失ったものが帰ってくる喜び

2016年09月11日
ルカによる福音書15章1〜10節  ルカによる福音書15章には、イエスさまが話された3つのたとえ話が記されています。  1つ目は、「見失った羊のたとえ」、99匹の羊と迷子になった1匹の羊のたとえです。(15:1-7)  2つ目は、「無くなった銀貨のたとえ」です。(15:8-10)  そして、今日の福音書では読まれていませんが、3つ目は、「放蕩息子のたとえ」(15:11-32)です。  この3つのたとえには、共通のテーマがあります。  それは、どれも「失われたものが見つかった喜び」ということです。神さまは、失われた人、言いかえれば、 罪人を見つけ出して救うのに、どれほど心をつかわれるか、そして見つかった時には、どれほど大きな喜びを持って、迎えて下さるかという、神さまと私たちの関係を表しています。  見失った羊のたとえは、100匹の羊のうちの1匹、100分の1を失った話です。なくなった銀貨のたとえは、 10枚のうち1枚をなくした話で、10分の1を失った話です。そして、放蕩息子のたとえは、兄と弟、2人の内の1人、2分の1を失ったたとえです。そのいずれに対しても、  「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(7節)  「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10節) さらに、放蕩息子のたとえでは、父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(24節)  この3つのたとえは、「一人の罪人が悔い改めれば」神さまは、どれほど喜ばれることかという結論で語られています。  では、イエスさまは、このようなたとえ話を、誰に向かって語られたのでしょうか。  それは、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして、イエスさまに近寄って来た時でした。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。  これに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって、イエスさまは、このたとえを話されたのです。  当時のファリサイ派の人たちや律法学者たちは、異邦人や徴税人、娼婦、律法を守れない人たちに、「罪人」というレッテルを貼り、差別していました。この罪人とは、一切交際しない、口もきかない、食事を共にするなんてとんでもないと思っていました。その罪人たちと言われている人たちが、イエスさまの話を聞こうとして、集まり、食事まで一緒にしていたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、とんでもないことだと不平を言いました。その様子を見てイエスさまが語られたたとえ話なのです。  神さまの律法を守れない、神さまを信じない、神さまに背くような生活をしている、そのような人は「罪人」です。  神さまのもとから迷い出た人たち、神さまを見失っている人たち、神さまに反抗して、飛び出してしまった人たちです。神さまから見れば、「失われた人々」です。  それが、今、帰ってきたのです。見つけ出されたのです。そして、それを探し出した人、見つけ出した人とは、神さまご自身です。その神さまが、帰ってきた人、見つけ出された人たちを大きな喜びをもって迎えてくださるということです。  イエスさまは、神さまと、私たちとの関係は、そのようなものだと言われます。神さまに反抗し、自分勝手にふらふらと迷い出し、神さまのもとから、いなくなってしまった者、すなわち罪人が、神さまのもとに帰ってきた、見つかった、その時には、背いて出て行ったにもかかわらず、神さまは大きな喜びをもって迎えてくださるという神さまの愛がここに語られています。  私は、この年になって、最近、物忘れ、置き忘れが多く、困っています。一日、24時間の内、何時間ぐらい「忘れ物探し」に費やしているのだろうと思うぐらいです。その話を、同年配の方々に話すと、私も、私もと、同調してくれます。眼鏡、携帯、手帳、財布、鍵など、日常のモノを、毎日、置き忘れて探しています。そして、一生懸命、探しまわって、見つけ出した時には、「あった、あった」と言って、跳び上がって喜びます。イエスさまが語られる「探し出した者」の気持ちがよくわかります。その気持ちがよくわかると共に、イエスさまは、このようなたとえを語られるということは、イエスさまも、毎日の生活の中で、何かをなくしたとか、なくしたものを見つけた時の喜びというものを、体験しておられたのか、知っておられたのかも知れません。そうとすれば、非常に親近感を感じます。  このたとえで語られている教えは、なくしたもの、失ったものが、見つけ出された時、見つけ出した者の喜びが語られています。  神さまから見て、私たちは、神さまのもとから迷い出した羊の一匹であり、神さまの手もとから転がりおちた一枚の銀貨です。  では、神さまに見つけ出していただく、神さまに喜んでいただくとは、どういうことでしょうか。  はたして、このたとえは、私たちに当てはまるのでしょうか。教会生活をしていて、正しいことをしているから、私たちには、あまり関係がないと言えるのでしょうか。  神さまは、私たち人間にとって、最も大切なものとして、自分で選ぶことができる「自由」を与えて下さいました。それぞれが置かれた状態で条件は違いますが、自分で物事を判断し、取捨選択ができる「自由」です。  私たちが、生きるということは、毎日、生活をしている中で、いつも何かを選び、何かを捨てて生きています。たえずその決断しています。朝、目が覚めて、起きるか起きないか、何を食べるか、何を着るか、教会に行くか行かないか等々、選択の連続です。与えられただいじな自由を使って、私たちは生きています。  そして、その結果、何が正しいのか正しくないのか、善いのか善くないのか、なすべきか、なすべきでないのか、頭ではわかっていながら、その逆のことを選んでしまっていることも多くあります。  神さまとの関係で言いますと、誘惑に負け、神さまの意志に背く、神さまに背を向け、神さまに反抗するような思いを持ち、行為を選んでしまいます。その結果、神さま以外のものを神としてしまったり、神さまを無視して生きようとしてしまいます。そんなことを、私たちは、毎日を繰り返しています。  私たち一人ひとりは、頭ではわかっていても、誘惑に負けて、食べてはならない木の実を食べてしまったアダムであり、エバです。迷いだした羊であり、無くなった銀貨です。また、父のもとを飛び出した放蕩息子なのです。  そのような、神さまから与えられている大切な「自由」を使った結果、迷い出した私を、何かにはばまれて先が見えなくなった私たちを、勝手なことを言って、好き放題なことをして、飛び出してしまっている私たちを、神さまは、探しだし、見つけだし、ある時は、じーっと辛抱強く我慢して、待っていてくださいます。  そして、見つけ出された時には、神さまのもとに帰って来たときには、大喜びをして、喜んでくださるというのです。抱き留めてくださいます。神の喜びが、神のゆるしが、神の愛が、ここに語られています。  私たちに、いつも、神さまが歩いて来られる足音を聞いて隠れたアダムとエバのように、神さまから「どこのいるのか」、「どこのいるのか」、「それでよいのか」「どんな生き方をしているのか」と、問われ続けます。神さまの意志に背いているときは、神さまがこわくて、神さまの顔を見たくありません。思い出したくもありません。しかし、私たちがどこに隠れていても、どんなに隠れようとしても、神は「どこにいるのか」、「何をしているのか」、「それでよいのか」と、しつこく尋ね続けてこられます。  そのように、神さまを見失い続けている私たちに、背き続ける私たちに、そのような私たちのために、神さまは、ひとり子を遣わして、もう一度、帰って来い、「わたしのもとに、帰って来なさい」と、招き、そして、待っていてくださっているのです。  ファリサイ派、律法学者たちが、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いました。  ファリサイ派、律法学者とは、自分たちは、よく律法を守っている、自分たちこそ正しいと、神さまの側にいると言い張っているいる人たちです。イエスさまのたとえでいいますと、100匹の羊のうちの99匹の羊、10枚の銀貨の中の9枚の銀貨、2人の兄弟のうちの兄の方の立場にいます。  私たちは今、99匹の羊の側にいますか。それとも、私たちは迷っていないから、9枚の銀貨の方にいて、ちゃんと財布に納まっているから、大丈夫と思っていますか。  それは、ファリサイ派の人たちや律法学者の立場にいて、おさまり返っている姿です。それとも、罪人と言われる人たちの立場で、イエスさまの声を聞き、教えを聞こうとしている立場に立っているでしょうか。  このたとえ話の中心は、「大きな喜びが天にある。」「神の天使たちの間に喜びがある。」「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と言って祝宴を始めた。」というところにあります。  それは、帰ってきた私たちを迎えてくださる神さまの喜びです。私たちは、神さまに喜んでいただけるように、神さまとの関係を、もう一度ふり返ってみたいと思います。     〔2016年9月11日  聖霊降臨後第17主日(C-19)  聖光教会〕