目を覚ましていなさい。
2016年11月27日
マタイによる福音書24章37節〜44節
ご存知のように、教会の暦では、今日の主日から「降臨節(アドベント)」に入ります。降臨節第一、第二、第三、第四と、四回の主日を過ごして、そして「降誕日(クリスマス)」を迎えます。
降臨節というこのシーズンは、イエス・キリストの誕生、御降誕の日を迎えるために、私たちが心の準備をする期間です。そのために、この降臨節の毎主日には、それぞれにテーマがあります。
今日の、降臨節第1主日のテーマは、「目を覚ましていなさい」ということにあります。
今読みましたマタイ福音書では、24章42節に、
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」
そして、43節にも「目を覚ましていて」とあり、44節では、「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と述べています。
さらに、今読んでいただいた使徒書、ローマの信徒への手紙では、11節以下に、
「あなたがたは今どんな時であるか知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」
と記されています。
言われなくても、私たちは、目を覚ましているのですが、聖書が言おうとしているのは、肉眼の目ではなく、心の目を覚ましていなさいということです。
私たちは、見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わうという5つの感覚、五感で、外からの情報を察知します。私たちは、自分の目で確かめなければ信じないとか、この手で触ってみなければ信じないと言って、自分のこの五感で確かめるのが、何よりも確かだと思っています。
しかし、私たちのこの五感ほど不確かなものはありません。見ているけれども見えていない、聞こえているけれども聞いていないというようなことがよくあります。
それは、「心がここにあらず」という状態で、意識がそこにないとか、神経が集中していないという時に「うわの空」になります。また、そういう場面は見たくない、ありえないと考えている時には、目で見ていても、見えない、意識に残らないというようなこともあります。
頭ではわかっていても心では認めない、気持ちがついていかないというような時には、目に見えていても、否定してしまったり、見えないと言い張ったりしてしまします。
これから、クリスマス・シーズンに入ります。毎年、日曜日の礼拝の中で、聖書朗読には、クリスマス物語が読まれます。昔から、子どもの頃からよく読んでいる、よく知っているクリスマス物語です。「知識」としては物語としてはよく知っているのですが、それだけでなく、その背景にあるクリスマス物語を通して、知ってもらいたい「心」の部分を読み取ることが大切だと思います。
その例を一つ考えてみたいと思います。
マタイとルカの福音書には、イエスさまの誕生の物語が記されているのですが、そのマタイとルカの間でも、内容にすこし違いがあります。
マタイによる福音書では、東の方から来た占星術の学者たちが、星に導かれて、はるばるユダヤのベツレヘムまでイエスさまを拝みに来たという話が記されています。
バビロニアではないかと言われますが遠いところから旅をして、ユダヤの国のエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、ユダヤの王、ヘロデ王に尋ねました。
ヘロデ王にはそのように問われても、その意味がよくわかりません。それどころかヘロデ王はその話を聞いて不安に襲われました。
東方の学者たちはさらに星に導かれて、ベツレヘムに着き、馬小屋に寝かされていたイエスさまにお会いし、持ってきた黄金、乳香、没薬をささげてひれ伏して拝み、自分の国へ帰っていったというお話です。(マタイ2:1〜12)
ところが、ルカによる福音書には、この東の方から来た占星術の学者たちの話は載っていなくて、かわりに、この地方で野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちの物語が記されています。
野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れて、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。天使たちが去った後、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と言って急いで行って、マリヤとヨセフに会い、馬小屋の飼い葉桶に寝かされているイエスさまを探しあてたとあります。 (ルカ2:8〜20)
この当時、エルサレムには立派な神殿があり、神殿には、祭司長や祭司たちが大勢いましたし、またファリサイ派、律法学者という、ユダヤ教の教師たちが大勢いました。ユダヤの王、ヘロデ王もいましたし、長老たちもいました。われこそは、ユダヤ教の専門家、宗教家、また、教育を受けた学者、社会的な地位を持っていると、胸を張って威張っている人たちがたくさんいました。
しかし、彼らの所には、「救い主がお生まれになった」というしるしやニュースは、何一つ知らされませんでした。
遠い東の方の国の占星術の学者と野宿している羊飼いたちにだけ知らされたというのです。なぜでしょうか?
もう少し注意して、このキリスト誕生の物語を読んでみますと、遠い東方から来た占星術の学者たちというのは、ユダヤ人でないことがわかります。ユダヤ人の方から言えば「異邦人」であり、異教徒です。当時、ユダヤ人は、異邦人は救われることのない罪人だと考えていました。
また、野宿して羊の番をしている羊飼いたちというのは、ユダヤ人であっても、社会的には、いちばん身分の低い労働者で、律法を知らない人たち、淨、不浄の区別がわからない人たちとして蔑まれていた人たちでした。
救い主がお生まれになるというこの重大ニュースが、このような異邦人と、身分の低い蔑まれている労働者の所にだけ知らされたのです。
なぜでしょうか。
東の方から来た学者たちと野宿して羊の番をしている羊飼いには共通点があります。それは、両方とも世の中の人たちがみんな眠っている時に、夜眠らないで目を見はっていた、目を凝らして、注意を集中している人たちだったということです。
占星術の学者たちは、夜中に星空を見上げ、目を凝らして、星の動きを観察しています。ちょっとした天体の動きも見落とさないように注意し、その動きから占いをしたり、予言をしたりするのが仕事でした。この時、特別の星を見つけて、わざわざ長い旅をして、馬小屋の中で、飼い葉桶に寝かされている赤ん坊を拝みに来たのです。
一方、野宿して羊の群れの番をしている羊飼いたちは、野原の真ん中で、夜中にひそかに近づいて襲ってくる野獣や盗人から羊を守るために、暗闇の中に目を凝らしています。羊の所有者から羊の群れを預かっている貧しい労働者ですから、羊が襲われたり盗られたりすると大変なことになります。寝ずの番をしている一晩中神経を集中させている人たちでした。彼らに天使たちが現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げました。(ルカ2:9〜13)
毎年、クリスマスに読まれる聖書の個所ですが、子どもでもわかる心温まるお話ですが、そこには大切なメッセージが示されています。
神の子がお生まれになったという、飛びっ切り特別な情報を、先ず第一に手に入れることができたのは、どんな人だったのか、誰だったのかということです。
言いかえれば、イエスさまに出会うことができる人、その条件は何か、どのような人なのかということです。イエスさまを、心から礼拝できる人とは、どのような人だったのかということを、聖書は、伝えたいのです。
それは、職業的宗教家でも、学者でも、この世の地位や身分の高い人でもありませんでした。
神さまの側から言いますと、知識や地位や名誉やお金を持っている人は、そのことに心が奪われているために、神さまが与えようとするものが、見えなくなっています。神さまだけに心を集中することはできません。神さまのみ言葉を真っ直ぐに心で聞く、そのことができません。
反対に、神さまは、この恵みを、貧しい人、弱い立場にある人、虐げられている人に与え、そして、そのような人にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいます。(エフェソ1:8)
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:42)
東方から来た占星術の博士たちと、野宿をして羊の番をし、目を凝らしていた羊飼いたちのこの物語は、「目を覚ましていなさい」「眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言われる言葉を、具体的な物語として、私たちに知らせるために、象徴的な出来事として、描かれています。この物語の心に触れなければ、心の目は閉じたままです。
「目を覚ましていなさい」というのは、私たちの心の目を開いて、イエスさまの方に向けなさい、集中しなさいという意味です。
見えていることと見ていることとは違います。漠然とイエスさまが見えているような気がするというのと、自分ではっきり意識して、イエスさまを見ているということとは違います。「見ている」ということは、実は、「心の目」見開いて見ることだと思います。
世の中は、テレビの画面も商店街も、これから、クリスマスのムードでいっぱいになります。毎年巡ってくるクリスマスを、漠然とそのムードに、はまっているだけでは、クリスマスは見えているけれども、主イエス・キリストの誕生を見ていることにはなりません。
間もなくクリスマスを迎えます。この降臨節の間、心の目をはっきりと見開いて、イエスさまに焦点を合わせ、私たち一人一人の心の中に、新たな気持ちで、イエスをお迎えしましょう。よい準備の時を過ごしましょう。
〔2016年11月27日降臨節第一主日(A年) 聖光教会〕