やもめと裁判官

2016年10月17日
ルカによる福音書18章1節〜18節 ご存じように、聖公会の教会では、毎週、日曜日、主日の聖餐式で読まれる聖書の個所は決められています。A年、B年、C年と名づけて、3年間で、聖書の大切は個所を通読することになっています。そして、今年は、C年で、「聖霊降臨後の主日」の間は、主にルカ福音書が読まれます。  ルカによる福音書の特徴として、この福音書には、イエスさまが語られた「たとえ話」が多く取り上げられています。  今日の福音書も、その一つですが、「やもめと裁判官のたとえ」と題がつけられています。  このたとえには、最初に、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と、このたとえが語られようとする目的がはっきり示されていますから、その意味はわかるのですが、それでも、ちょっと何かがひっかかるたとえです。  ある町に、神を畏れず、人を人とも思わないという裁判官がいました。ところが、その町に一人のやもめ、未亡人がいて、裁判官の所に来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言ってきました。その訴えの内容はわかりませんが、たとえば相手に罰を与えるとか、損害賠償金を支払わせるようにとか、具体的に訴えの相手をやっつけて、わたしを守ってくださいという訴えです。  裁判官は、しばらくの間は、やもめの女のことなど、相手にしないで、取り合おうとしませんでした。しかし、このやもめが、しつこく、しつこくやって来て訴えるので、それがたび重なると、うるさくてなって、このように考えました。  「自分は神など畏れないし、人を人とも思わないが、しかし、あのやもめは、うるさくてしようがない。食事をする暇もない、寝るひまもない。わたしの体が持たない。もう限界だ。「さっさと裁判を開いて、彼女が有利になるような、彼女のために、裁判をしてやろう。そうでないと、これからもひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」  少なくとも、現在の私たちの社会において、このような裁判官がいたら、たいへんな問題になります。裁判所において行われる裁判は、提出された証拠や証人の言葉から、状況を調べ、法律や判例に照らして、正義に基づいて判断がなされます。少なくとも私たちは、そのように考えています。  そこに、裁判官の私情、すなわち個人的な感情や思いで判断を下すことがあってはならないはずです。  私は、大学生時代は、法学部の学生でした。法律問題について、よく友だちと議論を交わしていたのですが、正義とは何かという議論の中で、ある裁判官が、自分の家庭内で、夫婦の関係がうまくいっていない、いつも奥さんにがみがみ言われて、夫婦喧嘩が絶えないというような裁判官がいて、その裁判官が、ある夫婦の離婚問題にかかわる裁判を担当することになったとすると、公平な気持ちで、正義に基づいた判決が出せるかと議論したことがあります。  どうしても、夫の方の言い分に共感したり、妻の側の言い分に自分の奥さん顔が重なったりすることがあるのではないか。夫の方に同情したり、訴える奥さんの言い方に反発したりすることはないだろうか、そこで行われる正義とは何かと、学生時代に口角泡を飛ばして議論していたことを、この聖書の個所を読んで、思い出します。  正義の執行人といえども、たてまえと本音の違いというものもあるのではないか、個人的な感情や私情を交えるということもあり得ると思ったことがあります。  イエスさまは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と言われます。裁判官とは、いかにあるべきかはわかっている。この裁判官は、自分の利益のために動く「不正な裁判官」であることを前提にしておられます。  しかし、裁判官といえども、私情を交えることもある。昼も夜もひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。あのやもめは、うるさくてしかたがないから、彼女を黙らせるために、不正な裁判をしてやろうと思った、というのですから自分の都合で心を動かすこともあるということです。  この裁判官は、神を畏れない、人を人とも思わないような人でした。不信仰で傲慢な人です。  しかし、こんな人でも、しつこく、しつこく迫られたら、心が動く。心が動かされるものだということです。  ましてや、神さまは、最終的に私たちを裁く方だ、その方が、私たちを愛してくださっている。  だから、どんな時でも、気を落とさずに、このやもめのように、しつこく、しつこく願い続け、絶えず祈りつづけなさいと教えておられるのではないでしょうか。  このたとえを聞いて、私たちが、ちょっと引っかかるところは、間違ったことをしている、私情を優先させるような、自分の利益を優先させるような「不正な裁判官」と、神さまとが、この「たとえ」の話の中で対比させられているということだと思います。  神さまは、正しい方、不正を見過ごしにされない方です。公正な方、正義そのものです。  しかし、その一方では、私たちを愛して下さる方であり、やもめに代表されるような弱い者、弱い立場の者を憐れんで下さる方です。  イエスさまは、「不正な裁判官でも、心を動かすではないか。それぐらいのことはするではないか。ましてや、それ以上に、神さまは、昼も夜も叫び求めている「選ばれた人たち」のために裁きを行わずに、彼らをいつまでも、ほうっておかれることがあろうか。はっきり言って、神さまは、速やかに裁いてくださる」と言われます。  「選ばれた人たち」という言葉は、アブラハムの子孫であるユダヤ人、やもめを代表として表されるような弱い立場の人、貧しい人、病気に苦しむ人、大きな悩みを持つ人、誰からも顧みられない人、また、洗礼を受けてイエスさまのしもべになった私たち、いろいろな意味にとることができる「神さまによって選ばれた人たち」です。  旧約聖書の詩編の中に、神さまを讃えてこのように歌われています。  詩編10:17-:18     主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け    その願いを聞き、彼らの心を確かにし、    みなしごと虐げられている人のために    裁きをしてくださいます。  さらに、詩編146編6節〜9節には、    天地を造り    海とその中にあるすべてのものを造られた神を。    とこしえに、「まこと」を守られる主は、    虐げられている人のために裁きをし    飢えている人にパンをお与えになる。  主は捕われ人を解き放ち   主は見えない人の目を開き    主はうずくまっている人を起こされる。    主は従う人を愛し、  主は寄留の民を守り、みなしごと、やもめを励まさ    れる。    しかし、主は、逆らう者の道をくつがえされる。    主はとこしえに王。    シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。  イエスさまは言われます。主は、このような神さまなのだから、まことの裁き主である神さまなのだから、あのやもめのように、熱心に絶えることなく願い求めなさい。しつこく、しつこく、朝も、昼も、晩も、わたしが幸せになるために、わたしが有利になるために、裁いてくださいと、願い続けなさいと言われます。  神さまの心を変えさせるほどの勢いで、祈り続けなさい。「気を落とさずに、絶えず祈り続けなさい」と教えておられます。  これに対して、神さまは、昼も夜も叫び求めている人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれるだろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。  しかし、人の子が来るとき、世の終わりが来るとき、人の命が尽き果てる時、その時まで、果たして、地上に、人々の中に、そのような願い求め続けられる信仰を見いだすことができるだろうかと、私たちに問われます。  私たちが、神さまに祈る時、いろいろなお願いを申し立てる時、あのなりふりかまわず、髪を振り乱し、すざましい剣幕、迫力で、裁判官に迫っている婦人、このやもめの姿を思い出してください。私たちは、祈る時、あのやもめほど真剣に神さまに迫っているでしょうか。 イエスさまは、約束してくださっています。  「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と、このように約束してくださっています。           〔2016年10月16日 聖霊降臨後第22主日(C-24) AM 10:30 聖光教会〕