ろばに乗った王
2016年11月20日
ルカによる福音書19章29節〜38節
イエスさまは、ご自分が、苦しみを受け死ぬであろう、そして3日目によみがえるであろうということを、3度も弟子たちに予告されてからのち、顔を真っ直ぐあげ、弟子たちと共にエルサレムに向かって行かれました。
エリコという町を通り、さらにオリブ山のふもと、エルサレムの少し手前の町ベタニヤとベトファゲという村に近づいた時、イエスさまは、2人の弟子たちに、不思議なことをお命じになりました。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
2人の弟子は、出かけて行きますと、イエスさまが言われたように子ろばがつないであるのを見つけたました。そこでそのろばをつないでいる綱をほどいていますと、そのろばの持ち主が、「なぜ、その子ろばの綱をほどくのか」と言いました。
2人の弟子たちは、イエスさまが言われたとおり「主がお入り用なのです」と言いました。そして、弟子たちは子ろばを連れて、イエスさまのところに戻って来ました。
そして、弟子たちが、そのろばの背中に自分たちの服をかけると、イエスさまはそれにお乗りになりました。
さらにエルサレムに近づくと、エルサレムの人々がイエスさまを出迎え、自分が来ていた服をぬいで道に敷きました。イエスさまがオリーブ山の下り坂にさしかかった時、弟子たちや、イエスさまについて来た人びとは、みんなで声高らかに神を賛美して始めました。
それは、エリコで盲人を癒されたこと、また同じエリコで徴税人ザアカイが回心したことなど、イエスさまがそれまで行われた数々の奇蹟を目の当たりにした人たちでした。この方こそ、主のみ名によって来る方だと、喜びの声を上げました。そして、前を行く者も後に従う者も声を揃えて叫びました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
これは、詩編118編24〜27にある賛美と祝福の歌声です。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。」
このようにして、イエスさまは迎えられ、エルサレムの街に入られたという出来事ですが、この場面については、ルカによる福音書だけではなく、マタイによる福音書も、マルコによる福音書にも、同じように記されています。
マタイとルカは、マルコによる福音書を見て書いたと言われていますが、この3つの福音書は同じ出来事について書いていながらその個所を読み比べてみますと、少しずつ違っているところがあることに気づきます。
マルコとマタイでは、大勢の群衆が道に自分たちの服を敷き、野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いて、「ホサナ、ホサナ」と叫びながら主イエスを迎えたとあります。
これに対して、ルカは、弟子たちが道に服を敷き、弟子たちの群れが声高らかに神を賛美したと記されています。弟子たちがあまり騒ぐので、これを見ていた群衆の中からファリサイ派のある人たちが、イエスさまに向かって「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったほどだったことがわかります。
イエスさまは、ろばに乗って、エルサレムに入られました。なぜわざわざろばに乗られたのでしょうか。この光景は、何を意味しているのでしょうか。
旧約聖書のゼカリア書にこのような言葉があります。(9:9-10)
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」
この預言が成就されようとしているのだ、今、それが実現しているのだということを示し、イエスさまという方がどのような方であるかということを、弟子たちに教えようとしておられます。
預言者ゼカリアが預言する救い主、王の姿は、立派な馬にまたがり、多くの兵士たちを引き連れて、胸を張って、凱旋将軍のような姿で堂々とした姿で迎えられるような方ではありません。
小さなろばに乗って、足が地に着きそうな格好の悪い姿で、とぼとぼと歩いてくる、そういう姿で来るだろうと預言しました。
その方は、神に従い、神から勝利を与えられた者だ。その方は、決して威張ったり高ぶったりすることはなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗ってやってくる。
その方が現れる時、神はエフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓矢は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。ほんとうの平和は、兵隊や、軍馬、戦車、弓矢によってもたらされるのではない。この方によって、そのようなものは力を失い、世界にほんとうの平和がもたらされるというのです。
さらに、ルカが言いたいことは、エルサレムの市民や群衆は、何もわかっていない。その一週間後には、扇動された群衆は、イエスさまに対して「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んだではないかと言いたいのです。
これに対して、弟子たちは、少しはわかっていました。「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇蹟のことで喜び、声高らかに神を賛美した」とあります。詩編を歌い、賛美と喜びに満ちて、イエスさまを囲みながら、エルサレムの城門を入って行きました。
しかし、弟子たちも、「主の名によって来られる方、王に」と叫び、「見よ、あなたの王が来る。」という預言者ゼカリアの預言を知っていたとしても、その王が、ほんとうに王として神の栄光を表し、王が王となられたのは、人びとから裏切られ、侮辱を受け、鞭打たれ、十字架に釘つけにされた、その瞬間であったことを、この時はまだ知りませんでした。
今日は、「王としてのキリスト」、「ほんとうの支配であるキリスト」について、思いを馳せながら、私たち一人一人がキリストとの関係を深くふり返る時です。
私たちは、イエスさまのほんとうの姿を、ほんとうに知っているでしょうか。
今日の特祷をもう一度、見てみましょう。
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は王の王、主の主であるみ子によって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように」と祈りました。
私たちは、イエスさまという方に、何を見ているでしょうか。イエスさまに何を求めているでしょうか。
正しく、しっかりと、イエスさまを見つめたいと思います。
〔2016年11月20日 降臨節前主日(C年) 聖光教会〕