イエスとバプテスマのヨハネ

2016年12月11日
マタイによる福音書11章2節〜11節 1 バプテスマのヨハネという人物  聖書を開いてみますと、イエスさまがお生まれになった時、また、30歳ぐらいになったイエスさまが、人々の前に姿を現した時、その前に姿を見せる人物がいます。  それは、「バプテスマのヨハネ」という人です。  このバプテスマのヨハネという人は、どんな人だったのでしょうか。  このヨハネが生まれた時のことは、ルカによる福音書の1章に記されています。神殿に仕える祭司ザカリアと、その妻、アロン家の娘エリザベトの間に生まれた子です。  ヨハネが、生まれる前、まだ母エリザベトの胎内にいる頃から、父ザカリアに、天使ガブリエルが現れて、このように告げました。(ルカ1:13-17)  「その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は、主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、すでに母の胎にいるときから、聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らを、その神である主のもとに立ち帰らせる。彼は、エリヤの霊と力で「主」に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を「主」のために用意する」と。  天使ガブリエルが、ヨハネを紹介すると共に、ヨハネの役割について述べています。  その子は、産まれた後、ヨハネと名付けられました。その時、父ザカリアは、聖霊に満たされ、このように預言しました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と。  ヨハネは、このように、生まれる前から、神の言葉を語る人、預言者として、人々を主のもとに立ち帰らせる。「主」に先立って行き、準備のできた民を「主」のために用意する者として、運命づけられていたことがわかります。  ヨハネは、ユダの荒れ野で成長したのですが、その荒れ野にはクムラン教団といわれるユダヤ教の一派が生活していました。そこでは修道院のような厳しい戒律のもとで、禁欲生活を送っていた人だったのではないかと想像されています。  マタイ福音書11章18節には、「ヨハネが来て食べも飲みもしないでいると、あれは悪魔に取り憑かれていると言い‥‥」とあり、ヨハネが、荒れ野に現れ、人々の前に姿を現したその時の姿を、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マルコ1:6)と記されていますから、山から下りてきた仙人のような姿だったのではないでしょうか。  そのヨハネは、当時のユダヤ教の主流をなしていたファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、彼らの教えていることや、していることを厳しく批判しました。  「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9)と。  ヨハネは、このように、人々に悔い改めを迫り、悔い改めた人々には、ヨルダン川で洗礼を授けていました。  イエスさまも、この時、はじめてヨルダン川のほとりに、姿を現し、ヨハネから、洗礼をお受けになりました。  その後の、ヨハネの生涯ですが、数奇な生涯を送っています。  人々に、悔い改めと神の裁きを説いていたヨハネの説教のほこ先は、ユダヤの王族にも及んでいました。  ヨハネは、王族の悪事を容赦なく追求したので、王のヘロデ・アンティパスは、世間体をはばかって、ヨハネを捕らえ、牢屋に閉じ込めました。(マタイ14:3〜5」) 2 旧約聖書の預言の成就  イエスがこの世に来られたこと、イエスさまが、人々の前に姿を現されたこと、イエスさまがさまざまな奇跡をなさったこと、それらは、たまたまとか、偶然そうなったというのではない、大切な背景があります。  それは、昔から語り継がれ、そして、旧約聖書に記されてきた神の「預言」の成就であったということです。イエスさまの時代のユダヤ人は、旧約聖書を律法、預言の書として学び、そこに記された預言が実現されることを、唯一の希望として待ち臨んでいました。偉大な預言者の言葉が、具体的な出来事をもって実現すること、その時にこそ救いが来る、救われるのだと信じ、待ち臨んでいました。  ヨハネは、捕らえられ、牢屋に閉じ込められている時、ヨハネは、牢の中で、キリストのなさったことを聞きました。そこで、自分の弟子たちを、イエスさまの所へ行かせて、尋ねさせました。  「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。  すると、イエスさまは、お答えになりました。  「行って、あなた方が、見聞きしていることを、ヨハネに伝えなさい。  「目の見えない人は見えるようになっている。足の不自由な人は立ち上がって歩いている。重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされているではないか。わたしにつまずかない人は幸いである。」 (マタイ11:5〜6)  イエスさまは、このように伝えなさいと言われました。  この言葉は、かつて紀元前8世紀頃に活躍した預言者イザヤが預言した言葉です。  「心おののく人々に言え。  『雄々しくあれ、恐れるな。   見よ、あなたたちの神を。   敵を打ち、悪に報いる神が来られる。   神は来て、あなたたちを救われる。』   そのとき、見えない人の目が開き、   聞こえない人の耳が開く。  預言者イザヤが預言したことが、現実に、目の前で起こっているではないか。そのことを、あなた方の師であるヨハネに、ありのまま伝えなさいと言われました。  ヨハネの出現も、神の預言の成就ですし、イエスさまがこの世に来られたことも、数々の奇跡が行われていることも、捕らえられ、苦しみを受け、十字架につけられて死んだことも、すべて、預言されたことが成就しているのだと、聖書は主張しています。  そして、イエスさまとは、何者だったのか、イエスさまとは誰だったのかを示そうとしています。 3 イエスとヨハネの関係  ヨハネは、ヨルダン川のほとりで、人々に洗礼を授けていた時、このように言いました。  ヨハネは、まだ見えていないイエスさまを指して、「わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れておられる」と言い、「わたしは、その方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言い、そして、「わたしは、あなたたちに水で洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11) と、紹介しました。  ヨハネによる福音書では、バプテスマのヨハネのことを、このように言って紹介しています。 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について、証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:6-9)  福音記者ヨハネは、バプテスマのヨハネのことを、「まことの光」を証しする人であると、紹介しています。「証しする」とは、「物事をはっきりさせる、今まで隠していたことを明るみに出す、疑わしい点をはっきりさせる、証明する」という意味です。イエスさまのことを指さして、この方こそ、間違いなく「まことの光、その方です」と証明したのです。ヨハネは、わたしはその証人だと言いました。 4 バプテスマのヨハネの役割  イエスさまは、何にもない、無色透明の所に生まれて来られた、現れたのではありませんでした。  人類の歴史の中に、言いかえれば、人類の営みの積み重ねの中に、選ばれた小さな国、ユダヤ民族の信仰生活の中に、イエスさまはお生まれになったのです。  バプテスマのヨハネは、その方の道備えをする者、その方を指さす人、最後の預言者の役割を果たす人、神の救いの到来を前触れする「先駆けする人」として、重大な役割を果たしました。「大切な方」をお迎えするためには、その方の前に立って前触れする人が必要です。その役割を果たしました。   バプテスマのヨハネは、「この方こそ神の子である」と証ししました。(ヨハネ1:34)  私たちは、間もなく主のご降誕を祝う日を迎えます。  主を、お迎えする私たちの心は、整っているでしょうか。 その道筋はまっすぐになっているでしょうか。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされ、曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになっているでしょうか。神の子イエスさまを、受け容れる心の準備は出来ているでしょうか。  もう一度、荒れ野で叫ぶヨハネの声を聴きたいと思います。 バプテスマのヨハネが指さす、証している方を見つめて、主が来られるのを待ちたいと思います。 〔2016年12月11日 降臨節第2主日(C) 〕