あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

2017年01月08日
マタイによる福音書3章13節〜17節  教会の暦では、今日は、「顕現後第1主日」という日です。  また、イエスさまが、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったということを 記念する「主イエス洗礼の日」でもあります。  「顕現」とは、ものごとの本質や意味についての、突然のひらめき、直感とか悟りという意味で、 キリスト教では、神さまが、神さまの方からご自身を人々の前に現されることを言います。  いつも、神さまは、隠れておられるます。私たちの目には見えませんし、声を聞くこともできません。  しかし、時には、チラッ、チラッと、ご自身の方からご自分のみ心、ご意志を現されることがあります。  教会の暦では、クリスマスの後、1月6日を、「顕現日(エピファニー)」といい、神さまは、異邦人 (ユダヤ人以外の人びと)にも、イエスさまがお生まれになったことを報らされたということを記念します。 キリストの誕生物語の中で、星の導きによって、遠い東の方の国から、占星術の学者たち、ユダヤ 人からすると異邦人、異教徒、罪人と言われている人びとに、「ユダヤの王」がお生まれになったと いうことを知らせ、彼らは、遠路はるばる、その方を拝みにきたという出来事を記念します。  私たちは、この「顕現日」「顕現節」というシーズンを通して、神さまは、ユダヤとかイスラエルとか いう特定の民族を越えて、世界中の人びとに、いろいろな方法で、ご自身を現されたということを学び ます。  さらに、今日の主日は、「主イエス洗礼の日」という、もう一つの特別の記念日でもあります。  イエスさまは、ガリラヤのナザレで、大工であったヨセフと母マリアのもとで成長し、青年となりました。  30歳ぐらいになって(ルカ3ノ23)、イエスさまは、突然、人びとの前に姿を現されたのですが、 その前に、もう一人、洗礼者ヨハネという人が居て、ヨルダン川沿いの一帯に現れ、人々に悔い改め をすすめ、この川で洗礼を授けていました。  「洗礼」を、バプテスマと言いますが、ギリシャ語で「水に浸す」という意味から来ています。 洗う、清める、魔除けと言った意味にも用いられます。  ヨハネは、荒れ野に現れて、罪の悔い改めを迫り、悔い改めた者には、ヨルダン川で洗礼を授けて いました。 (マルコ1ノ4)  マルコの福音書では、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けら れた」と、短い言葉で、さらっと書いています。  ルカ福音書にも短く書かれていますが、今、読みましたマタイ福音書では、その時の様子を、もう 少し、くわしく記しています。  「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるた めである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼 を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えにな った。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』 そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられ た。」(3ノ13〜16)  イエスさまが洗礼をお受けになった」ということは、それをどのように理解したらいいのか、私たちに、 非常に難しい問題を投げかけます。  イエスさまは、「神の子」であると、私たちは信じています。したがってイエスさまには、「罪」がない、 罪を犯すはずがないと思っています。  しかし、当時、洗礼者ヨハネが、ヨルダン川のほとりで勧めていたのは、罪の悔い改めを求め、罪を 告白する洗礼でした。罪を犯したことがない、神の子イエスさまには、そのような洗礼を受ける必要が あったのか。なぜ、洗礼をお受けになったのかという疑問です。  そのことは、すでに初代教会でも問題になっていたようです。先に読みましたように、マタイ福音書 では、最初、ヨハネは、イエスさまの洗礼を思いとどまらせようとしたとあります。  このことについて、各時代の神学者は、さまざまな解釈をしてきましたが、多くの人びとは次のよう に理解しています。  イエスさまは、「神」でありながら人になられた方です。完全な神でありながら、同時に、私たちと同じ 肉体を取って、完全に「人」となられました。ご自身は罪を犯していなくても、人として、他のすべての 人たちと同じ罪を負われたのだと考えます。イエスさまは、苦難の僕として、十字架に向かって歩む 生涯を送られたのです。  人々にとって、罪が赦されるとする洗礼は、イエスさまにとっては、すべての人の罪を担う、「苦難の 僕」としての道を歩み出す第一歩だったということになります。  人々に代わって、すべての人の罪の赦しを得させる代償として、苦難を受けた後、十字架上で死な なければならないという使命を負っておられました。その自らの使命を確認するかのように、罪人との 連帯のために、洗礼をお受けになったということができます。  さらに、マタイ福音書では、ヨハネは、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、 わたしのところへ来られたですか」と言って、イエスさまが、洗礼を受けようとされるのを止めようとし ました。  すると、イエスさまは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい ことです」と、言われました。  「正しいことをすべて行うのは」という、「正しいこと」とは、何でしょうか。  それは、人間が頭で考える「良い」とか「悪い」というようなことではありません。  神さまのご意志(み心)にかなっているかどうかということです。神さまのみ心にかなっていること だけが正しいことなのです。  神さまの意志に従うことにのみ、イエスさまが、生きようとする生き方が、ここに示されています。  イエスさまが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになるということは、神さまのご意志だからだと、 イエスさまは、はっきりと言われます。  さらに、  「イエスさまが水の中から上がるとすぐ、天が裂けて「霊」が鳩のように御自分に降って来るのを、 御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こ えた」(マルコ1ノ10、11) とあります。  このような現象は、たぶんイエスさまだけがご覧になったものだと思います。イエスさまがこれから 歩もうとされる「道のり」への使命感の確認と、神さまのご意志に、ますます強くに従おうとされる 決心があります。  その瞬間、これに応えるかのように、聖霊が降り、神の声が聞こえました。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきました。  神は、最も愛する独り子を、この世に、お与えになりました。  神は、その独り子を、人々の罪を負って、十字架への苦しみの道を歩かせるために、この世にお 遣わしになりました。そして、そのことを確認するかのように、父である神の意志に従おうとする 我が子の存在を確認しています。  「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきました。 イエスさまは、その声をはっきりと聞き取られたのでした。  真っ暗闇の夜、田舎道を歩いていますと、雷が鳴り、ときどき、山の向こうに稲光が走るのを見た 経験を思い出します。その瞬間だけ、周りの山々の稜線が浮かび上がり、田圃や畑や草むらが、 目の中にはっきりと焼き付くように感じたことを覚えています。  神さまは、ご自分のみ心を、ピカッと光る瞬間のように、チラッと、垣間見せる不思議な出来事を 通して、私たちに顕わされます。  この頃では、どこにも街灯があり、あちこちから漏れる光が、辺り全体を照らし、ほんとうの真暗 闇が無くなったために、反対に雷光や稲光りというものが見られなくなりました。  神さまは、神さまの方から、いつも信号を送り続けておられます。 しかし、私たちの心が鈍く、私たちの心が、他のものに妨げられて、曇ってしまっているために、 その信号を見落としたり、見失ったり、無視してしまったりしています。  そして、何よりも最大の、決定的な、神さまの「顕現」は、今から約2千年前、人類が住むこの世 に、そのひとり子であるイエスさまを、歴史上の「人」として、私たちのためにお遣わしになったと いうことです。  この方を通して、私たちは神さまのご意志、神さまのみ心をはっきりと受け取ることができるの です。  この顕現節の期間、神さまご自身が、私たちに語りかけられる声を聴き、神さまご自身が与えて 下さる恵みを体で感じることができますように、心の耳、心の目をしっかりと見開き、心を研ぎ澄ま して過ごしたいと思います。    〔2017年1月8日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(A)  於・聖光教会〕