金持ちとラザロ
2016年09月25日
ルカによる福音書16章19節〜31節
1 イエスのたとえ話
イエスさまは、たびたび、たとえ話を用いて、物語を語って、集まった人々や弟子たちに、神さまと、私たちとの関係について、教えられました。
イエスさまの話を聞いていた人たちは、弟子たちだけではなく、ユダヤ人の中でもファリサイ派や律法学者もいれば、大金持ちでお金に執着している人も、貧しい人も、いろいろな人がいました。
とくに、金に執着しているファリサイ派の人たちは、イエスさまがなさった「失われた一匹の羊のたとえ」や「1枚の銀貨を無くした女のたとえ」「放蕩息子のたとえ」そして、「不正な管理人のたとえ」などの「たとえ話」などを、一部始終聞いていて、イエスさまのことをあざ笑いました。(ルカ16:14)
イエスさまは、この金に執着しているファリサイ派の人たち人たちに向かって、
「あなたたちは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われて、そして、さらに、次のような、長いたとえ話、物語を話されました。それが、今読みました福音書の個所です。
「あるところに大金持ちがいました。立派な屋敷に住んでいて、いつも紫色に染めた衣や柔らかい麻布(あまぬの)の服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。「紫の衣」というのは、その当時の王侯貴族が着ていた特別の衣服でした。紫の染料はアッキガイという貝からとられ、少ししかとれないところから、非常に高価なものだったと言われています。それほどお金持ちだったということがわかります。彼らは、いかにぜいたく三昧の毎日を過ごしていたかがわかります。
一方、この金持ちの家の門の前に、ラザロという貧しい人がいました。ラザロは、物乞い、乞食をしていました。体中にできものができて、横たわっていました。病気のために働くこともできません。「金持ちの家族が食べる食卓から落ちるものででも腹を満たしたいものだと思っていた」とあります。空腹のため、恥も外聞もない、「犬がやって来ては、このラザロのできものをなめた。」それを追い払うこともできません。貧しさのあまり、人間として、プライドも誇りも持てない人でした。誰からも見捨てられ、さげすまれ続けて、かろうじて生きているという人でした。
ここに、金持ちとラザロの生きざま、貧富の差による違いが対比されています。
間もなく、ラザロは死にました。そして、贅沢な暮らしをしていた金持ちも死にました。金持ちも貧乏人も、人は、かならず死にます。多分、ラザロは、野良犬のように誰からも看取られることなく死にました。一方、金持ちは、大勢の人が集まり、立派なお葬式をして、丁重に葬られたことでしょう。
さて、イエスさまのたとえ話、お話は続きます。
場面は、金持ちとラザロが死んだ後の世界に移ります。
ラザロは、天使に導かれて、天国に行き、天国の宴会の席に招かれたというのです。そして、ユダヤ民族の父、族長と呼ばれるアブラハムが座っている席の、一番近い席にいました。
一方、金持ちの方は、陰府の国(地獄)に落ちていました。彼は、炎の中でもだえ苦しんでいました。灼熱地獄の中で、苦しみもだえていました。その中で、ひょっと目を上げてをあげ見ると、はるか上の方に天国が見えます。
その天国で開かれている宴会の席に、あのラザロが座っているのが見えました。それもアブラハムのいちばん近い所に座って、楽しそうに食べたり飲んだりしているのが見えました。
そこで、この金持ちは大声で言いました。
「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」
金持ちは、生前、自分の家の門の前で、毎日物乞いして、憐れみを乞うていたラザロの姿を見てはいました。お腹を空かして物乞いをしているラザロを見ていたけれども、同情したこともありません。無視して、いや、見えていても見えない存在でした。道ばたの石ころほどにも思っていませんでした。
その金持ちが陰府の国の炎の中で、熱さと渇きの苦しみの中で、金持ちは必死になって憐れみを乞い、叫びました。
しかし、アブラハムは、言いました。
「子よ、思い出してみるがよい。お前は、生きている間に良いもの(良い人生)をもらっていたが、ラザロは反対に悪いもの(悪い人生)をもらって生きた。ラザロは、今ここで慰められている。ところが、お前はもだえ苦しんでいる。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵、溝があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできないのだ」と言いました。
なぜ、ラザロが天国に行って、この金持ちが陰府の国にいて苦しんでいるのかはわかりません。イエスさまのこのたとえ話には、説明がありません。ラザロが特別に善いことをしたわけでもありませんし、特別に信仰深い人だったとも記されていません。
それでは、金持ちは、死んだらみんな陰府の国に落とされるのでしょうか。
思い出す聖書の個所があります。ルカ福音書6章20節以下にこのように記されています。
「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 今、飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
さらに、今日の使徒書の終わりの部分、テモテへの第一の手紙 6章17節〜19節、パウロが、テモテに当てて書いた手紙です。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちに、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる、神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」このように記されています。
イエスさまのたとえに出てくる金持ちは、金持ちであるというだけで高慢になり、金、財産の力に望みを置き、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神さまに望みを置かなかった。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、困っている人に喜んで分け与えるようなこともしなかった。まことの命を得るために、未来のことを考えて、自分のためにしっかりとした人生を築くように、神さまに望みを置くこともしなかった。パウロが言う富んでいる者への忠告が、この金持ちに当てはまります。その結果が、灼熱地獄でもだえ苦しむことになると言われるのです。
2 このたとえ話のテーマ
イエスさまのお話は、まだ続きます。
金持ちは言いました。「父よ、アブラハムよ、ではお願いします。わたしの父親の家に、ラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」
自分の兄弟たちが、今でも、たくさんの財産があるゆえに、何も気づかないで、同じ暮らしをしています。食べて飲んで、歌って踊って、贅沢三昧をしています。まだ何も気づいていないのです。
彼らに、その結果を知らせるために、どうぞ、そこに座っているラザロを私の兄弟の所へ使いにやって、大変な間違いをしていると言いにやって下さいと、金持ちは言いました。
しかし、アブラハムは言いました。
『お前の兄弟たちには、モーセと預言者がいる。律法が与えられ、大勢の預言者が与えらている。彼らに耳を傾けるがよい。』
彼らの所には、神さまは、モーセや預言者たちを遣わし、これでもか、これでもかと、そのことを伝えにやっている。今も、その気になれば、耳を傾けることができる。しかし、誰もそれを聴こうとしないと、アブラハムは言います。
それを聞いて、金持ちは言いました。
「いいえ、父アブラハムよ、それだけでは、彼らは分からないのです。気づかないのです。しかし、もし、死んだ者の中から、誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」
アブラハムは言いました。
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ、死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
3 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」
このたとえ話のテーマは、誰が天国に行くか、地獄に堕ちるのかというようなことではありません。
金持ちは、かならず陰府の国に落とされ、貧乏人は必ず天国へ行く、というようなことを言っているのでもありません。
天国とはどんな所か、地獄や陰府の世界とはどんなところかということを問題にしているのでもありません。
イエスさまの話を聞いて、イエスさまをあざ笑っているファリサイ派や律法学者たちの、今のあり方、生き方が問われているのです。そして、同時に、今生きている私たちの問題が語られているのです。
モーセが現れ、次々と、エリヤ、エレミヤ、イザヤなど、預言者たちが遣わされ、律法が与えられ、預言者たちが語り、教え、導こうとしました。これほど、神さまは、彼らの口を通して、行動を通して、神さまは、御心を現しておられるのに、ほんとうに真剣に聴こうとしない。耳を傾けようとしていない。悟ろうともしない。
それでもまだ、奇跡を起こしてくれ、そうすれば信じようなどと、冷やかし、あざ笑っています。
ファリサイ派の人々は、神の律法を守っているから、自分たちは正しいのだと思っています。自分たちほど熱心な者はいない、神のことは何でも知っていると思っています。しかし、神さまは、彼らの心の中を見通しておられます。
「あなたたちは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心の中をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と。
たとえの中では、アブラハムは、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。
しかし、たとえ話の物語の中ではなく、実際に、現実の、歴史上のこの世界に、神さまは、死者の中からそのひとり子をよみがえらせ、そのことを報せるために、お遣わしになりました。
神さまは、ご自分のひとり子を、死んでよみがえらせ、神さまのみ心を知らせて下さいました。
神さまは、ひとり子の命を与えて、神さまの愛を知らせて下さいました。
神さまは、私たちが神と共にいること、神さまの愛を知り、人を愛せよ、神のみ心に従え、今も、離れている者は帰って来いと、私たちを招き続けておられます。その恵みを与え続けておられます。
私たちは、このたとえ話の金持ちにように、物質文明の中にあって、目に見える物、数字で表されるもの、おもしろ、おかしいものに心を奪われ、お金や財産にだけ、望みを置いているようなことはないでしょうか。
まことの命を得るために、未来のことを考えて、自分のためにしっかりとした人生を築くように、神さまに望みを置くことをしているでしょうか。
しかし、聞いていても、聞こえていない。耳に聞こえていても、心に響いていない。見ていても見えていない。目に映っていても心で見ていない、そのような生活を送ってることはないでしょうか。
〔2016年9月25日 聖霊降臨後19主日(C-21) 聖光教会〕