスさまによって、任命され、派遣された人数が語り継がれたのではないでしょうか。
イエスさまは、この72人を、ユダヤ人をこころよく思っていないサマリヤ人のところへ、神の国をもたらすイエスさまの先発隊として派遣しようとして、言われました。(ルカ9:51-56)
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。さあ、行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」と。派遣される人たちに、使命と命令と心配と注意を与えておられます。
イエスさまのことを宣べようとして、家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」(10:5,6)
まず、『この家に平和があるように』と、挨拶しなさいと、言われました。
この「平和」という言葉について考えてみたいと思います。
私たちが、毎主日行っている聖餐式の中で、司祭が「主の平和が皆さんとともに」と言うところがあります。すると、会衆の皆さんは、「また、あなたとともに」と、あいさつを返します。
そして、会衆は、互いに「主の平和」と唱えて挨拶を交わします。
聖餐式の中で、なぜ、このようなことをするのでしょうか。聖餐式の流れの中で、ざわざわとして、緊張が緩み、気持ちが逸れてしまうような気がします。
私たちが、聖餐式の中で、互いに交わす「主の平和」とはどのような意味を持っているのでしょうか。
「平和」とは、英語で、ピース(peace)と言います。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、シャロームと言います。また新約聖書が書かれたギリシャ語では、エイレーネーという言葉です。このギリシャ語は、日本語では、平和、平安、安心、無事という言葉に訳されています。
「平和」は、「戦争」の反対語として用いられますが、単に政治的な意味だけでは、世の中は、ほんとうの平和になりえないと思います。また、平和、平和と叫んでも決して平和になりません。
祈祷書の中で交わす言葉は、「主の平和がありますように」です。「主の平和」とは、「主に在る平和」、主によってもたらされる平和です。神さまとの関係がどのような状態にあるか。
神さまのみ心にかなうところに正義、義があります。反対に、神を神としない、神のご意思に背いている状態は、義の反対、罪です。罪の状態にあるときには、ほんとうの平和はありません。
イエスさまは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」と言われました。(ルカ12:49〜53) イエスさまが求められる平和は、きびしいものです。イエスさまを信じて生きようとすると、イエスさまにすべてをゆだねようとすると、かならず、いさかいや葛藤が起こります。
口先で、平和、平和というようなものではありません。しかし、そのいさかいや葛藤の向こうに、ほんとうの平和があることを指しておっれます。
「主の平和」「主に在る平和」「イエス・キリストが、十字架に架けられることによって与えられた平和」「主イエスによって与えられた恵みと感謝に溢れる平和」そのような思いを込めて、「主の平和があなたと共にありますように」と挨拶を交わすのです。
今日の聖餐式では、「主の平和」の「主の」に心を込めて、あいさつしてみて下さい。
「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。」 「主の平和!」
〔2016年7月3日 聖霊降臨後第7主日(C-9) 聖光教会〕