「分裂をもたらす」

2016年08月14日
ルカによる福音書12章49節〜53節  明日、8月15日は、71回目の終戦記念日を迎えます。私は、当時、国民学校(小学校)の3年生でしたが、71年前、夏休み中に、突然、登校するよう連絡があり、学校の校庭で炎天下、ラジオの玉音放送を聞きました。 直接の戦災には遭っていませんが、戦時中の雰囲気は、どのようなものであったかは、よく覚えています。  明治、大正、昭和と、時代が代わるにつれ、日本の国では、日清戦争、日露戦争が起こり、さらに満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続き、軍部の発言力が強くなり、同時に、国粋主義的な国家神道がつくりあげられ、どんどんと日本の民族主義思想が高められていきました。     当時の教会がどのようになっていたかを知る、面白い資料があります。  「1940年(昭和15年)2月21日、日本聖公会は、奈良県の八木基督教会において『皇紀二千六百年奉祝日本聖公会信徒大会』を開催した。名出監督(主教)司式、八木善三郎長老(司祭)説教により聖餐式が行われ、信仰告白の後、「宣言文」が朗読され、約250余名が陪餐した。式後、奈良県知事三島誠也氏、八木町長岡本岩次郎氏が出席し、それぞれ祝辞を述べた。持参した弁当による愛餐会の後、「皇紀二千六百年奉祝日本聖公会信徒大会」と染め抜いた紫幟を先頭に隊伍を整えて参道を歩き、橿原神宮に到着し、団体参拝を行った」と記されています。キリスト教の教会も当然のように、神社神道に参拝し、国策に加担していった様子が伺えます。  その前年、1939年(昭和14年)1月18日、当時の内閣は、「宗教団体法」という法律の法案を国会に提出しました。全部で37条からなる簡単な法案で、神道、仏教、キリスト教、その他の宗教団体と結社の統制を目的とし、教団の設立は、文部大臣の認可を必要とする(第3条)、その宗教行為が安寧秩序を妨げ、または臣民たる義務に背く時には、認可を取り消されると定められていました(第16条)。しかし、神社はこの法律の適用外にあり、神社参拝を拒む者は取り締まるとの説明もなされました。この「宗教団体の国家統制を図るための法律」「宗教団体法」が成立し、4月8日付けで、公布されました。  この法律に基づいて、文部省の指導によって、キリスト教は、旧教(カトリック教会)と、新教(プロテスタント教会)の2つに合同あるいは合併し、統一せよと命じられました。  それまであった、日本基督教会、メソジスト教会、組合派教会、バプテスト教会、長老派教会、福音ルーテル教会、ホーリネス教会、ペンテコステ教会などのカトリック以外の教会は、「日本基督教団」として合同し、一本化するよう求められたのです。  さらに、日本聖公会教務院会議は、1940年(昭和15年)8月20日、日本聖公会の即時、自給断行を決議しました。それまでは、日本聖公会教務院、各教区(地方部)、各教会、学校、施設は、宣教師を通して、アメリカやイギリスから与えられるお金で運営されていました。「教務院会議を開き、その結果、日本聖公会は、即時、自給断行を決定せり。唯、聖公会の為に画期的なる事件にして、死活の問題なれば、此の事業の成功を祈るのみ。」戦時色が増す社会情勢を受けて、日本聖公会のいわゆる「英米依存」を精算しなけれならなくなりました。さらに若い牧師の多くは出征、志願、徴用され、教会を守るのは、老牧師と牧師夫人や婦人伝道師だけでした。  また、アメリカやイギリス、カナダから日本に来て、働いておられた宣教師(主教、司祭、信徒、婦人伝道師等)は、強制的に帰国させられました。1941年(昭和16年)12月8日、米英に対し、宣戦布告され、太平洋戦争が始まったのですが、私たち聖光教会の創立者、ヘレン・スカイルス先生も、その年5ヶ月前まで、日本におられ、7月7日、アメリカへ帰国されました。  なお、1943年(昭和18年)には、日本聖公会は、独自の宗教団体設立を望み、イギリス国教会との関係や、主教制度を守るため、「日本聖公会教団」を設立するために努力していました。教団設立のための総会まで開催しましたが、政府からそれは認められませんでした。日本基督教団に合同するか、それはできないとする教会は、政府によって宗教団体と認められない「教団に属せざる教会」「単立教会」であり続けるか、各教区、各教会にその判断がゆだねられることになったのです。その間に、日本聖公会の教会は、教団に合同するべきか、単立教会となっても聖公会の伝統、信条を守り通すかということで、大きく分裂することになりました。聖公会全体で、合同した教会78、非合同の教会155、合同した主管者61名、非合同の主管者120名という数字が残っています。大阪教区は全教会、全主管者が合同の手続きをし、東京教区ではちょうど半数の教会が合同に走りました。京都教区では12の教会が合同し、26の教会が非合同でした。  問題は、この合同派、非合同派の間で、誹謗中傷し合う結果となったことでした。怪文書が飛び交い、それぞれが会合を開いて声明書を出し、最後には主教をスパイ容疑で犯罪人として訴え、主教(佐々木鎮次、須貝止務)を初め、司祭も半年、1年と拘留されるような事件が次々と起こりました。 1943年(昭和18年)2月、最終教務院会議が開催され、56年続いた日本聖公会の組織解消を決議しました。  1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎え、治安維持法や宗教団体法が廃止されました。  その年の12月13日、立教大学において日本聖公会第21臨時総会が開催され、佐々木鎮次主教が議長となり、日本聖公会教務院の再組織と法憲法規への復帰が決議されました。  この臨時総会の冒頭に発せられた議長告示の中で、合同問題で負った混乱について反省し、今後の教会復興の推進について語られました。  私は、毎年、8月15日に、この文書を読み、私たちの教会のあるべき姿、私自身の信仰者としてあるべきを姿を戒めることにしています。その一部を読みます。(文語調の文章であるため、聞きやすい言葉に翻訳しました。)   「合同問題が、私たちの国に起った原因は、宗教団体法が公布され、教団となる資格が難しく規定され、小さな教派が教団の資格を得ることが困難となったことにあります。大教派には、教団として認可するという行政側の意向にもとづいて、私たちも「日本聖公会」を一教団として認可を受けられるよう努力してきました。しかし、満州事件、支那事変と発展してゆき、国内の体制は「一億国民の總力結集」の一(いっ)途(と)に進められ、教会も、思想的な統一の対象として、合同を要請されることになりました。  当時の合同問題をふり返ってみますと、宗教団体法によって触発され、戦時体制の整備によって、推し進められてきたというのが実状です。これに対する私たち聖公会の態度は、このような事情が原因とは言え、終始一貫して、単独の教団として認可を受けることに努力してきました。しかし、昭和17年3月、一教団として認可をされず、将来においても教団として認可されることは期待できないことが分かり、戦時体制に協力することが国の政策に応えることだという声が盛んになり、不幸にして大阪教区が、その音頭をとり、合同運動は、全国の聖公会を混乱の渦の中に陥れることになりました。私は、当時の状勢を思い起こして、合同することによって国策に順応し得ると考へたことに、国民として無理からぬ点があったことを認めるのにやぶさかならぬものであります。しかし、聖公会の綱憲に規定されているものを棄てて、これに従おうとすることは、国の基礎を培養しようとするキリスト教を樹立することになるとは、決して思えませんでした。果てしなく続く国の基礎を育て、産み出していこうとすれば、果てしなく続く、神が建てたもう教会によってのみ、可能となるのです。この点について、合同する者と合同せざる者との間に、意見の違いを見るにいたりました。その原因は何であったのか、その根本をよく考え、深く反省して、将来の日本聖公会の中に、キリストを知る「知識の香」を漂わせ、充たすべきであらうと思います。  反省すべき點として、指摘申し上げたいことは、  第1に、国家と教会との関係について、明確な信仰的見識を持っていなかったことにあったと思います。とくに全体的国家観が、勢いづき力を増しつつある時代において、多くの教会人が、時の流れに押し流され、教会が聖霊の世界に生きる、その主位性をどのようにして、固く保ち得るのかということを忘れ去ってしまっていた点に、大きな誤りがあったと思います。  第2は、主教制を単なる組織の一つと見て、その存続が教会の生命の伝統を保持し、教会が与えようとする、聖奠(サクラメント)の基礎であるとする重要性を、明確に把握していなかった誤りにあったと思います。また、教会生活の実踐においては、主教を、「師父」として仰ぐ、実生活が微弱であったから、主教の聖別による聖職を教会の父として尊敬し、その裁決に服する気持ちも弱かったことも、見逃すことが出来ません。  第3は、合同運動が激しく勢いづいてくると、教会人として、日頃は、夢想だにしなかった「信義」を欠く行動が、表面化したことであります。使徒言行録の教会において、アナニヤとサッピラは、信義を欠いた罪によって死の刑罰を受けています(使徒言行録5:1-11)。牧師が信仰の主張のために、合同することに賛成しなかったために、その生活を脅かされるというようなことが、教会内から起ったことや、主教を訴えて犯罪者にしようとする言動は、合同するかしないかを、世に問う手始めにはなりません。これは、教会自体の生命の低調を世に暴露した以外の何ものでもありません。私は、このような教会生活が日本聖公会創立50年記念を迎えた教会から発生したことを、心にしっかり明記して、教会生活の向上を祈らなければならないことを痛感するものであります。終戦に前後して開催された主教会は、10月18日、声明書を発表して、再出発の日本聖公会は、法憲法規に復歸すべきこと、並びに合同問題によって分離した諸聖職・諸教会は、聖公会の一体なる原理に基づいて復帰するように勧め、さらに手続きとして「復帰式文」を制定し、之によってて聖なる交わりを回復すべきことを定めました。‥‥‥  空襲の被害は目に見える建物の破壊でありました。しかし、合同問題による被害の中には、顧慮反省すべき、あるものを暴露したものではないかと思います。‥‥‥」  終戦直後の日本聖公会の臨時総会において、総会議長佐々木鎮次主教が述べた告辞の一部を朗読しました。  今日の福音書で、イエスさまは、言われました。 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:49-51) キリストの名によって立てられ、キリストの名によって集められ、キリストの名によって教えられ、キリストの体である教会に火が投げ込まれました。時代の流れ、ご時勢、戦局など、その時代のいろいろな出来事を通して、私たちの群れに、火が投げ込まれます。  今日の社会と教会の関係を見ても、大きな落とし穴や危険な場面に遭遇することが予想されます。聖公会の合同問題は、今日の私たちの教会に多くの問題を投げかけます。  佐々木鎮次主教の言葉をもう一度繰り返します。  第1に、国家と教会との関係について、明確な信仰的見識を持っていなかったこと。時の流れに押し流されてしまい、教会には聖霊が働き、私たちは、聖霊の世界に生きていることを忘れてはなりません。  第2に、聖公会の教会として、主教制を単なる組織の一つと見て、その存続が教会の生命の伝統を保持し、教会が与えようとする、聖奠(サクラメント)の基礎であるとする重要性を、明確に把握していなかったという誤りがありました。私たちはこれをどのように受け取っているでしょうか。  第3は、合同運動が激しく勢いづいてくると、教会人として、日頃は、夢々想像だにしなかった信義、信頼を欠くような言動、言葉や、行動が表面に現れるということです。  明日は、終戦71年を記念します。教会の歴史の中から、私たちのあるべき姿を学びたいと思います。     〔2016年8月14日 聖霊降臨後第13主日(C-15) 聖光教会〕