神殿の崩壊

2016年11月13日
ルカによる福音書21:5-19  イエスさまの時代には、エルサレムには、立派な神殿がそびえ立っていました。  旧約聖書の時代のイスラエルは、12の部族が集まって国となっています。この多くの部族を統一し、初めて王となったのがダビデという王さまでした。 ダビデが王に即位したのは紀元前1000年です。その子ソロモンが後を継ぎ、このソロモンが、エルサレムに最初の神殿を築きました。7年の歳月をかけて建造され、石と大理石、そしてダビデ時代からの金銀の財宝をもって建てられた初めての立派な建物でした。  しかし、ソロモン王の子どもたちの時代に、イスラエルは2つの国に分裂し、さらに隣りの国から攻められ、紀元前587年には、バビロニアのネブカデネツァル王によってエルサレムは、攻め落とされ、この時、ソロモンの神殿は完全に破壊されてしまいました。  エルサレムの主だった人たちは、皆、バビロニアに連れていかれ、捕囚として、捕虜として、苦しい日々を送りました。約50年、捕囚時代を過ごし、ペルシャのキュロス王によって解放され、ユダヤ人たちは、念願のエルサレムに帰還しました。イスラエルの人々が故国エルサレムに帰って、先ず着手したのは、破壊された神殿を復興することでした。  彼らは、力を合わせて神殿を建て、紀元前515年にこれが完成しました。これは、第2神殿、ゼルバベル神殿と呼ばれ、ソロモン時代の第1神殿に比べると規模の小さな建物でした。  時代が代わって、ギリシャ、ローマ時代と言われる時代になるのですが、その時代、イエスさまの時代になって、神殿を修復再建したのが、ヘロデ王という王でした。ヘロデ王が王になって17年目、イエスさまがお生まれになる20年前に、この神殿修復の工事が始まりました。10年かかって工事が行われ、なお追加工事が続いていたと言われます。ソロモンの神殿以上に大規模で美しい神殿でした。エルサレムの高台に建てられ、周囲は、円柱と美しい門で囲まれ、その白く輝く大理石の美しさは遠く数キロ離れた所からでも見ることができたといいます。神殿はエルサレムの街全体の6分の1を占めていました。測ってみますと、京都の二条城とほぼ同じ広さだったことがわかります。  この第3神殿、ヘロデの神殿と言われる、イエスさまの時代のこの神殿には、全国から集まるユダヤ人の参詣者で、いつも賑わっていました。  神殿について長々と話しましたが、ユダヤ人にとって神が住んでおられる所と信じ、犠牲をささげる所であり、信仰生活や、さまざまな祭りの中心となっていました。この神殿に対する思い入れや誇りを、想像してみていただきたいと思います。  ある時、ある人たちが、この美しくて立派な建物、見事な石と奉納物で飾られているこのエルサレムの神殿を見上げながら話していました。(ルカ21:5)  これを聞いておられたイエスさまは言われました。  「あなたがたは、この建物、この神殿に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と。  神殿は、すべて石造りです。石の上に石が残っていないというのは、この神殿が取り壊され、崩れ落ちてしまっていることを意味します。そんな日が来る。こんなに壮大で立派な美しい建物が、この神殿が完全に破壊される日がくると、予言しておられるのです。  現に、実際の歴史上の出来事を見ますと、西暦70年、イエスさまが亡くなられて約40年後に、このエルサレムは、ローマ軍によって滅ぼされ、完全に破壊されてしまいました。  ローマ軍に最後まで抵抗した熱心党が、最後にはこの神殿に立てこもり、この神殿が破壊されました。  ルカが、「ルカによる福音書」を書いたのは、西暦80年頃だと言われています。そうすると、ルカは、エルサレムの神殿が、すでに破壊されていたことを知っていたことになります。そのことを知った上で、イエスさまが生きておられた50年前にさかのぼって、イエスさまの予言を伝えています。  ルカは、その上に立って、終末のしるしということに触れ、「惑わされないように気をつけなさい」と言われたイエスさまの言葉を神殿にいる人びとと弟子たちに語られたものとして伝えています。  年配の方々は、ご自分の生きて来られた生涯をふり返ってみていただきたいと思うのですが、長い人生の中には、一度や二度は思わぬ大事件に出会い、さまざまな恐ろしい出来事を体験しておられるのではないかと思います。  戦争を体験された方もあると思いますし、地震や台風や大火事に遭って恐い体験をされた方々もおらるかもしれません。このような転変地変だけでなく、個人的に病気や大怪我をして死ぬような思いをされた方もおられるだろうと思います。事業に失敗したり、急に何もかもうまくいかなくなったりするようなことがあったかも知れません。  年配の方々だけではなく、若い方々にもそのような経験を持っておられる方もおられることと思います。  そのような、日常を越えた大きな事件に出会うと、私たちは異常な心理に追い込まれ、普通ではないパニック状態に陥ることがあります。その時には、平常の時にはしないような異常な行動を取ったり、考えられないようなことを口走ったりしてしまいます。  日頃偉そうなことを言っていても、そのような時こそ、私たちの言葉や行動を通して、また思いや考えを通して私たち自身が試されます。私たちの信仰も、何か大変な出来事に出会った時、その信仰がほんものか、そうでないかが、試みられ、日頃は気づかなかった弱さが現れたりします。  イエスさまは「世の終わりは、すぐには来ない」(9節)と言われ、そして、さらに、語られました。  「民は民に、国は、国に、敵対して立ち上が時がある。そして大きな地震が起こったり、方々に飢饉や疫病が起こったりする。恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」  「しかし、そのようなことが、すべて起こる前に、人々は、あなたがた、すなわち弟子たちやその他のクリスチャンに、手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、イエス・キリストを信じたという、その名のために王や総督の前に引っ張って行かれる。」  「その時こそ、あなたがたにとって、あなたがたの信仰を証しする機会となる。だから、前もって何を言おうか、どう言おうかなどと、弁明の準備をする必要などない。そんなことは必要がないと心に決めなさい。あなたがたにどんなに反対する者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたし(イエス・キリストが)が、あなたがたに授けるからである。」  「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られるようなことが起こる。中には殺される者もいるかも知れない。また、わたし(イエス・キリスト)の名のために、あなたがたが、すべての人から憎まれるようなこともある。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も、神さまの許しがなければ、自分たちの思うようにはならないのだ。そのことを忘れないで、徹底的に忍耐することによって、あなたがたは命をかち取りなさい。」  初代教会の信徒たちにとって、目の前にある最大の問題は、天変地異よりも前に、キリスト者であることによって起こる「迫害」を体験することになるだろうと言われます。イエス・キリストにすべてをささげ、この方に従うか、この方から離れるか、そのことが迫られる時が来る。命を賭けて選ぶことが迫られる時、ほんとうにあなたがたが試される時、試練の時が来る。その時に備えなさい。永遠の命を勝ち取るために、徹底的に忍耐しなさいと、教えられました。  日本の国でも、歴史を振り返ってみますと、キリシタンの迫害が長く続き、大勢の人々が死んだ時代があります。また、太平洋戦争では、クリスチャンというだけで、敵国と通じているといって捕らえられ、牢獄につながれた人たちもいました。  しかし、今、私たちが住んでいるこの時代、この国では、近年になって信教の自由が守られるようになり、今、クリスチャンであるということで、公の場で、迫害されたり、何かを強制されたりするようなことはありません。  しかし、「キリスト教を滅ぼすためには剣はいらない。まわりが寛容にすれば自分で滅びる」と言われます。  2千年のキリスト教の歴史をふり返ってみても、キリスト教は、迫害の時代、難問にぶつかっている時にこそ、その時代のクリスチャンはピンと背筋が伸び、そして強靱な信仰、真剣に信仰生活を守り、信仰に生きてきたように思います。他方、キリスト教が保護され、暖かく寛容な空気の中におかれると、聖職者も信徒も、そして教会全体が、堕落してしまい、生き生きとした姿がなくなり、魅力がなくなってしまいます。  私たちにとって、今、何よりも大きな迫害の中にあるのかも知れません。それは迫害がないという迫害です。私たちが信仰生活を続ける上で、誰からも自由と寛容、暖かく、居心地のよい状況に置かれると、堕落が始まります。それは、言いかえれば、イエス・キリストが求めておられる命から遠ざかり、ほんとうの喜び、ほんとうの救いの手から漏れてしまうことになります。自分の信仰の状態をチェックできるのは、自分自身です。  パウロは、コリントの信徒への手紙一3章16〜17節に、 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と言います。  今はエルサレムの神殿はありません。あなたがた一人一人が神の神殿なのです。神の霊が私たちの中に住んでおられるからです。しかし、壮大で美しく飾られたエルサレムの神殿、人びとが誇りに思った神殿も、たびたび破壊され、建て直されなければなりませんでした。  私たち自身、私たち一人ひとりが、見かけだけではない、神の聖なる神殿でありたいと思います。 〔2016年11月13日 聖霊降臨後第26主日(C-28) 聖光教会〕