イエスさまならどうなさるか?
2017年01月01日
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内
にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に
迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされ
て、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく
清い生活を送るようにしなければなりません。
(エフェソの信徒への手紙4章21節〜24節)
明けましたおめでとうございます。
昨年は、皆さんにとって、どのような年だったでしょうか。昨年、与えられ
た恵みに深く感謝し、新しい年が、祝福で満たされた年となりますように、
心からお祈りしたいと思います。
教会の暦では、1月1日、元旦は、「主イエス命名の日」と言われる日で
す。 イエスさまは、生まれて、間もなく、8日目に、当時のユダヤ社会の
習慣に従って、割礼という儀式を受お受けになりました。そして、「イエス」
と名がつけられました。この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使か
ら示された名であると伝えられています。
「イエス・キリスト」という名前ですが、イエスが名前で、キリストが、苗字
だと思っている人がいます。実際はそうではありません。
「キリスト」とは、メシヤ、「油注がれた者」という意味で、「救い主」という
意味です。後の時代にイエスさまを神の子と信じた人たちから付けられ
た称号、身分を表す肩書きでした。
「イエス」という名は、ギリシャ語で、「救い」を意味します。旧約聖書では、
ヘブル語では「ヨシュア」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。
イエスという名は、ユダヤ人の間で、最も広く用いられていて、ごくありふれた
普通の名前で、非常に多かったようです。
その他には、「ナザレのイエス」「ダビデの子」などと呼ばれています。イエス
さまは、いろいろなニックネームや称号で呼ばれています。その名前、呼ばれ
方を通して、その方がどのような方であったをうかがうことができます。
さて、今日は「元旦礼拝」でも、あるわけですが、皆さんはどのような気持ち
で、新年をお迎えになったでしょうか。
最近、日本の国の昔の習慣がなつかしくい思うことがよくあります。私が、
子どものころは、元旦というと、なにか身も心も新しくなるという気分がありま
した。肌着や靴下から靴や上に着るものなど、何もかも新しいものを身につけ
て、ほんとうに新しい自分になったような気分で、お正月を迎えたものでした。
しかし、このごろはあまりそういう意味では、新しくなるとか「改まる」とかいう
感じが少なくなったような気がします。
パウロは、エフェソの信徒への手紙4章22節、23節に次のように言っていま
す。少し要約して言いますと、
「以前のような生き方をしている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされ
て、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」
パウロは言います。わたしたちが新しくされるということは、キリストについて
聞き、キリストに結ばれ、教えられ、すべての真理がイエスさまの内にあると
いうことを、その通りに学んだはずです。だから、「以前のような生き方をして
いる古い人を、脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた
新しい人を身に着けなさい。」というのです。
聖書では、「新しくされる」とか「改まる」ということは、暦がかわり、お正月
が来たから変わるようなものではなく、イエス・キリストによって新しくされる、
イエス・キリストによって生まれ変わるのだと教えています。
それでは、イエス・キリストによって新しくされるとはどういうことなのでしょう
か。
何年か前に、テレビで、京都のある有名な禅宗のお寺が紹介されていまし
た。若い僧侶が入門を許され、朝早くから夜まで、座禅に明け暮れして、修
業する姿が紹介されていました。
座禅を組んでいる時も、食事をする時も、庭の掃除など作業をする時も、
托鉢をして町を歩く時も、すべて細かく定められた作法通り、これを厳しく守
ることが、求められています。
その中で、そのお寺の偉いお坊さんが、インタビューに答えて言っていまし
た。禅の神髄は「真似をすることです」と。
開祖以来、歴代の先輩修業者の真似をすること。まず、ただ、ひたすら真
似るということ、徹底的に真似をすることが修業だと言います。徹底的に真
似ることができた時、初めてほんとうの個性というものが、光るのですと言
っていました。
これを聞いて、なるほど、キリスト教にも共通するところがあると感じました。
私たちの信仰というものも、先ず信仰の良き先輩の考え方や生活、行動
を真似るところから出発するのではないでしょうか。
毎週、毎日、繰り返している礼拝も、このような礼拝の形を生み出し、語り
伝えた、2千年を越える私たちの先輩の礼拝生活を、実は真似ているので
はないかということです。それをさらにさかのぼれば、イエスさまにたどり着
き、私たちの信仰生活は、あのイエスさまが考えておられることを、私たち
の考えとし、あの方が愛されたように、人を愛し、あの方が生きたように私た
ちも生き、そして、あの方が死なれたように私たちも死ぬということです。
徹底的にあの方の真似をしようとすることが、私たちが信仰に生きるという
ことではないかと思います。
イエスさまは、繰り返し「私に従いなさい」と言われました。「わたしについ
て来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ
い」と。 (マタイ16:24)
イエスさまに従うということは、イエスさまについて行くということです。イエ
スさまが、歩まれる足跡を踏みながらついて行くということです。その時には、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、ついていくのです。
そして、パウロは、その同じことを、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」
という表現で、人々の勧めました。人がぬいぐるみや着ぐるみを着て、その
動物や人間に成りきるように、キリストによって、新しく生まれ変わった人は、
キリストその方を、上に着るのです。
「キリストの真似をする」「キリストに従う」「キリストを着る」それは同じ意味
のことを言っているのだと思います。
それは、どうすればもう少し具体的にいえば、どうすればいいのでしょう。
ここで、今年の年頭にあたって、提案したいと思います。
それは、「イエスさまなら、どうなさるか」と、考えながら毎日の生活をする
ということです。ほんとうは、24時間、毎日、「イエスさまなら、どうなさるか」
と考えながら生活できれば、すばらしいのですが、なかなかできません。
一日に1回でも2回でも、何かの時に、「こんな時、イエスさまならどうなさる
か」を考えるのです。
とくに困った時、苦しくなった時、悲しい時、行き詰まった時、「イエスさまな
ら、どうなさるか」と考えてみるのです。
英語で、「もし、あなたならどうなさるか」という言葉を、If you were in my
shoes. といいます。直訳すると、
「もし、あなたが、わたしの靴の中に居たなら」となります。もし、あなたが、
わたしの立場だったらどうしますか、という意味です。
もし、イエスさまがわたしのこの立場におられたら、何と言われるだろう
か、どうなさるだろうか、なさらないだりうかと、尋ねてみることです。
カーッとなっている時でも、ちょっと踏みとどまって、イエスさまならどうなさ
るかを考えてみることです。
そして、「イエスさまならそんなことはなさるはずがない」「きっとこうなさる
に違いない」と思った時には、勇気をもって、それを実行するのです。
それも、すぐにはすべて実行出来ないかもしれません」しかし、少なくとも、
1歩でも2歩でも、それに近づこうと努力してみることです。
そのためには、イエスさまのことを、イエスさまの考えや、イエスさまのな
さったことを、良く知っていなければなりません。日頃から、聖書を読んで、
イエスさまのことをよく知っていなければなりません。安っぽい絵で描いた
ようなイエスさまの像を、イエス様だと思い込んでいると、正しいイエスさま
の答えは出てきません。
先ほど、今日の特祷とともに、祈祷書にあります「新年の祈り」を祈りま
した。その中に、「どうかこの新しい年の始めに当たり、わたしたちがが召
されて保つ使命を新たに悟り、絶えず主の道を歩み、ついに永遠のみ国
に至る幸いにあずかることができますように」と、祈りました。この「絶えず
主の道を歩み」とは、どういうことでしょうか。それは、つねにイエスさまの
まねをし、イエスさまがなさったようにすることです。
こんな時、「イエスさまならどうなさるか」。この言葉を、私たちの今年の
合い言葉にしながら、生活したいと思います。
よたよた、もたもたしながら歩もうとしている私たちを、イエスさまは、に
こにこしながら、支え、励まし、力づけ、ゆるしてくださるだろうと思います。
主にある交わりと、主の祝福がゆたかにありますように。
〔2017年1月1日 主イエス命名の日・元旦礼拝 聖光教会〕