「わたしについて来なさい。.」
2017年01月22日
マタイによる福音書4章18節〜22節
イエスさまには、大勢の弟子がいました。
ひと口に弟子と言っても、聖書では、いろいろな意味に用いられています。大きくわけて広い意味の「弟子」と、狭い意味の「弟子」に分けることができます。
広い意味の弟子とは、ユダヤ人の中で、イエスさまに、好意を持ち、イエスさまの一行について歩いていた人たちがいました。イエスさまのフアンというか、追っかけ、支持者、共鳴者、シンパ(sympathizer)と呼ばれる人たちと言われる人たちです。
もっと、一般的に、クリスチャンを指して「弟子たち」と言っている所もあります。
ルカによる福音書6章には、「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」(6:17)とあります。
また、ヨハネの福音書6章には、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて「あなたがたはこのことにつまずくのか。」言われたあります。(6:60)
イエスさまを取り巻いて、ぞろぞろついて歩いている人たちにはいろいろな人がいたことがわかります。
これに対して、狭い意味の「弟子」がいました。イエスの直接の弟子というか、すなわち12人の弟子たちのことを指します。すなわち、ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダ、この12人が、いわゆる12弟子と呼ばれています。
この12弟子は、いつもイエスさまと行動を共にし、最も近くにいて、イエスさまから教えを受け、イエスに訓練され、宣教者として派遣されました。イエスさまと同じように、悪霊を追い出す権能を持たせたとも記されています。
イスカリオテのユダ以外は、最後まで、イエスさまと行動を共にしました。十字架上で苦しむイエスさまを見、お墓に葬られた後、3日目の朝、空っぽになった墓を見届け、復活の証人となった人たちでした。
弟子としての道はきびしく、イエスさまに対する忠誠が要求され、ほんとうの弟子となるためには、一切を捨て、十字架を背負って、従わねばならないことを、イエスから要求されました。そして、何よりも大切な掟として、互いに愛し合うべきことが教えられました。
このようなイエスの弟子になるためには、一人ひとり、イエスと出会う、時と場面があり、イエスの招きがありました。
今日の福音書には、短い文章ですが、ペテロとその兄弟アンデレ、そして、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネと、それぞれの、イエスさまとの出会いの場面が記されています。この人たちが、イエスさまの弟子になっていく様子が記されています。
まず、ペテロとアンデレは、ガリラヤ湖のほとりで網を打って魚を捕る漁をしていました。かれらは漁師でした。イエスは、この2人に、
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると2人は、すぐに網を捨てて、イエスさまに従ったとあります。
この頃、日曜学校などで、このイエスさまと、弟子の話をすることが、非常に難しくなっています。
今、学校や家庭では、知らないおじさんに声をかけられても、口をきいてはいけません。知らない人について行ってはいけません。頭を撫でに来たら、いちもくさんに逃げなさいと教えています。
いわば、人を見たら泥棒と思え、人を信じるな、道を聞かれても人に親切にするなという、すべての人に不信感を持たせるような教育をしています。まことに悲しいことであり、やはりどこかおかしいという気がします。
イエスさまと、ペテロ、アンデレの出会いは、今日の教育からは考えられないことでした。このマタイによる福音書を見る限り、イエスさまは、ご自分の方から、自己紹介をしていませんし、ペテロもアンデレも、この人について何も知っていません。この人たちの前では、何も教えていませんし、奇跡も行ってもいません。
初対面の人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言い、招いたというよりも、命令して、「ついて来なさい」と言われたのです。
そして、これを聞いてペテロとアンデレの兄弟は、手に持っていた網を捨てて、「すぐに」イエスに従ったのです。
さらに、イエスさまは、進んで行かれて、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネが、父と一緒に舟の中で、網を繕っているのをご覧になりました。そして、このヤコブとヨハネにも、声をかけ、お呼びになりました。ペテロとアンデレに言ったのと同じように「ついて来なさい」と言われました。 すると、彼らは舟も父親もそこに残して、イエスに従いました。この時にも、「すぐに」従ったと、述べられています。 聖書には、その時の場面の、背景や時間の経過については、それ以上くわしくは何も記されていません。
しかし、言いたいことは、ペテロも、アンデレも、ヤコブも、ヨハネも、「すぐに」従った、ついて行ったということです。
私たちなら、このような時、いろいろなことを考えます。
この人について行って大丈夫だろうか。信用できる人かどうか。何をしてくれるか。ついて行って将来に見込みはあるのだろうかと、考えます。身元調査をして、肩書きを見て、よく話を聞いて、人の噂も確かめて、そして、信用できるか、信頼できる人かどうかを決めます。
ここで問題になるのは、信頼が先か、従うのが先かということです。現在の教育は、信頼できないから、ついて行ってはいけないと教えます。
信仰と服従の関係について、ボンフェッファーというドイツの神学者は、まず「従うことが先だ」と言います。
神を信じるかどうか。神が信じられるかどうか。神は信じるに値するかどうか。じっと座って考えても答えは出てきません。それよりも、まず命令に従うことです。まず、神の声を聞いて立ち上がることです。
ちょうど、椅子に座っている人に、「立ちなさい」といって、すぐに立ち上がるのと同じように、体を動かすことです。
まず従いなさい。そうすればどのように信じればいいか、信じて生きるということは、どういうことかがわかります。
ペテロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、「わたしについて来なさい」と言われて、まず、立ち上がり、そして、歩き始めました。生活の手段である魚をとる網も、舟も、父親さえもそこに残して、言いかえれば、経済的な裏付けや将来の生活の心配、損や得を越えて、それらのものを全部捨てて、イエスさまに従ったのです。イエスさまの弟子になったのです。
「信じられたら従います」という考え方では、イエスさまの弟子にはなれません。神の国を受け取り、永遠の生命に至る道、ほんとうの幸せに触れることはできません。
「2人は、すなわち、ペテロとアンデレは、すぐに網を捨てて従った。この2人(ヤコブとヨハネ)もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
私たちは、今、イエスさまとは、どのような関係でしょうか。ただ、洗礼を受けて、クリスチャンになって、イエスさまを、遠巻きにして、取り巻いている群衆の後から、かろうじてついて歩いている状態でしょうか。イエスさまが、近くにいて、招いてくださっているのに、無視して、目をそらして、過ぎ去っていかれるのを見守っているだけでしょうか。
クリスチャンを自負するならば、「わたしに従いなさい」という声を、しっかり、受け取り、「はい!」と言って、立ち上がりたいと思います。
イエスさまは、言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12,13)
〔2017年1月22日 顕現後第3主日 聖光教会〕