今日、救いがこの家を訪れた。

2016年10月30日
ルカによる福音書19章1節〜10節  今日の福音書には、先主日の福音書にも登場した「徴税人」が出てきます。今日の聖書の個所は、イエスさまのたとえ話ではなく、実際にイエスさまに出会った人物として登場します。  イエスさまが、弟子たちを連れて、エルサレムに向かう途中、エリコという町を通られました。このエリコの町に、ザアカイという人が住んでいて、この人は、徴税人でした。  先週も話しましが、徴税人は、ユダヤ人でしたが、人々から税金を取り立てることを職業としていました。  当時のユダヤには、ヘロデ家の王がいて、ユダヤの国を治めていましたが、この王は、ローマの皇帝に支配されていて、ローマ皇帝から派遣されていたポンテオ・ピラトという総督のもと、ローマの兵隊が常駐し、統治されていました。  そのために税金の取り立てがきびしく、ユダヤ人はそのために苦しみ、たびたび反乱が起こっていました。  そのような時代に、ユダヤ人でありながらユダヤ人から税金を取り立てる役割を果たしていたのが徴税人でした。 彼らの仕事は、請負業で、取り立てた一定の金額をローマの総督や、ユダヤ王に納めた上に、自分たちの利ざやを積み上げて、税金を取り立てていました。従って徴税人は、経済的には裕福でしたが、ユダヤ人仲間の中では、毛嫌いされ、ユダヤ人でありながら、罪人のレッテルを貼られ、ユダヤ社会からは、つねに白い目で見られていました。  この徴税人ザアカイは、「徴税人の頭で、金持ちであった」と記されていますから、エリコの町でも有名な徴税人だったと思われます。  エリコの町の大通りを、イエスさまが弟子たちと歩いて来られると、大勢の人たちが集まり、道の両側に人垣ができました。  そこに、ザアカイが通りかかり、「ナザレのイエスが来た」という人々の声を聞いて、イエスさまのことは、噂に聞いて知っていたのでしょうか、なんとかして、その方をひと目見たいと思って、駆け寄りました。  しかし、このザアカイは、背が低かったので、群衆に遮られて、道路の方が見えません。  なんとかして、イエスさまという方を、ひと目見たいと思ったザアカイは、思いつきました。イエスさまが歩いて行かれる方向に、走って先回りし、「いちじく桑の木」に登りました。すぐそこを、イエスさまが通り過ぎようとしておられましたから、ザアカイは、必死でした。(その姿を想像してみてください。)  イエスさまは、ザアカイが、しがみついている、いちじく桑の木の下を通りかかると、突然立ち止まり、上を見上げて言われました。  「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊めてもらいたい」と、声をかけられたのです。  ザアカイは、びっくりして、木から落ちそうになりました。急いで木から降りて来て、喜んでイエスさまと弟子たちの一行を、自分の家に案内しました。家の召使いを呼び集め、ご馳走を用意させ、イエスさまを歓待しました。 ぞろぞろと、後について来た人々は、イエスさまが、ザアカイの家に入り、食事をし、話し込んでいる様子を見て、つぶやきました。  「あのナザレのイエスという人は、病人を癒やして奇跡を行ったり、神のことを教えたりして、神の人と呼ばれているが、あれは一体何だ。罪深い男、徴税人の家に入って、食事をしたり、泊まったりしているではないか」と言いました。 ところが、食事も終わりかけた時、突然、ザアカイは、その席で立ち上がり、弟子たちや、家の人たちがいる前で、イエスさまに言いました。  「主よ、これから、わたしは、わたしの財産の半分を貧しい人々に施します。また、わたしが、または、わたしの部下が、誰かから、定められた金額以上の税金をだまし取ったり、不当な税金を、むりやり取っていたら、それを4倍にして返します」と言いました。  すると、イエスさまは、  「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と。  そして、「人の子は、失われたものを捜して、救うために来たのだ」と言われました。  このイエスさまとザアカイの話は、日曜学校でもよく話をしますし、よく聞くお話です。このイエスさまとザアカイの出会いの物語は、私たちに、いろいろなことを教え、考えさせられます。  まず、ザアカイは、なぜ、食事の途中で、「主よ、これから、わたしの財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから、なにかだましとっていたら、それを4倍にして返します」というようなことを言ったのでしょうか。  ザアカイは、イエスさまから、いろいろな話を聞いて、心を打たれ、自分のしてきたことを反省して、このように言ったのでしょうか。  または、ザアカイは、ユダヤ人社会で、つまはじきにされて生きてきました。誰からも話かけられない、食事を共にしてくれる人もいない、お金はあるけれども、人々から疎外されて、さびしく生きてきました。しかし、イエスさまは、弟子たちを連れて、家にきてくれました。食事を一緒にしてくれた、友だちになってくれた、その喜びの気持ちから、うれしくなって、このようなことを口走ったのでしょうか。  いろいろことが考えられますが、聖書には、その理由は書かれていません。  ところが、8節の言葉をよく見ると、ザアカイは、立ち上がって、イエスさまに、「主よ」と呼びかけています。  この言葉は、教会において、神さまに対して、または、イエスさまに対して、信仰を告白することばです。ただ単に、「ご主人さま」という意味のほかに、「あなたこそ神、あなたこそ主であり、神さまです」という意味を持っています。  「あなたの背後におられる神を感じます。神の前に懺悔し、罪の償いをします」と、ザアカイは叫んだのではないでしょうか。  これに対して、イエスさまは言われました。  「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と。  神の救いが、この家に来たのだ。旧約聖書の時代に、神さまは、アブラハムの子孫を救うと約束されました。その職業によって、人々から罪人であるとレッテルを貼られ、疎外されていても、アブラハムの子孫、約束されたユダヤの民であることには変わりはありません。  神さまは、昔も、今も、変わりなく約束を守って下さっている。ただ、失われていただけなのだ」と言われます。  そして、イエスさまは、「わたしは、その失われたものを捜し、その人々を救うために、この世に来たのだ」と、言われました。ザアカイは、イエスさまと出会うことによって、救われたのです。イエスさまの心に触れることによって、生き返ったのです。  私たちは、このザアカイさんの物語をよく知っています。  私たちは、洗礼を受けました。神さまが私たちに与えて下さった約束は、今も、そして、私たちの心の状態が、どんな状態にあっても、守ってくださいます。そのために、イエスさまを送り、遣わし、そして、「わたしのもとに、帰ってきなさいと、捜して下さっています。」     〔2016年10月30日  聖霊降臨後第24主日(C-26)   聖光教会〕