目を覚ましている僕

2016年08月07日
ルカによる福音書12章35節〜40節  今、読みました今日の福音書、ルカによる福音書の12章35節以下には、「目を覚ましている僕」という見出しがつけられています。  イエスさまは、一つのたとえを話されました。  ある家のご主人が、結婚式に招かれ、その宴会で、夜、遅くなって、深夜に帰って来ました。  当時のユダヤ社会の習慣では、婚礼の儀式は、夜に行われていました。  主人が、突然帰ってきても、その家の召使い、僕たる者は、ちゃんと目を覚ましていて、消えないように灯りをつけて、エプロンもちゃんと身につけて、ご主人の帰りを待っている僕でありなさい、と言われます。  いつも心の準備、身支度をして、ご主人のお帰りを待っている僕のようにしていなさいと言われます。  さらに、それだけではなく、イエスさまは、37節では、  「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、反対に、ご主人は、帯を締めて、この僕たちを、食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださる。」と言われました。  このイエスさまのたとえ話と教えは、何を意味しているのでようか。  聖書には、この言葉は直接出てきませんが、終末とキリストの再臨について語られています。  「終末」とか「再臨」という言葉は、聖書には直接出てきませんが、キリスト教用語として、よく使われます。  終末とは、世の終わり、物事の終わりを意味します。また再臨とは、世の終わりの時に、キリストが再び来られるということです。  聖書では、神さまが、「光あれ」と言われて、この世が始まったと記されていますが、科学者の間では、宇宙の始まりは、35億年から40億年ぐらい前だっただろうと言われています。ビッグバンと言われる大爆発があって、宇宙ができた、その星の一つが地球になったと説明されています。人間の生命の始まりは何百万年も前だと言います。  要するに、宇宙の始まり、地球の始まり、この世の始まりがあって、そして、また、いつか、世の終わりの時もあると考えられています。  とくに、キリスト教では、このように世の終わりについて論じることを終末論と言います。  さらに、新約聖書では、イエスさまご自身が、死んでよみがえり、さらに再びあなたがたの所に現れるであろうと約束されたことから、「キリストの再臨」が待望されています。  約2千年のキリスト教会の歴史の中で、その「時」は、いつ来るのか、どのようにして来るのか、議論されたり、実際に日時を予言する人が現れたりして、今日に至っています。  私は、この世の終わりを考えることも大切だと思うのですが、それよりも先に、自分自身の終わりについて、自分自身に終わりがあるということについて、真剣に考えておくことが大切だと思います。大氷河期がやってくるとか、どこかの星と地球が衝突するとか、そのような地球の終わり、この世の終わりよりも先に、よく考えなければなりません。  それは、見たり、聞いたり、ものを考えたり、想像したり、笑ったり、悲しんだりしている私たちの人生に必ず終わりがあるということです。  何よりも先に、人間として、私が、自分自身に、終わりがあるということです。確実に、例外なく私たちは、死ぬということです。そして、その時は、もっと身近に、確実に来るということです。  もっと若い時から、人間はかならず死ぬものであることは、頭ではわかっていたのですが、この年になって、もっともっと現実味を帯びるようになり、しっかりと受け止めなければならないと思っています。  先週の説教でも、引用したのですが、今日もひと言、永六輔さんの言葉を使わせてもらいます。  「人間は病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ。」  永六輔さんが、友人が、がんセンターに入院した時、同室の老人から聞いて感動した言葉だと言って紹介しています。  寿命という言葉を、国語辞典で引いてみました。すると、「生物の命」「生命の長さ」、さらに「ものが使用に耐える期間」とありました。「このテレビも、もう寿命だなあ」と言ったりして、耐用年数を問題にしたりします。そこから連想するのですが、食品の「賞味期限」という言葉ですが、これは、いちばん美味しく食べられる期間だそうです。  耐用年数や賞味期限は、誰が決めるのでしょうか。その食品を作った人、生産者が決めます。  「人間は病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ」という言葉は、すべての人に、それぞれに、「定められた期限」があるということです。人間のそれを定めるのは誰でしょうか。それは、神さまです。私たちは、自分で生まれてきたのではありません。目に見えない大きな力、すべてのものの命の根源である神さまによって、生まれさせられてきたのです。  ある時、私たちに命が与えられたように、ある時、神さまの意志で、その命は奪い取られます。私たちの目には、不公平に見えますが、生かされているその期間はまちまちです。 また、命が奪い取られる方法もまちまちです。病気もあれば、事故もあります。  ですから、私たちは、与えられた命の期間、その生かされている一生を大切に生きなければなりません。  さて、聖書に戻りますと、そのような「終わりの時」が来る。しかし、それは、いつ、どのようにして来るのかは、私たちにはわからないと言っています。  だから、夜中に、ご主人が突然、帰ってくるようなものです。突然、戸が叩かれます。その時のために、あかりを灯して、帯をきちんと締めて、目を覚ましていなさいと言われます。  その逆の態度をとる僕は、戸を叩かれても、眠りこんでいて、あかりも消えてしまい、帯を解いてだらしない格好になっている、まったく準備ができていない僕です。あわてふためいても、ばたばたしても後の祭りです。  ここで、イエスさまは、不思議なことを言われました。  37節以下に「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われます。  実際の社会では、主人と召使いの立場が逆になるようなことは、ありえません。主人が奴隷の世話をするというようなことはありません。しかし、神の国では、神さまと私たちの関係では、いつも、目をさまして、心の準備をして、緊張して、その時を待っている召使い、僕は、ご主人さまから手厚いもてなし、歓待を受けると言われるのです。  私たちは、死んだらどこへ行くのか、絵で描いたような状景を、説明するのは難しいことですが、神さまからの命の息、すなわち霊となった私たちは、神さまの宴会の席につくことが約束されているのです。  聖書、ことに新約聖書では、福音書もパウロの手紙にも、その背景に、終末思想があふれています。聖書は、このような「世の終わりは近い」という考え方、緊張感の中で語られ、記されています。  私は、この年齢になって、聖書の言おうとしていることの意味を知る信仰の喜びを感じる年頃になりました。  若い時には、前ばかりを見て、ひたむきに歩んできました。しかし、今、終末の時を前提にして、歩んできた道を振り返り、さらに、今、何をなすべきか、どのように生きるべきかを考えることができるということです。  それは、自分の終わりの時を、終末を、身近に感じることができるようになったからです。自分にも必ず終わりがある。そのことを前提にして、今の自分の生き方、在り方を見直すことができるからです。遺産を持っている人は、自分の終末を身近に感じて、相続問題や、家財道具の始末で、頭がいっぱいという人もいるかもしれません。  しかし、もっとだいじなこと、いちばんだいじなことがあります。それは神さまとの関係です。  いつ、その時が来てもいいように、心の目を覚ましていなさい。灯りをつけて、心に帯をしっかりと締めて、その時を待ちなさい。神さまの祝宴に招かれる喜びを期待しなさいと教えておられます。  「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と言われます。 〔2016年8月7日 聖霊降臨後第12主日(C-14) 聖光教会〕