義とされる人
2016年10月23日
ルカによる福音書18章9節〜14節
イエスさまは、「自分は正しい人間だと、うぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、一つのたとえ話をされました。
お祈りするために、2人の人が、神殿にやって来ました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。
ファリサイ派とは、当時のユダヤ教の信徒で、子どもの頃から神さまから与えられたモーセの律法、掟についてよく学び、これを守ることに命をかけている、宗教的な儀式や行事、言い伝えをよく守っている、だから自分たちは正しい、神さまによって救われて当然だと、自負している人たちの一派でした。
その中の一人が、神殿で、立ち上がって、心の中でこのように祈りました。
「神様、わたしは、ほかの人たちのように、人の物を奪い取ったり、姦通を犯したりする者ではありません。毎日正しいことを思い、正しい生活をしています」と。
横を見ると、徴税人がいます。この徴税人とは、取税人とも言います。人々から税金を取り立てることを職業にしている人でした。当時のユダヤ人は、ローマ帝国に支配され、ユダヤ王の支配もきびしく、貧しい人々からも税金が取り立てていました。その手先になって「税金取り立て業」を営む者がいて、人々から嫌われていました。貧しい者から利子を取ってはいけない、税金を取り立ててはいけないという掟に反する仕事をしていましたから、徴税人は「罪人」というレッテルを貼られ、人々から毛嫌いされていました。
祈っていたファリサイ派のユダヤ人は、この徴税人がはるか向こうにいるのを見て、「あの徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈り、さらに「わたしは、週に2度の断食を守り、全収入の10分の1を献金として献げています」と祈りました。』
ところが、この徴税人は、神殿の遠くに立って、目を天に上げようともしないで、胸を打ちながら祈っていました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。罪人のわたしを憐れんでください」と、祈っていました。この言葉の中には、わたしには、良い所は少しもありません。正しいことは何も出来ていません。わたしは「罪人」です。「神さま、このような罪人であるわたしをあわれんでください」という祈りです。
イエスさまは、このような、ファリサイ派の一人の祈りと、徴税人の祈りを例にあげて、この2人の内、どちらの祈りが、神さまに届いているか、どちらが受け入れられていると思うかと問われました。
イエスさまは言われました。「ふたりとも、神殿からそれぞれ家に帰ったのだが、「神さまから義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。」そして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。
この「義とされて」の義という言葉は、聖書が最初に書かれたギリシャ語では「ディカイオー」という動詞からきています。「義と認める、正しいと宣言する、解放する」という意味があります。それは、罪と宣言されるの反対の言葉で、「正しいとされる、無罪とされる」という裁判用語、法廷用語からきています。誰が裁くのか。それは神さまです。このたとえのふたりは、神さまに祈りをささげました。その神さまが、義とされる、正しいとされる、神さまに受け入れられたのは、徴税人の祈りだと、イエスさまは断定されます。
私たちが、神さまを信じて、イエスさまを信じて生きる、信仰生活を保つために、最も大切にしなければならない、ものごとを判断する基準は、私の思いや、人々の思惑ではなく、神さまが、どのように判定されるかという視点だということです。
神さまが、最も嫌われる人間の態度は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」(9節)ではないでしょうか。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と語られるイエスさまのこの言葉を、深く心に刻みたいと思います。
〔2016年10月23日 聖霊降臨後第23主日(C-25) 聖光教会〕