狭い戸口から入れ
2016年08月20日
ルカによる福音書13章22節〜30節
イエスさまは、町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた、その途中での出来事です。
ある人がイエスさまに質問しました。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」
「救われる者」とは、どういう意味でしょうか。「救い」とはどういうことを言っているのでしょうか。
私たちの一般的な会話でも、よく使われます。「死にかかっていたけれども救われた」とか、精神的な重い問題を抱えていて、それから解放された時、「救われた」と言います。
自分の願いや欲望がかなえられることが、救われるということでしょうか。
私の父は、毎朝、起きると、歯を磨いて顔を洗うと、タオルを肩に掛けて、庭に出て、東西南北、四方八方に向かって、かしわ手を打ち、祈っていました。幼少の私は、父に訊いたことがあります。「お父ちゃんは、毎朝、何をしているの?」と。すると、父は、四方八方に神さまがいて、そのすべての神さまに、家内安全、商売繁盛、あらゆることを祈っているのだと答えたのを覚えています。
小さいながらに「ふーん」と言って、そんなものだと思っていたのですが、今から考えると、家には仏壇があり、神棚があり、そして、八(や)百(お)万(よろず)の神々に祈っている、私は、典型的な日本人の宗教的環境の中で育っていたのだと思います。
そのようなかたちで、何かの時には、かなわぬ時の神だのみで、よくわからないけれども、宗教的な「救い」を求め、何か目に見えない力にすがっていたように思います。
それでは、聖書が、私たちに示している「救い」とは、どのようなものなのでしょうか。日本語で、同じ「神」「神さま」という言葉を使っていますが、まったく違った神との関係、八百万の神々ではなく、唯一の神、ただ一人の神さまとの関係があって、そこに「救い」を求めています。
聖書の中では、「解放される」とか、「勝利する」とか、「買い戻される」とか、いろいろな言葉で置き換えられて、神さまによる救いが表わされています。
とくに、旧約聖書では、救いは、神さまがなさること、神さまが、人間との約束、契約を守ってくださることだと考えています。
どの宗教においても、究極の目的は「救い」ということだと言われています。すべての人間が「救い」を求めていることは確かですが、その求め方の内容や、方法は違います。
人間には、毎日のように、さまざまな苦悩が襲いかかってきます。愛そうと思っても愛せない、愛されたいと思っても愛してもらえない、人と人とが傷つけ合い、戦争も耐えません。自然災害や自然環境の問題、お金の問題、病気や死の問題にいたるまで、恐れや、不安を感じ、焦りを感じ、心が安まることがありません。どうしたら救われるでしょうか。
ほんとうの魂の平安は、平和は、どうしたら得られるのでしょうか。人は、どうしたら「ほんとうの幸せ」を保つことができるのでしょうか。これこそ「救い」の問題です。
救われたいと思う人はみな救われるのですか。救われない人もいるのですか。どんな人が救われるのですか。それは難しい問題だということはわかります。
イエスさまに、質問をしたユダヤ人は、「救われる者は少ないのでしょうか。」と尋ねました。
イエスさまは、そこに居た人たちに言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
救いにいたる道は狭い。その入口も狭い。誰でも入れるものではない。入ろうとしても、入れない人が多いのだと言われました。
イエスさまの時代のその当時のユダヤ人の考え方には、一つの大きな特徴がありました。それは、ユダヤ人、ユダヤ民族が持っていた、選民意識です。エリート意識です。
イスラエルという小さな国のこの民は、「わたしの仕えているイスラエルの神は、生きておられる」(列王記上17:1)という言葉を合言葉に、自分たちは、アブラハムの子孫である、神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、彼らを通して契約を結び、さらに預言者モーセを通して、エジプトを脱出させ、シナイ山で神の掟、律法を与えられた。旧約聖書は、このような神と民との出会いの物語を展開してきました。
そこから、2千年、3千年の歴史の中で、ユダヤ人の偏ったエリート意識がさらに強まり、われわれは、神さまによって選ばれた民であると自認し、そのことを誇っていました。
自分たちは、イスラエル民族、ユダヤ人であるから、救いと繁栄を約束されている民族であるから、救われて当然であるとし、それ以外の民族、異邦人、異教徒は、当然、滅びゆく人々であると断定し、他の民族の人たちを差別し、自分たちの生まれを誇っていました。
このように、イエスさまの時代のユダヤ人、後期ユダヤ教の考え方は、ひたすらそのことを誇り、高慢になっていました。そのような時代に、ユダヤ人の一人が、イエスさまに、勝ち誇ったように、当然だと言わんばかりに、尋ねたのです。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。
すると、イエスさまは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」と言われました。
「そのとき、あなたがたは、『御一緒に、食べたり、飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で、お教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし、主人は、『お前たちがどこの誰か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」
ここで、イエスさまは、「救いにいたる戸口は狭い」「入ろうとしても入れない人が多い」と言って、救われる者の条件を「戸口」にたとえられられました。
マタイによる福音書では、7章13節以下に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」と、同じように、「狭い門から入れ」と語られています。
ここに、救われる者の条件が示されています。
それは、ユダヤ人だ、アブラハムの子孫だ、何百年も昔、救われることを約束していただいた者の子孫だという言い訳けは通用しないということです。ユダヤ人だ、イスラエル民族だという選民意識、エリート意識だけでは、狭い戸口、狭い門は通れない。いや、その戸は、門は閉ざされてしまう、救われる者とはなりえないと言われるのです。
現在、ブラジルのリオデジャネイロで、オリンピックが開催されています。テレビでも新聞でも連日、オリンピックのニュースばかりですし、多分、世界中の何十億人という人々が、熱狂的な応援の声をあげています。メダルをかざしながら、表彰台に立ち、喜びいっぱいの優勝者を見ながら、今日の福音書のイエスの言葉を思いました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
この表彰台をめざし、その栄光を受けるために、世界中の選手が必死になって努力します。どの選手もみな、苦しい訓練を積み重ね、その目標に向かって、自分の限界に挑戦しています。しかし、あの表彰台に上がれる人は、多くはありません。表彰台に上がることができなかった選手が、それぞれの背後に数えきれないほどいます。
そして、どの選手もみな、勝った選手も、負けた選手も「最後は、自分自身との闘いでした」と言っていました。スポーツ選手が争うのは、何分の1秒とか点数とかで、数字で表すことができものです。
しかし、「救い」の問題は、数字や点数で表すことはできません。コリントの信徒への手紙一 9章24節〜27節にパウロはこのように言っています。
「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」
また、パウロは、フィリピの信徒への手紙に次のようにも言っています。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13,14)
聖書の中にも、こにようにマラソンのような競技と信仰の問題を比較しているところがいくつかあります。
私たちが節制し、目標とするところ、めざすところは「信仰」です。神さまへの絶対の信頼、イエス・キリストへの信頼です。何があっても揺るぐことのない信頼が、私たちの救いへの道であり、入口なのです。そこをめざす人は多い、しかし、その道を通り、そこに行き着く人は多くはありませんい。
スポーツ選手が言うように、信仰生活も最後は「自分自身との闘い」だと言うことができます。それは、自分自身の傲慢との闘いであり、どれほど強く求めるかにかかっています。
始めて教会に来て、まだ洗礼を受けていない人を「求道者」と呼んでいます。求道者は、緊張し、初めて見たり聞いたりすることに敏感に反応し、感激や感動を受けます。しかし、教会生活や人間関係に慣れてくると、「わかった、わかった」と聞き流してしまい、自分の心で、しっかり受け止めることができなくなったりします。
今日の福音書の言葉は、当時のユダヤ人に語られた言葉ですが、同時に、今日の私たちに向かって語られた言葉です。
私たちは、洗礼を受けました。堅信式も受けました。クリスチャンとして、生活しています。しかし、長年のクリスチャン生活の中で、毎日の生活がマンネリ化し、惰性でクリスチャンのような生き方を続けているだけということはないでしょうか。かつてのユダヤ人のように、エリート意識だけで、選ばれた者という意識だけで、救われて当然だと思い込んでいることはないでしょうか。
真剣に「救われているか」「救われたいと願っているか」、ほんとうの信仰の確信を持って生きているか、ふり返ってみなければなりません。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
〔2016年8月21日 聖霊降臨後第14主日(C-16) 聖光教会〕