「主の祈り」が自分の祈りになるために

2016年07月24日
ルカによる福音書11章1節〜13節  私たちがよく唱えている「主の祈り」について、少し立ち止まって、考えてみたいと思います。  私たちの教会では、どの礼拝でも、主の祈りを唱えますし、いろいろな集会の終わりには、「主の祈りを一緒に唱えて終わりましょう」と言って終わります。  さて、私たちは、どのような思いで、このお祈りをしているでしょうか。ただ、仏教徒の人たちが、念仏を唱えるように、意味も考えないで、有り難いお祈りとして唱えているというようなことはないでしょうか。主の祈りとは、どのようなお祈りなのでしょうか。  聖書では、マタイによる福音書と、ルカによる福音書に、イエスさまが、「祈るときにはこのように祈りなさい」と言って、教えられた祈りとして記されています。「主が教えられた祈り」という意味で、「主の祈り」と伝えられています。  マタイ福音書の5章9節〜13節では、山上の説教と呼ばれ、イエスさまが、山の上で多くの群衆に向かって教えておられた時、「祈るときは、このように祈りなさい」と言って語られたと記されています。  一方、ルカによる福音書では、今、読みました福音書の個所ですが、イエスさまが、ある所で祈っておられ、その祈りが終わった時に、弟子の一人がイエスさまに、「主よ、(バプテスマの)ヨハネが、弟子たちに教えたように、わたしたちにも、どのように祈ればよいのかを教えてください」と言いました。  それに応えて、イエスさまが、「祈るときには、このように言いなさい」と言って教えられた「祈り」として記されています。  このように、場面は違いますが、イエスさまが、「このように祈りなさい」と教えられた祈りには違いはありません。 その祈りの言葉が、伝えられていくうちに2つの版ができたのであろうと考えられています。  この「主の祈り」と呼ばれるお祈りは、短いお祈りですが、その内容は、5つの大きな柱からなっています。   第1は 、「天におられるわたしたちの父よ、」という、神さまに対する「呼びかけ」の言葉です。神さまに対して「父よ、お父さん」と呼びかけなさいと言われます。  神さまに向かって、ほんとうに「お父さん、父よ」と呼びかけることができるのは、イエスさまだけです。  ルカ福音書10章22節に、イエスさまは、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」と、喜びにあふれて語っておられます。  神さまに、「父よ」と呼びかけることができるのは、神の子であるイエスさまの特権です。  そして、イエスさまは、私たちのために十字架に架けられ、その命をもって、私たちの罪を贖ってくださいました。そのことによって、イエスさまを信じ、イエスさまを受け入れることができるようになった私たちに、「子」となることがゆるされたのです。  私たちはイエスさまと同じように、お祈りの初めの呼びかけに、「私たちの父よ」と言って、神さまに親しく呼びかけることができる者にされているのです。だからまず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけなさいと言われます。   第2に 、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と、願います。  「み名」とは、神さまの名前です。「名は体を表す」と言います。名は、そのものの実体を表します。  私につけられた名は、その名を呼ばれる時、私のすべて、私の正体を表しています。   聖とされますようにの「聖」とは、けがれがない、清らかで尊いさまを言いますが、私たちが住む、日常的な世界のことを「俗」と呼ぶ時、その俗とはっきり区別された向こう側の世界が「聖」なる領域です。  神の側に属するものという意味で、聖人とか聖書とかいう言葉を使います。神さまの実体が、俗なものと切り離され、神が神として崇められますようにと、第一に願います。 「み国が来ますように」の「み国」とは、神の国、神の王国です。神の国の支配者、統治する方は、神さまです。  神さまが絶対の権限をもって支配される国です。神さまが支配されるこの宇宙が、世界が、何ものにも妨害されずに、神さまの思い、み力によってのみ、支配されますように、宇宙の隅々まで、世界の隅々まで、神さまの支配が行き渡りますようにと、そのような神の国の到来を待ち望みます。 「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」とは、私たちが住むこの世では、私たちの罪が、神さまのみ心を見えなくし、神さまのみ心に背き、神さまがなさろうとすることを妨げています。  私たちは、神さまの意志に反して、自分自身が神になってしまい、神さまの思いを無視して、自分の思い通りになることだけを願っています。「神さまのみ心だけが、この地上においても、徹底して行われますように」と祈ります。  この「み名が聖とされますように」、「み国が来ますように」、「み心が行われますように」という、3つの祈りは、同じ一つのことを祈っています。神さまが神さまであることができますように、神さまを引きずりおろして、神さまを無視したり、背いたり、神さまのみ心を妨害することがありませんように」と祈ります。   第3は 、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。  「わたしだけの」ではありません。「わたしたち」、それは、世界中のすべての人々を表します。世界中の人々が、今日一日の食べるものを与えられますようにと祈ります。  わたしだけが、誰よりも美味しいものを沢山食べて、蓄えて、きれいな服を着て、立派な家に住んでという、自己中心、利己主義、欲望のみを満足させようとする生活を戒めています。 「地球上のすべての人々に、一日分の食べ物を、今日も与えてください」と祈りなさいと、イエスさまは教えられます。   第4は 、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈りなさいと言われます。  私たちが覚えている「主の祈り」では、「罪」となっていますが、マタイ福音書6章12節では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも、自分に、負い目のある人を、赦しましたように」となっています。   「負い目」とは、負債のこと、借金を言います。神さまに対する負債、負い目とは、「神に対して犯している罪」を言います。神さまの前に積み上げられる罪は、毎日の生活の中で貯まっていくゴミのように、どんどん積み上がっていきます。  しかし、私たちは、神さまの前に積み上がっている莫大な量の自分の負債については、忘れてしまって、身近な人間関係の中で起こった、隣人の負い目はゆるせないと言い続けています。これに対して、イエスさまは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈りなさいと教えられます。   第5は 、最後の願いは、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈りなさいと教えられます。  このお祈りの言葉からは、あの創世記の最初、創造物語にあります「アダムとイヴの物語」を思い出します。  神さまは、食べてもよい果実と食べてはならない果実をちゃんと教えて、そして手の届くところに果実を置いて、自分の意志で選ぶことができる自由を人間にお与えになりました。  ヘビが現れて、誘惑する者、そそのかす者、悪魔の働きをしました。イヴは、ヘビにそそのかされて、取って食べてはならないほうの木の実を食べました。そして、アダムは、イヴに勧められて、同じように食べてはならないと言われた木の実を食べてしまいました。  神さまのみ心に背く、神さまの命令に従うことができない、その原因には、誘惑に陥る私たちの姿があります。頭では、分かっているのです。しかし、誘惑に負けて、神さまのみ心に背いてしまいます。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と、いつも祈りなさいと教えられます。  さて、主の祈りの意味と内容を大急ぎで見てきましたが、イエスさまが、私たちに、このように、祈りなさいと教えられたこの「主の祈り」と、私たちが、いつも祈っているお祈りとを比べてみますと、どうでしょうか。  私たちのお祈りは、あれをして下さい、これをして下さいと、神さまに対する要求ばかり、お願いごとばかりに終始していないでしょうか。  主の祈りの内容は、神さま中心で、神さまの御心にかなうことが、先ず第一に祈るべきであると言っておられることに気がつきます。それに対して、私たちのお祈りは、自分中心で、先ず第一に、願いごとがあり、感謝や賛美を神さまに申し上げても、その内容は、私たちの側だけの都合からくる感謝であったり、賛美であったりします。  神さまが何を望んでおられるのか、神さまの思いに、神さまのみ心に、思いを馳せながらお祈りをしたことがあるでしょうか。  それでも、イエスさまは、一方では、おっしゃって下さいます。  ルカの福音書11章9節、10節では、  「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と。  それでもいいから、求めなさい、求め続けなさい。しつこく、しつこく祈り求めなさい。そして、その祈りは、かならず聞かれると。  「主の祈り」は、キリスト教の単なる呪文ではありません。意味もわからずに、ただ唱えていればいいというものでもありません。  イエスさまは、「祈るときには、こう言いなさい」と、私たちに示された、私たちに教えられた「祈りの模範」です。  そんなに難しいお祈りは、私にはできませんという人がいるかも知れません。  では、主の祈りは、ないほうがよかったのでしょうか。あまり意味を考えずに、なんとなく唱えていたほうがよかったのでしょうか。  大切なことは、私たちに合わせて、私たちの考えや、やりやすさに合わせて「主の祈り」を変えることではなく、大切なことは、私たちが、主の祈りを唱える時、そのたびに、私たち自身が変えられていくことです。  主の祈りの内容をよく理解して、私たちの信仰が、少しでも、主の祈りに、近づくように変わっていくことです。1歩でも2歩でも、私たちの祈りが、主の祈りに近づくことを願いながら唱えることだと思います。  イエスさまが教えて下さったこの祈りが、ほんとうに私たちのものになり、自分の声で、自分の祈りとして、心からこの祈りを唱えることができる時、私たちの生き方、わたしたちの人生が変えられていくのです。  この後の聖餐式の中でも、「主の祈り」を一緒に唱えます。心を込めて祈りましょう。   〔2016年7月24日  聖霊降臨後第10主日(C-12)   聖光教会〕