めとることも嫁ぐこともない。
2016年11月06日
ルカ福音書20章27節 (28節〜33節) 34節〜38節
私もだんだん歳をとってきまして、「死ぬ」ということについていろいろ考えることが多くなりました。
人は死んだらどうなるのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。
キリスト教では、イエスさまが死んでよみがえられたように、私たちも復活するのだと教えられています。
それでは、復活の信仰を持つということは、どういうことでしょうか。私たちも、ほんとうに復活することが出来るのでしょうか。 また、永遠の命というのはどういうものなのでしょうか。
復活とか永遠の命というものがあるということは、堅く信じていますが、もう一つわかりにくいところがあります。
あるとき、イエスさまが、エルサレムの神殿の境内で、集まった人々に教えておられたとき、祭司たちの集団、サドカイ派の人々が、イエスさまに近寄って来ました。このユダヤ教の中のサドカイ派というのは、日頃から、人が死んで復活することはないと主張している人たちでした。明らかに、イエスさまに議論を吹きかけて試そうとしていることがわかります。彼らは言いました。
「先生、モーセは、律法の書に『ある人の兄が、妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と教えています。(申命記6-10) ところで、7人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がいないまま死にました。次男、三男と、次々にこの女を妻にしましたが、7人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると、人が死んで復活するというのでしたら、復活したその女は、いったいだれの妻になるのでしょうか。7人とも、その女を妻にしたのですが‥‥」と、このように尋ねました。
復活を否定しているこのサドカイ派の人たちは、イエスさまにこのような無理難題を吹きかけてきました。
今読みました今日の福音書の個所(34節以下)は、この問いに対してイエスさまが答えられた言葉です。「この世に住んで生きている人たちは、妻をめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と答えられました。
死後の世界というものは、私たちが、今、住んでいるのと同じような世界が、どこか向こうの方にあるというようなものでははないのだと言われます。ですから、復活したからと言って、今と同じような姿かたちをした人がいて、夫婦や親子や兄弟姉妹や友だち関係や、社会の上下関係のような、人間関係をそのまま引き継いで生活するようなものではないと言われます。
「復活した人たちは、もう一度死ぬようなものではない。天使に等しいものであり、神の子となる」と言われます。
私たちは、あの世とか、天国とか言って、目に見えるようなかたちで、絵に描いたような姿で、いろいろな場面を想像して、確かなものにしたいという気持ちはわかりますが、それは、この世にいる私たちの誰かが想像して語ったり、絵に描いたりしたものであって、誰も実際に見た人はいません。
そんなことを言われたら困ります。「天国でまた会いましょう」、「お先に行ってますからね」と言って、天国での再会を約束したことはどうなるのでしょうかと言われるかも知れません。
しかし、絵に描いて「この世」をコピーしたような「あの世」での再会は無理かも知れませんが、「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と約束されています。
そのためには、「復活するのにふさわしいとされた者」でなければなりません。
イエスさまは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と。(ヨハネ11:25-26)
パウロも、このように言っています。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかと、聞く者がいるかもしれない。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではないか」(�汽灰螢鵐硲�5:35、36)
パウロもこのように、蒔くる種と、新しくうまれかわる植物の芽生えにたとえて説明しています。
4世紀の古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人で、西方教会の最大の教父、思想家、宗教家で、アウレリユス・アウグスティヌス(354年〜430年)という人がいました。この人は、古代から中世にいたるまでの、カトリック信仰の思想的基礎を築いたと言われています。42歳で司教になった人です。若い時から新興宗教であるマニ教に走り、思想的にも宗教的にも劇的な遍歴を繰り広げました。
このアウグスティヌスが洗礼を受けるにいたるまでは、母モニカの祈りと並々ならぬ心遣いがあったと言われます。母モニカは、親の代からの熱心なキリスト教徒でした。
アウグスティヌスの有名な著作「告白」の中に、母モニカについて書かれた言葉があります。
アウグスティヌスは、西暦387年の復活日に、ミラノで洗礼を受けました。33歳でした。その直後、母の身体が思わしくなかったので、弟と一緒に、故郷である北アフリカのタガステに連れて帰ろうとしました。その途中、オスティアという港町で、アフリカに渡る船を待っている時でした。
母が言いました。「わが子よ。私は、この世での望みはもう十分に果たしてしまいました。この世には、まだしばらく生きていたいと望んでいた一つのことがありました。それは、死ぬ前にキリスト信者になったお前を見たいということだったのです。しかし、今、神さまは、この願いを十分にかなえてくださいました。お前が地上の幸福を捨てて、神さまの僕となった姿まで私は見たのだもの。もうこの世の中で、何も望むことはありません。」
このことを言ってから5日目に、母モニカは高熱を出して意識を失い、最後の少し意識を回復した時に、悲しみにくれているアウグスティヌスと弟を見て言いました。
「お母さんを、ここに葬っておくれ。」
弟は、母親をこんな旅先で死なせたくないと言いました。
二人の母モニカは言いました。
「この体は、どこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を患わせないでおくれ。だけど、ただ一つ、お願いがある。
どこに居ようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
このようにして、病んで9日目、母が56歳、アウグスティヌスが33歳の時、その信仰深い敬虔な魂は、身体から解き放たれました。
私たちは、イエス・キリストの復活を信じます。そして、私たちも、キリストによって、死んでよみがえることを信じます。死んで死にっぱなしではありません。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。死んでよみがえった人も、今、この世に生きている人も、すべての人は、神によって生きているからです。」
一方、私たちには、キリストによるよみがえりを信じる私たちには、神さまから与えられた特別の恵み、特権、とも言えるような恵みが与えられています。
それは、今もこの世にあって生きている私たちは、世を去った人々と交わることができる、その方法が与えられているということです。
アウグスティヌスの母モニカが言いました。
「どこに居ようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
「どこに居ようとも、わたしに会いたくなったら、主の祭壇のもとで、わたしを想いだしておくれ。そうすると、かならずわたしに会えるから」
私たちは、ただ、自分の思い出の中でだけ、亡くなった方を思い出す、偲ぶだけではありません。「主の祭壇のもとで」すなわち、イエス・キリストの名によって、祈る時、イエス・キリストの体と血に与る時、聖餐に与るとき、私たちは、世を去った同じ信仰を持つ人たちと交わることができます。交流することができるのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
と、イエスさまは教えられました。
イエスさまという道を通ってのみ、父である神のもとにいくことができます。神は、すべての者の神です。イエスさまと神さまを通して、世を去った人々と交わりをもつことができます。
これこそ、私たちに与えられた特別の恵みです。いつも主が私たちと共にいてくださるということが、体中で感じられ、すべての人々と共に、主にあることを実感できることこそ、天国ではないでしょうか。
すべての人は、神によって生きているのだから、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだと言われます。(ルカ20:38)
〔2016年11月6日 聖霊降臨後第25主日(C-27) 聖光教会〕