主 人 と し も べ
2016年10月02日
ルカによる福音書17章7節〜10節
聖書の中に、または祈祷書のお祈りの中の言葉に、「主」という言葉、「しもべ」という言葉がよく出てきます。
「主」というのは、神さまのことであり、イエスさまのことだということは、私たちはよく知っています。そして、この主である神さま、イエスさまに対して、私たちは「しもべ」なのです。
この言葉の意味を、ほんとうに知るためには、イエスさまの時代の奴隷制度について知らなければなりません。
私たちは、奴隷制度というものは、映画や小説の中で知るぐらいで、今の世では考えられないことですが、イエスさまの時代のには、奴隷は、重要な労働力であり、市民生活は、この奴隷によって支えられていたと言っても過言ではありません。
奴隷は、人間でありながら、人間として扱われない、道具や機械のように、こき使われ、奴隷の子は奴隷、そして売買され、生かすも殺すも所有者次第という身分制度でした。
聖書では、そのような身分制度、身分関係に立って、「主」であるとか、「しもべ」であるという言葉を使っています。
神さまと、私たちの関係は、神さまが主であり、ご主人さまです。これに対して、私たちはしもべであり、主である神さまに服従する立場にあります。
神さまと私たちの関係は、そのような関係なのだというのです。私たちは、奴隷制度という身分制度がない時代に生きています。
イエスさまの時代では、現実社会のなまなましい出来事であり、説明しなくても、よく分かる関係だったと思います。
そのような、ご主人と奴隷の関係を表す言葉を使って、神さまと私たちの関係を表しているのです。
さて、今日の福音書ですが、ルカ17章7節以下で、イエスさまは、一つのたとえをもって、神さまと私たちの関係について、改めて問われます。
イエスさまは、奴隷制度がいいと肯定しておられるのではありません。その当時の社会生活の中から「たとえ」を取って、その関係を教えておられるのです。
外に出て、畑を耕すとか、羊を飼うかしている僕、きびしい肉体労働をしている奴隷がいたとします。その僕が、一日の労働を終わって、疲れて畑から帰って来ました。すると、ご主人は「やあ、疲れただろう。お腹がすいただろう。さあさあ、手を洗って来て、すぐに食卓に着きなさい」というだろうか。
どんなに疲れて帰ってきても、相手はしもべ、奴隷なのですから、反対に、「早く、わたしのために夕食の用意をしてくれ。服装をちゃんと整えて、わたしが食事を済ませるまで、そこに立っていて給仕しなさい。お前は、私が食べた後で食事をしなさい」と言うだろうと言われました。
しもべは、命じられた仕事をしたからといって、主人は、「よくやった。ありがとう。ありがとう」と、その僕に感謝するだろうか。
だから、あなたがたも同じことだ。神さまとあなたがたとの関係は、神さまがご主人さまで、あなたがたは「しもべ」なのだから、神さまから自分が命じられたことを、みなちゃんと果たしたら、「わたしたちは、取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです」と言いなさいと、教えられます。
旧約聖書のヨブ記22章2節、3節に、このような言葉があります。
「人間が神にとって、有益でありえようか。
賢い人でさえ、有益でありえようか。
あなたが正しいからといって全能者が喜び、
完全な道を歩むからといって、
神の利益になるだろうか」と。
どんなに立派な仕事をしても、どんなに正しいことをしても、完全な道を歩いても、そのことによって、神さまになにか「益」をもたらす、「プラス」になるのではありません。
全能者である神が喜ぶのでもない。神にとっては、当たり前のことをしただけだと言っています。
どれほどよいことをしても、立派に務めをしても、神さまは、ご主人であり、私たち人間は、そのしもべなのだということです。その関係は変わることはありません。
アダムとエバの物語を思い出します。
神は、アダムとエバを、エデンの園に置かれた時、園の中央の木を指して言われました。「園のどの木からも実を取って食べてもよろしい。しかし、この園の中央に生えている木の実だけは、取って食べてはいけません。これを食べると、目が開けて、神のように善悪を知るものとなる」と。
誘惑する者、ヘビがやってきてエバに言います。「いいじゃありませんか。目が開けて、賢くなって、神のようになる。いいじゃありませんか。」と、誘惑します。
神でない者が、神になってはいけない者が「神のようになる」、これほど大きな誘惑はありません。エバが、そして、アダムが、この誘惑にまけて、頭ではわかっていたのですが、手が出て、これを食べてしまったのです。
ここに人間の本質が語られています。
私たちにも、アダムとエバが持っているのと同じのDNAを持っています。その誘惑に晒(さら)され続けているのです。
口では、「主よ、主よ」と言いながら、それが口先だけになってしまっていて、私が神の「僕」であるという関係を忘れしまって、自分が神になっています。自分が、主人になってしまって、無意識のうちに、立場を逆転させてしまっているのです。
神さまとのおつきあいが、長くなればなるほど、言いかえれば信仰生活が長くなればなるほど、神さまとの関係に慣れ親しみすぎて、主人としもべの関係があいまいになってしまいます。
本来、神さまは、きびしい方で、強い方で、すべてのことをご存じの、全知全能の神で、いつも、生きて、働いておられる神さまであることを、私たちは知っています。しかし、いつのまにか、その神さまをないがしろにし、自分のレベルにまで引きずり下ろしてしまっているのです。
主である神を無視し、神を恐れない。神を神としない、そして、いつの間にか自分が神のようになってしまっています。そのことが警告されています。
自分が、自分が、と、毎日の生活の中で、自分のことしか考えない、自分の野心や欲望を満足させることしか考えられない人は、いつの間か、自分が主になり、神になってしまいます。
お金や物に執着している人、寝ても覚めても、自分の得になることばかりを求め続けている人は、お金や物を神にしてしまい、偶像崇拝に陥り、やはり、ほんとうの「主」を離れてしまいます。
神にお祈りやお願いをしていても、いつの間にか、自分の心を神さまに、押しつけているだけになり、「神なら、私のいうことを聞け」と言わんばかりに、神さまに、強制したり、神さまを脅迫するようなことを言って、それがお祈りだと思っています。
どちらが主で、どちらがしもべか、わからなくなっていないでしょうか。どんなお願いをしても、すべて最後には、「あなたのみ心のようになりますように」と祈りたいと思います。
神の国、天国を知るということは、神さまを絶対的な主とし、私たちは、神さまの絶対的な支配を受ける「しもべ」であることを、はっきりさせることです。
その時こそ、神さまの支配が完全に行われます。私たちが、「ご主人さま、ご主人さま」と言って、たとえ疑似的な関係ででも、ママゴトのような関係ででも、瞬間的にでも、自分が「ご主人さま」になって、かしづかれたい、服従されたい、仕えられたい、神さまのように扱われたいと思ってはならないのです。
そして、その誘惑に気づかなければなりません。
神さまは、主と僕、神と私たちとのほんとうの関係を教えるために、そのひとり子をこの世に遣わし、その命を十字架に架けて、神の恵みと愛をお与えになりました。
教会は何のためにあるのでしょうか、教会の目的、教会の使命は、人々の「いやしと救い」にあります。
それは、イエス・キリストが、人々をいやし、ほんとうの救いをお与えになったからです。
教会がその使命を果たすためには、その大前提として、まず、神さまと私たちとの関係が正しくなければなりません。
私たちは、無意識の内に、人を裁いてしまっていることがあります。私たちが人を非難し、人を憎しみ、人を裁いている時、私たちは「神になっている」「神さまのようになっている」ことに気づきます。それは、自分で自分を絶対化しているからです。
私たちに愛が満ちているとき、イエスさまが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れ合うことができたとき、ほんとうに仕えあうことができます。そこに愛があります。
教会の中には、私たち一人一人に、愛が充ちていなければ、教会の使命は果たせません。神さまを知らない人々に神さまを証しすることができません。
私たちは、いつも神さまに感謝し、神の栄光をほめたたえ、生涯、神に奉仕する者でありたいと思います。
そして、「わたしどもは取るに足りない僕です。ただしなければならないことをしただけです」と、ほんとうの主、私たちの主に、申し上げることができる毎日を送りたいと思います。
〔2016年10月2日 聖霊降臨後第20主日(C-22) 於・聖光教会〕