「お言葉どおり、この身になりますように。」
2016年12月24日
ルカによる福音書1章38節
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、イエスさまの誕生日です。クリスマスの主人公は、当然、イエスさまです。
しかし、この時に、欠かせないもう一人のだいじな人がいます。それは、イエスさまの母、マリアです。
今夜は、イエスさまの母、マリアさんについて、想いを馳せ、クリスマスの意味を考えてみたいと思います。
マリアは、ユダヤの国、ガリラヤ地方のナザレという小さな村の出身でした。
当時のユダヤの律法では、娘たちは12歳半で結婚できることになっていましたから、マリアは14歳から18歳ぐらいだっただろうと言われています。
ある日、マリアのもとに、大天使ガブリエルが現れました。天使から、「あなたは男の子を産むであろう」と言われました。急にそのようなことを告げられて、年若いマリアは、まず、恐れと不安に駆られ、「わたしは、婚約をしていますが、まだ結婚はしていません。わたしは男を知りません。どうして、そのようなことがあり得ましょうか」と言って、最初は、受け入れることが出来ませんでした
天使は、「あなたの親戚のエリサベトは、年をとって、不妊の女と言われているが、身ごもって6ヶ月になっている。神さまには出来ないことは、何一つない」と言い、それを聞いて、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と言って、この報せを受け入れました。
そこで、マリアの信仰をあらわす言葉として、マリアが歌ったと言われる「マリアの賛歌」が記されています。
マリアは、そこで神を賛美して言いました。
「わたしの魂は、主をあがめ、
わたしの霊は、救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、このような主のはしためにも、
目をとめてくださったからです。
今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、そのあわれみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める物を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 (ルカ1ノ46〜56)
これが、有名なマリアの賛歌です。
マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも、神さまは目を留めてくださった」と、
結婚していない女性が、子どもを産むということによって、神から呼びかけられた者、目を留めて頂いた者、心にかけて頂いた者、であることを知りました。
マリアは、平凡な少女でした。身分の低い、主の「はしため」と自らを呼んでいます。
良いことは何一つできていません。力も能力もありません。
しかし、神さまは、このわたしのような者にも,
目を留めてくださったということを知ったのです。
神さまは、心にかけて下さったのです。そして、神こそ力、神こそ全能、神こそすべての造り主、
その方が、わたしに偉大なことをなさろうとしているということを知ったのです。
マリアの自らを低くする謙虚さが、神によって引き上げられることを知って、驚き、そして、喜びに満たされていくのです。
神さまのまなざしの中にある、自分を見いだしたとき、その幸せに神を賛美せずにはいられませんでした。
この世的に、高いとされる者が、神によって低くされ、低い者が高くされる。卑しめられ、侮辱的な扱いを受けていた者が、神によって自由へと導かれ、解放されていく。
マリアは、不思議な生まれ変わりを、体験的に告白しています。
神さまが目を留めて下さる。言いかえれば、神さまの憐れみ、神さまの愛、神さまが支配されることを、体中で知ったのです。
私たちの信仰や信心は、私たちの尽きることのない欲望を満足させて下さいと、訴えるだけです。
これに対して、マリアの信仰は、神さまから与えられている大きな恵みに気づくことにありました。
マリアの「自分のような」という自分を低くする者が、高められることを知り、神さまを賛美することへと、
心境が変わっていく、このマリアさん心境の変化の原因は何だったのでしょうか。
それは、第一に、「わたしは、主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という、受け入れにあります。
神の顧み、まなざしは、つねにわたしたちに注がれています。その手は、指し伸べられています。
招かれています。
これに対して、わたしたちの方が、これに応え、受け入れているかどうかが問われます。
マリアは、「神さまが目を留めてくださったからだ」と気がつきました。
わたしたちの周りにも、神さまが目を留めて下さっていると思う出来事がいっぱいあるのではないでしょうか。ところが、わたしたちは、それを無視している。または、それに気づいていないのです。
それどころか反抗し、背いています。
第二に、マリアの神さまに対する信頼にあります。
「この身になりますように」といいました。
これから起こることを考えると不安がいっぱいです。
しかし、すべてを神にゆだねる。任せる。神さまへの信頼がありました。
クリスマス物語は、わたしたちに、最も大切なことを気づかせてようとしています。
それは、このような母マリアに、突きつけられた苦痛です。
30年後に、マリアは、身を引きちぎられるような苦悩を味わうことになるのです。
それは、あの十字架の出来事でした。
イエスさまが、ユダヤの役人たちや祭司たちによって逮捕され、裁判を受け、鞭打たれ、十字架を担がされて、ゴルゴタの丘に引っ張って行かれるという出来事に遭遇することになりました。わが子が、十字架に掛けられる。手と足に釘打たれて、苦しみもだえている姿を、その十字架の下から見守っている、その時のマリアの気持ちは、どのようなものだったでしょうか。
胸の中が掻きむしられる、自分の方が死にたいという思いで見つめていたに違いありません。
イエスさまが幼い頃、神殿でささげらようとする時、老人シメオンが近寄って来て、マリアに、
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言しました。その言葉が、現実のものとなりました。(ルカ2ノ35)
かつて、マリアが、天使ガブリエルに、「わたしは、主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と言って、子どもが生まれることを受け入れました。 しかし、その後に、もっと重大な出来事が起こりました。
そのことをも受け入れ、お言葉通り、この身になりますようにと、受け入れなければならいことを、
マリアは、まだ、知りませんでした。
救い主イエスが、この世に生まれた本当の意味は、30年後にイエスさまが背負われた十字架と死、よみがえりによって、はじめてその意味が明らかにされたのです。
町には、賑やかで、楽しいクリスマスがあふれています。
しかし、クリスマスのほんとうの意味を知り、私たち一人一人が、それぞれ、神さまと、自分との関係について、心の中を振り返ってみることが大切なのではないでしょうか。
〔2016年12月24日 降誕日前夕礼拝 聖光教会〕