インマヌエル

2016年12月18日
マタイによる福音書1章18節〜25節  クリスマスを迎える準備をする期間、降臨節(アドベント)も、今週で4週目となり、そして、今日は、最後の主日となります。教会のアドベント・キャンドルも、毎週一本ずつ灯を増やしていき、今日は、4本全部に、灯がつけられました。  教会の礼拝に使う「祭色」も、降臨節の間は、主のご降誕を待ち望む、心の準備をするために謹みをあらわす紫色ですが、次の主日、25日の降誕日からは、喜びと感謝と賛美をあらわす白色に変わります。  これに合わせて、私たちも、主を待ち望む心、「どうぞ、お出でください」という気持ちから、「よくお出でくださいました」と、喜びと感謝に満たされた気持ちに、変えられ、切り替えられていくのです。  マタイによる福音書によりますと、マリヤは、聖霊によって身ごもったとあります。マリアには、ヨセフという婚約者がいて、ヨセフは正しい人でした。マリアのお腹が大きくなって、目立つようになったころ、結婚前のマリアに子供が生まれるなどということは、信じられないことでした。このことが、表ざたになることを望まないヨセフは、婚約を破棄しようかと考えて、悶々としていました。このように悩んでいる時に、ヨセフは夢を見ました。  夢の中に、天使が現れて、こう言いました。  「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」 (20節〜22節)  このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが、実現するためであった。   『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。    その名はインマヌエルと呼ばれる。』  この名は、『神は我々と共におられる」という意味である。』」  これが、今日の福音書です。  その昔、イエスさまが生まれる800年ほど前、エルサレムを中心にして活動していた預言者にイザヤという人がいました。 その時代の南ユダの王であったアハズに向かって、神の言葉を預言して、イザヤは次のように言いました。  それが、先ほど読まれた今日の旧約聖書の言葉です。  「イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは、人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。  見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。』」と、言葉でした。  イエスさまが、この世にお生まれになったのは、このように、800年前に、預言されたこの言葉の「成就」であると、福音記者マタイは、言っているのです。  イエスさまという方は何者か、イエスさまは、どこから来たのか、イエスさまは、何のためにこの世に来たのか、というような問い、それが、イエスさまの生前も、死後も、最大の疑問であり、どの時代を通しても、最も関心のあるところでした。  ふつうの人でないことはわかるります。イエスさまが、語られる言葉には、今まで聞いたことがない、なによりも、誰よりも権威があります。その教えは、これを聞く人の心を打ち、忘れられない。病気の人をいやし、さまざまな奇跡を行い、人々をひきつける魅力を持つ。いったい、この人は誰なのか、何者なのかと問いつづけます。  ある人たちは、この方に惹かれてついて歩き、ある人たちは、反撥して議論を吹っかけました。  マタイの福音書が言いたいのは、この方は、たまたま、偶然に生まれ、現れた人ではないのだということです。  イエスさまが生まれる前、約800年も昔の、イザヤという預言者の言葉を引用して、この言葉が、今、ここに成就しようとしている、この預言の言葉が、ここに実現しようとしているのだと述べます。  その預言には、生まれてくる男の子は、「インマヌエル」と呼ばれるであろうと言い、そして、今、生まれようとする子は、「インマヌエル」と呼ばれると言います。  この言葉に、この方の、イエスと名づけられる男の子の出現、存在の意味が語られています。  インマヌエルという言葉は、ヘブル語ですが、ギリシャ語でもヘブル語の発音をそのまま写して使われています。その意味は、「神は我々と共におられる」という意味です。  後にも先にも、このよう名前の人は、出てきません。  イエスさま自身に対しても、それ以後に「インマヌエルさん」とか、「インマヌエルさま」とか、具体的な名前として、この名で呼ばれたと記された所はありません。  イエスさまが生まれたことの意味であり、イエスさまとは何者なのかということの意味を表して言葉です。  預言者イザヤの時代からさらに400年ほどさかのぼった時代にモーセという人がいました。  モーセは、エジプトから逃れて、ミディアンの地に行き、その土地で祭司エトロのもとで羊飼いをしていました。  あるとき、羊を追って、ホレブ山に行き、そこで不思議な宗教体験をしました。柴が燃え上がっている炎の中から、神の声が聞こえたのです。「エジプトの国で、お前の同胞イスラエルの民が、苦しめられている。そのうめき、叫び声が神にまで聞こえた。お前は、これからエジプトへ行って彼らを救い出せ。すぐに行って、彼らをエジプトから連れ出せ。」という命令でした。  モーセは、神に言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、わたしが、わたしを捕まえて殺そうとするエジプト王の所へ戻って、イスラエルの人々を導き出さねばならないのですか。」と、抵抗し、文句を言いました。  これに対して語られた神さまの答えは、  「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト3:12)という言葉でした。  そんなことができるはずがありません。わたしを一体何だと思っているのですか、と、問うと、だいじなところで、神さまは、いつも「わたしは、あなたと共にいる」「あなたがたと共にいる」と、答えられます。  聖書では、神はあるか、ないかとか、神を信じるか、信じないかというような議論は、まったく記されていません。それよりも、もっとだいじなことは、「神さまが、いつもわたしたちと共にいてくださるか、いてくださらないのか」ということです。   どんなに苦しい時にも、どんなに行き詰まったときにも、どんなに悲しいときにも、「神さまが、共にいてくださるか」と、いうことが問題なのです。  神さまが共にいて下さるということは、そこに、神さまの祝福があり、神さまの力、勇気、希望が与えられるというのです。  反対に、どんなに、喜んでいても、どんなに利益を得ていても、あらゆる欲望が、かなえらたとしても、もし、神さまが、わたしたちと共に、いてくださらないなら、神の祝福はない、その先は破滅であり、絶望に終わる結果が待っているということです。  モーセは、命じられたように、この言葉を信じて、エジプトに行き、そこからイスラエルの民を導き出し、40年間、シナイの荒れ野をさまよい、たいへんな試練を受けながら、乳と蜜の流れ出る国、カナンの地に到着したのです。  その長い道中は、神さまはいつも、モーセの先となり、後になって、モーセと共にあり、モーセを力づけ、モーセを助けました。この長い物語が、出エジプト物語として、旧約聖書の中心となっています。  イエスさまは、イスラエルだけではなく、すべて人類を、すべての人々を導き出すために、この世に遣わされた神のみ子です。  まず、神さまは、み子イエスと、たえず共におられました。そして、イエスさまご自身も、かた時も離れず、神と共におられました。その共におられるという、おられ方は、安楽や安易な姿ではありませんでした。人々から、誰からも、理解されず、見捨てられ、侮辱され、裏切られ、鞭打たれ、十字架につけられ、命を奪われました。その道を一歩一歩、歩きながら、神は共におられ、キリストも、神と共におられました。  このイエスご自身の、生きざま、死にざま、そして、苦難とゆるしと愛をもって、十字架と復活をもって、わたしたちが、神さまが、わたしたちと共にいてくださることを示してくださったのです。私たちが、神さまと、共にいることができる道を示してくださったのです。私たちが、イエスさまと共にいることによって、神さまが、私たちと共に、いてくださるのだということを示すために、ご自身の身ささげられたのです。  イエスさまとは、何者ですか。イエスさまが、お生まれになった意味は、何ですか。  イエスさまこそ、「インマヌエル」。「神は、われわれと共におられる」そのものなのです。「神は、われわれと共におられる」ということを、神さまのみ心をこの世に、見える姿で表された「インマヌエル」そのものです。  私たちは、「主は、みなさんと共に」、「また、あなたと共に」と、礼拝の中で、呼び交わしながら、キリストの肉と血に与ります。私たちは、心と体のすべてをもって、この方、イエスさまと共にいることを、確認します。そして、実感するのです。  私たちは、新たな気持ちで、まもなく「インマヌエル」(神は我々と共におられる)と呼ばれる方をお迎えします。  「主が、いつも皆さんと共に、おられますように」 〔2016年12月18日 降臨節第4主日 聖光教会〕