善いサマリア人
2016年07月10日
ルカによる福音書10章25節〜37節
ある時、ユダヤ教の一人の律法学者が、イエスさまのところに来ました。この人は、律法の専門家で、明らかにイエスさまを試そうとして、やってきたのです。そして言いました。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。
「永遠の命」とは、聖書のなかでは、天国とか、神の国とか、救いという言葉と同じ意味で使われています。ユダヤ教の律法の専門家であり、教師である人が、イエスさまに向かって最も基本的なこと、しかし誰でも求めている最も難しい問題について、尋ねてきたのです。イエスさまは、言われました。
「律法には、何と書いてあるか。あなたは、それをどう読んでいるか」と。
イエスさまから、反対に問い返されて、この律法学者は、律法の専門家として、答えないわけにはいきません。そこで、彼はすぐに答えました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
これは、旧約聖書に記されている言葉です。申命記6章4節、5節に次のように記されています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」さらに、この言葉は、「今日、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(6節〜9節)と、旧約聖書に記されています。
さらに、レビ記の19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と記されています。
ユダヤ人は、小さい子どもの頃から、繰り返しこのことが教えられ、これを書いたものを手に結び、額につけ、家の戸口や柱にも書いて張っておきなさいと命じられています。誰でも知っていて、最も基本的な律法の言葉でした。
この律法学者は、当然、その掟を暗記していますから、すらすらと、答えました。
すると、イエスさまは、言われました。
「その通りだ。分かっているではないか。あなたの答えは正しい。わかっているのだから、それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と、お答えになりました。
この律法学者は、イエスさまを試そうとして、イエスさまをやりこめようとして、イエスさまに議論をしかけてきたのです。大勢の人たちが、この様子を見ています。ところが、律法学者は、反対に、イエスさまから質問され、自分で答えさせられてしまったのです。 大勢の人々の前で、自分の面子が立ちません。
そこで、彼は自分を正当化するために、さらに尋ねました。
「では、わたしの隣人とはだれですか」と言って、問い返しました。それについてお答えになったのが、「善いサマリア人のたとえ」です。
ある旅人が、エルサレムからエリコへ下って行く途中のことでした。人通りも少ない、さびしい荒れ野の真ん中の道で、強盗に襲われました。強盗は、この旅人の持ち物を全部奪い、この人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして、立ち去っていきました。
傷ついた旅人が、道端に倒れて、助けを求めていますと、ある祭司が、たまたま、その道を下って来ました。ところが、傷つき倒れているこの人を見ると、道の向こう側を通って、見て見ぬふりをして行ってしまいました。
しばらくすると、同じように、レビ人がやって来ました。虫の息で助けを求めている、その旅人が倒れている所にやって来ましたが、その人を見ると、やはり道の向こう側を通って、行ってしまいました。
ところが、さらに、しばらくこの旅人が助けを求めていると、一人のサマリア人が旅をしてそこを通りかかりました。そのサマリア人は、この旅人が倒れて、うめいているのに気づき、そのそばに寄ってきて、その旅人の姿を見て憐れに思い、近寄って手当てをしました。傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、応急処置をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚(1デナリオンは、当時の1日の賃金)を財布から取り出して、宿屋の主人に渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに、わたしが払います。」 このサマリア人はこう言って旅を続けて行きました。
このようなたとえ話をしてから、イエスさまは、先ほどの律法学者に尋ねました。
「さて、あなたは、最初に通りかかった、祭司、2番目に通りかかったレビ人、そして最後のサマリア人、この3人の中で、誰が、強盗に襲われた旅人の隣人になったと思うか。」
イエスさまを試そうとして近づいて来た、この律法の専門家は言いました。「その人を助けた人です。」「サマリア人です」と答えました。すると、イエスは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
これがよく知られている「善いサマリア人」のたとえです。
このたとえから、2つのことを考えたいと思います。
第1のことは、最初に、傷ついた旅人のそばを通りかかった祭司とレビ人の気持ちです。
祭司というのは、エルサレムの神殿で、直接、神の聖なるものに触れることのできる神に仕える立場の人です。 職業的宗教家であり、ユダヤ社会で立派な地位を持っている人です。誰が見ても祭司だと分かる立派な服装をして、立派な馬に乗ってそこを通りかかったのだと思います。
レビ人というのは、イスラエルの12部族の中の1部族で、イスラエルの民が放浪している時代には、「契約の箱」を担ぎ、神に奉仕する役割を担う一族でした。エルサレムに神殿が築かれてから、神殿を守り、神殿に仕える特別に選ばれた民でした。
祭司も、レビ人も、ともに神に仕え、神殿で奉仕する、宗教的特権を持った、神さまに選ばれた人たちでした。
誰も見ていない、さびしい荒れ野の道です。あきらかに強盗に襲われ、身ぐるみはがれ、傷ついていると分かる旅人が、そこに倒れています。
とっさに、かかわりたくない、かかわると面倒だ、服が汚れる、予定があって先を急いでいる、ひょっとすると金銭的損失を蒙るかもしれないなど、さまざまなことが、思い浮かんだのではないでしょうか。
誰も見ていないので、見て見ぬふりをして、道の向こう側を通り過ぎました。
第2のことは、3番目に、通りかかった「サマリア人」とは、同じユダヤ民族なのですが、ある昔の出来事から、長い歴史の中で、他のユダヤ人たちから、差別されている人たちでした。イエスさまの時代のユダヤ人は、サマリア人には口もきかない、あいさつもしない、食事を共にしてはならないと、差別していました。
この差別されているサマリア人が、ユダヤ人の旅人を助けたのです。至れり尽くせりの人命救助をおこなったのです。
胸を張って、威張って、そこを通りかかったユダヤ人である祭司やレビ人のしたことは、その後に通りかかったサマリア人のしたこととは、まったく反対のことをしました。
彼らは、傷ついた旅人のそばに近寄りませんでした。憐れに思いませんでした。傷の手当てをしませんでした。自分の馬やろばに乗せませんでした。宿屋に連れて行きませんでした。そこで介抱しませんでした。傷ついた旅人を寝かせて、先に旅立とうとする時、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して後のことを頼みませんでした。それで足りなければ帰りにわたしが払いますからとも言いませんでした。
見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司とレビ人の思いや行動は、しかし、ある意味では、現代に住む私たちの姿を表しているのではないでしょうか。私たちの感覚では、「なぜ、そこまでしなければならないの?」と言ってしまいそうな気がします。現代社会においては、祭司やレビ人の思いや姿勢の方が常識的、当たり前なのかもしれません。
そこに倒れている人が、自分の子どもであったり、親であったり、兄弟であったり、恋人であったり、親友であったら、どうでしょうか。言われなくても、かけ寄り、抱き上げ、介抱し、自分のことはどうなっても、何とかしようとするでしょう。
では、それができるのは人間関係において、どの範囲まででしょうか。「そこまでしなくっても」という範囲をきめる線を、どこに引いているでしょうか。
律法学者が、イエスさまに、尋ねた問い、自分を自己弁護して、自分の体面を保つために吹きかけた質問の問題点は、実に、そこにあります。
「では、わたしの隣人とは『だれ』ですか。」
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。
「それぐらい、言われなくても、わたしにも分かっていますよ。では、わたしの隣人とは誰ですか。愛すべき隣人と、愛する必要のない隣人と、どこで線を引けばいいのですか。どの範囲の人間関係を隣人と言えばいいのですか」と、尋ねたのです。
第3のことは、イエスさまが言われた「さて、あなたは、この3人の中で、誰が強盗に襲われた人の『隣人になった』と思うか。」という、イエスさまの言葉に注意したいと思います。
この善いサマリア人のたとえの中で、「誰がこの傷ついた旅人の隣人になったと思うのか」と問われました。誰が見ても、誰が聞いても、それはサマリア人であったことはすぐに分かります。
このサマリア人は、強盗に襲われた旅人と、今まで出会ったこともありませんし、特別の関係もありません。
しかし、このサマリア人は、近くに寄って「その人を見て憐れに思い」、自分の損得を忘れて、至れり尽せりの世話をしたのです。サマリア人は、この傷ついた旅人の「隣人になったのです」。
「誰が、わたしの隣人ですか」という律法学者の問いに対して、
「誰が、この人の隣人になったのか」というイエスさまの問いは、隣人の範囲を自分で決めてかかり、神の掟、律法を自分の都合のよいように解釈してから守ろうとする律法学者と、今、目の前にいるこの人、今、叫び、うめき、助けを求めている人すべてを、隣人とするイエスさまの生き方との違いが、はっきりとわかります。
永遠の命を継ぐ者となるためには、神の掟を、神の命令を、自分の都合で、水増ししたり、自分に都合のいいように折曲げて解釈したりしないで、忠実に守りなさい。わかっているのだったらそのように実行しなさいと言われました。
ヨハネによる福音書15章12節では、イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と教えられました。
私たちが、友のために命を捨てるということは、友のためにどれほど、自分の思いを、自分の都合を変更できるかということです。それが命を捨てることだと思います。最も身近な人のために、またそれ以外の人のために、自分の予定、自分のスケジュール、自分の欲や得を捨て、自分の思いを捨てて、どれほどその人を受け入れることができるかということです。
わたしにとって、この人は隣人である、この人は隣人ではないと、自分で、隣人の範囲を定めて、自分の都合に合わせて、自分の枠の中に、はまる人だけを愛するというのは、イエスさまが求めておられる愛ではありません。誰がわたしの隣人なのですかではなく、私たち自身が、どれほど多くの人の隣人になれるかが、問われています。
〔2016年7月10日 聖霊降臨後第8主日(C-10)〕